3-3.
探し人が思ってもみなかったタイミングで出現したことにすっかり目を覚ましたのは荒川も同じだったようで、しかも荒川の方がその人から名指しで話しかけられているため予想外度の大きさは俺とは比較にならなかっただろう。しかし荒川は、俺には見せたこともない素直な顔でキョトンとし、
「あたしのこと知ってるの?」
これが他の人物であれば即座に変態認定されそうなのにこの対応の違いは何だと俺が抗議したい心持ちでいるのもどこ吹く風、五十嵐アリスは下級生にタメ口で話されたのも気にする様子なくどこまでもさわやかに、
「知ってるのなんの! 輪子ちゃん、学校中で有名人になってるわよ? 校舎の中を自転車で駆け抜けたスーパーヒロインだってね。あたしもこの前、あなたが階段で遊んでるところをたまたま見かけてね。カッコよかったわぁ。どの技も完璧で、思わず見惚れちゃったくらい!」
ここからは、今度は俺の遥かなる予想外だった。まず、褒められたのがよほど嬉しかったのだろうか、荒川は朝から今の今まで維持し続け解消されるどころかどんどん黒くなっていく一方だったそのどんよりオーラを一瞬で吹き飛ばし、途端に弾けるような笑顔をその顔に作ったんだ。
でもそれは初めて見る表情というわけでもない。入学式から今まで彼女が自転車の話をする時にだけ数回見せた、あの心から楽しそうな笑顔だった。
それだけで事は済まない。荒川に話しかけたこの見目麗しい上級生もまた、ただ者ではなかった。
何ということだろう、一年一組の生徒の誰もがこれまで成し得ず、またこれからもそんな強者が現れることはないだろうと思われていたこと――つまり、荒川と楽しく会話するということを、この人は楽々と、隣人と世間話をするのと同じくらい何でもないことかのようにやってのけてしまったんだ。
覚えているだろうか? 荒川は学校や授業のことなどあくまで事務的なことを除いては、自転車(とケーキ)の話題以外のことを一切話さないんだ。それも楽しげに会話するなんてもっての外。俺は事の成り行きでこの女子生徒と話す機会を強制的に付与されていたわけなのだけれど、それでも楽しい思いをして話したことなど一度もなかった。
互いに親交を深め合うような生産的な会話なんてあった試しがない。つまり荒川輪子という女子生徒と普遍的な友人同士の間で取り行われるような会話をしたいというのならば(そんな変人がもしいるのならば)、少なくとも話題を自転車(かケーキ)のみに絞ることは最低条件で、かつ荒川の自転車に対する変態的狂愛を理解しまた彼女が繰り出す自転車についての最高難度を誇る話題についていくことのできる知識と経験、及び度量を兼ね備えていることが必要なはずだったのだけれど――
どうやら、五十嵐アリスはその全ての素質を持ち合わせていたらしい。
ふたりは俺をそっちのけで実は昔からの仲良しでしたとでも言うかのように話し出したため、俺は無口で大人しいキャラだった友人が彼の古くからの知人に会った途端に芸人顔負けの饒舌になったのを目撃した時のような気持ちでただ突っ立っているしかなかった
その話の内容というのがおそらく自転車のことなのだと推測はできたけど、何しろ飛び交っている単語の九割が意味不明なんだ。そのせいで俺は脳の言語中枢だけ綺麗に撃ち抜かれた錯覚に陥り、最初の方に巨大なフレームがポンパカニョロニョロみたいなことを言ってたのだけかろうじて聞き取れたけどそれ以上は聞く気も起きなかった。英語もできないのに海外に行ったらこんな気分になるのかな? これはストレスだぜ。
少しだけ日本語らしき会話もあったので重要そうなところだけ抜粋すると、
五十嵐アリス(以下ア):「そういえば輪子ちゃんはこんなところで何してたの? そちらの方はお友達かしら? お昼休みにデート中?」
荒川輪子(以下リ):「ううん、これはただのクラスメイト。一緒にいるのは事の成り行きっていうかなんて言うか。ええっと、何でここにいたんだっけ? 覚えてないや。アリスちゃんの方こそ、何でこんな時間にこんなとこに? 食後の散歩でもしてたの?」
ア:「うふふ、まあそんな感じかしらね~。ここだけの話、本当はお昼休みくらいゆっくりご飯を食べたいんだけど、チームの人たちがうるさくてね。いつもは無理言って教室でお弁当食べてるんだけど、たまにはあっちにも顔出してあげてるの。今日はみっちり体幹やらされてきたから、ちょっと休憩って感じね。それでお散歩してたら、たまたまあなたを見つけたって感じよ」
リ:「へー。あたしたちもたまたまここにいただけなのに、こんな偶然もあるもんなんだね。にしてもそのチーム、すっごい徹底されてるんだなぁ。さすがプロって感じ。あっ、アリスちゃん、今度一緒に走りに行こうよ! アリスちゃんの走り見てみたい!」
ア:「いいわねぇ! あたしも輪子ちゃんの走り見たいわ! うわぁ、あなたの走りを間近で見れるなんて光栄だわぁ。楽しみ!」
残り数分でチャイムが鳴りそうな気配をひしひしと感じていた俺は耐え兼ね、
「荒川。話の途中で悪いけど、もうすぐタイムリミットだ。さっさと用件だけ言っちまおう」
荒川はすこぶる楽しそうな顔のまま振り返ってきて「何だっけ?」ととぼけた顔をする。俺はその頭を引っぱたいてやりたい気持ちを押さえつつ、
「自転車部の部員を集めるんだろ? それを忘れてどうすんだよ」
「あっ、そうだった!」
荒川はポンと手を叩くというオーバーリアクションをしてから五十嵐アリスの方に向き直り、まだ興奮が収まらない様子で、
「ねえアリスちゃん! 実は今あたし、自転車部を作ろうとしてるとこなの。ほら、この学校って自転車の部活ないじゃん? だから自転車好きな人を集めて、作っちゃえばいいじゃん、って思って。チームの方のトレーニングで忙しいかもしれないけど、暇な時に参加するだけでもいいから! そしたらその時にも一緒に走れるし。だから、どう? 入ってもらえない? ていうか入って!」
初対面の上級生に向かって何とも図々しい要求のように聞こえて仕方なかったけど、荒川は元より五十嵐アリスのことを上級生じゃなく同じ趣味の仲間として認識してしまっていたらしい。
五十嵐アリスの方もそんな荒川の反応にまんざらでもなかったのか、気を悪くした様子は露も見せずにむしろ突然幸運の女神が舞い降りてきたかのように目を感激の色に染めて、
「えっ、いいの!? やったぁ! もちろん入るわ! あたしもずっと、学校に自転車部があったら良かったのにって思ってたのよね。まあチームの方があったから別に無理に作ろうとはしなかったけど、作ってくれるっていうのなら断る理由なんてないものね。誘ってくれてありがとう! 嬉しい!」
ふたりはすっかり意気投合してしまったようでハイタッチまでしていた。荒川の方は先輩に向かって「アリちゃんって呼んでいい!?」なんて聞いてるし、五十嵐アリスの方も快く了承したうえで「じゃああたしは輪子ちゃんのこと、これからリンリンって呼ばせてねぇ」なんて言っている。俺は自転車を好む者たちの結託の早さに脱帽しつつ、拍子抜けするほど早くも部員をひとり確保できたことに胸を撫で下ろす思いだった。
それからやる気満々になった荒川が五十嵐アリスに部活動結成の段取りを説明しつつ連絡先を交換し、頭数を揃えられたらまた連絡するという最終決定が下されたところでタイミングよくチャイムが鳴ったため、この日はこれで解散となった。午後の授業中、荒川は昼休みに獲得したスマイルを終始保っていたのだけれど、朝から果てしなくダークなオーラを纏っていたひとりの生徒が席を外したと思ったらとても幸せそうな顔をして戻ってきたという奇妙極まりない光景を目撃したクラスメイトたちからまたしてもこの短時間で何があったのかと俺は多量の疑惑の視線を浴びるハメになったのだった。
とにかく、これで部活を成立させるための最低人数まであと二人。スバルの計らいによって早くもひとり目は見つかったものの、同じ調子で残りのふたりもスムーズに見つけられると安直に思い込めるほど俺は生ぬるい人生を歩んできたわけでもない。
それに、遠からず直面するであろう他の問題もあった。もちろんそれも右隣で今はルンルンしている女子に関することなのだけれど、俺はむしろ彼女が気分を上昇させればさせるほどに不安が大きくなっていくのを止められずにいた。
本人は何も気にしていないように見えるけど――彼女はこの後、来た時と同じように電車に乗って家へ帰らないといけないんだ。今日この日に初めて乗って最悪な体験をしたとついさっき本人が語った電車に、な。
そのことを忘れてないといいんだけど……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます