2-17.


 荒川輪子はしばらく何も言わなかった。何やら悔しそうに肩をプルプル震わせていたかと思えばいきなり力が抜けてしまったかのように椅子に座り込み、ふてくされるようにして机に突っ伏せてしまう。


 思春期の女子がこんな風になってしまった時の対応マニュアルをまだ知らなかった俺は救いを求めてスバルを見る。でもスバルはスバルで別にベテランな先輩というわけでもなかったらしく、「どうしよっか?」とでも言いたげな顔で見つめ返された。知らん。俺に聞くな。

 

 その時だった。突然頭の後ろから大地を震わせるような低音が鳴り響き、俺とスバルは揃って後方へ振り返る。俺は、この時ばかりは彼が、敵軍に完全包囲されて絶体絶命のピンチの最中に味方を救うべくやって来た英雄のように勇ましく見えたのだった。


 希望の光を伴って現れた騎士は諦めかけていた俺たちの心の不安を取り除いてくれるような重厚だがやわらかな声で、

 

 「ええっとな、別に自転車で登校することは構わないんだよ。ちゃんと自転車置き場を活用してくれさえすれば、な。教室に自転車を持ち込んだり、校内を自転車で走ったりすることさえなければ、後は俺は何も言わん。それだけの話なんだけどな」

 

 声の主がテラサキだとわかって俺が拍子抜けしていると、黙秘権を行使していた荒川輪子は両腕に顔をうずめたまま足をバタバタさせ、

 

 「やだやだ! あんなとこに置いとけるわけないじゃん! あんなきったない駐輪場に置いといたらいつ傷つけられるかわかんないし、誰かにいたずらされるかもしんないし心配でたまったもんじゃない! 無理、ぜーーーったい無理! あそこにこのコたち放置するくらいなら最初からドブに捨てた方がマシよ!」

 

 この女子生徒は自分の学校の設備をドブ以下だと思っているらしく、俺は曲がりなりにもこの学校の生徒であるため自分の愛する母校を罵倒されたことに並々ならぬ不快感を催していたのだけれど、どうやら俺よりも愛校心が小さかったらしいスバルは何も気にしていない様子で、

 

 「つまり、自転車を安心して置いておける場所があればいいってことだよね?」

 

 荒川輪子は反応しない。騒ぎ疲れて寝てしまったのだろうか?

 

 スバルは自分の提案がよほど気に入ったのか何やら乗り気な顔で、


 「江戸君、どっか思い当たるとこってない?」


 「俺かよ」


 思わず突っ込む。

 

 てっきりスバルがナイスな案を出して荒川輪子もテラサキも賛同し、みんなハッピー一件落着な展開になるとばかり思って肩の荷が降りた気でいた俺は狼狽えた。

 

 自転車の置き場所? そんなのは自転車置き場しか思いつかないぞ。自転車置き場なんて名前が付いているんだから自転車を置きたいのならそこに置くべきであって、逆説的に論じてみても教室や廊下といった名前の場所は自転車置き場という名前が付けられなかったのだからそこは自転車を置く場所ではなく従って自転車を置くべきではない。


 そう考えれば結果論的に見てみても自転車を置くための場所にはすべからく自転車置き場という名前が付けられているはずであって、やはり自転車は自転車置き場に置くべきだろう。要するに自転車置き場以外に自転車を置く場所なんてないんだ。そういうことだ。諦めるしかない。

 

 俺は潔く降参の意を表そうとしたのだけれど、その時ふと荒川輪子が同じように諦めの境地に入ったような顔をして体を起こし、ぽつりと一言。

 

 「いいよ別に。やっぱりあたし、学校やめるから」

 

 「まーて待て待て待て」

 

 俺は慌てて考える。史上最高の頭の回転速度かもしれない。こんなに焦ったことはかつてなかった。それくらい俺は、学級委員になりたくなかった。だってめんどくさそうじゃん?

 

 「先生」

 

 テラサキのことを先生なんて呼んだのも初めてだし、それどころか自分からテラサキに話しかけること自体が初めてだった。

 

 俺がいつになく真剣になっていたのが意外だったのかマヌケみたいな顔をするテラサキに向かって俺は死人のような顔をしている荒川輪子を指差しながら、

 

 「こいつのために、校内に専用駐輪場を作るのはどうでしょう」

 

 テラサキは何のつもりかあたふたとしながら、

 

 「い、いや、それはだな、ちょっときついかな……」

 

 「じゃあ、こいつの自転車にだけ専用警備員を付けるとか」

 

 「それも、かなりきついと思うな……」

 

 「ならいっそのこと、校内自転車解禁しちまうとか」

 

 「そんなむちゃくちゃな……」

 

 「じゃあ一年一組の教室を駐輪場の隣にしちまいましょう。そうすればいつでも安全を確認できるしこいつだって文句ないでしょうよ」

 

 「駐輪場の隣のスペースは教室じゃないからな……」

 

 俺がせっかく多大なカロリーを燃やして頭を働かせているというのにヘナヘナと否定しかしないテラサキにイラついて思わず彼が教師であることも忘れて殴りかかってしまいそうになった時だった。

 

 「部活は?」


 スバルが出し抜けに、

 

 「自転車の部活ってないんだっけ? 部活に入って部室に置かせてもらうってことはできないの?」

 

 これには荒川輪子が喋るのも面倒臭そうな感じに答える。

 

 「ないよ。あったら言われるまでもなく入ってるし。それがないから困ってんじゃん」

 

 この問答に対し、俺は至極単純な疑問を感じた。あまりにも単純すぎてまさかスバルやテラサキといった凄腕たちが思いついていないわけがなく口にすることすらはばかられたのだけれど、しかし現実にはふたりはそのことをまだ口にしていなかった。こんな簡単なことをこのふたりが見逃すなんてあれまあこいつらも落ちぶれたもんだと拍子抜けし、ここまでの思考をコンマ二秒で終えた俺はその疑問の単純さゆえに頭の中に留めることなくぽろりと落としてしまうような軽い気持ちで言った。


 言ってしまった。

 

 「なら作ればいいんじゃね?」


 

 スバルにはやはりその考えがなかったようだ。彼女は友人が世紀の大発明をしたかのような驚きっぷりで、

 

 「そうじゃん! そうだよ、作ればいいんだよ。そうすれば自転車を置く場所ができるだけじゃなく、同じ趣味の友達が見つかるかもしれないし! 荒川さん、どう?」

 

 意表を突かれたのは荒川輪子も同じようだった。新たなマーケットを開拓に挑戦したものの失敗し落胆していたところにこれまでの概念を覆す斬新なアイデアを聞いたビジネスウーマンのような顔になった彼女は、しかし複雑そうに、

 

 「でも……部活作るって言ったって、この学校自転車好きな人全然いなさそうじゃん。きっと誰も集まんない。できないよ。あたしにはきつい」

 

 「大丈夫だよ」

 

 いつになく弱気そうな荒川輪子を励ますように元気いっぱいの笑顔を見せたスバルはそして、

 

 「なにも荒川さんひとりだけで作らないといけないってわけじゃないからね。だってほら、ここに手伝ってくれる人がもうひとりもいるんだし!」

 

 ハイタッチするような軽快さで俺の肩を叩いてきた。

 

 「ちょっ、何で俺なんだよ!」

 

 俺は咄嗟に抗議したが、俺の肩の辺りまでしか背がない彼女はしかし余裕そうな笑みで、

 

 「だってー、一番荒川さんに学校やめてほしくないのは江戸君でしょ? 違う?」

 

 「何でそんなことになるんだよ! 俺は別にこいつのことなんて――」


 「えー。じゃあ荒川さんいなくなって学級委員継ぐことになってもいいの?」


 「なっ……」


 俺のスバルに対するイメージは今日限りで変更となる。真面目で勤勉、表裏のない温厚な女子生徒だと思っていたのに、こいつはもしかしたら自転車偏愛者の荒川輪子よりも厄介な策士かもしれない。雰囲気に騙されて隙を見せたらすぐさま弱みを握られそうだ。気をつけねば。

 

 「だーもう! めんどくせえなチキショウ。わあったよ。クッソ、何で俺なんだよもう……。おい、荒川!」

 

 俺はやけくそ気味にこの時初めて荒川輪子の名前で呼んだ。それがまた意外だったのか不満だったのか荒川輪子の瞳には力強さが戻り、変態でも見るかのような目になって睨んできたけどそんなことも気にならないくらい俺は吹っ切れた。スバルにハメられた気がものすごくしたけど、荒川輪子の自主退学を阻止し、俺が予備委員のままでいられる平穏な日常を取り戻すにはおそらくこれしか方法はなかったんだ。


 そう信じたい。そうでも思わないと俺はいつか気が狂うように思う。一体全体どうして俺がこんなことしなきゃなんねえんだと俺は心の中で呪詛の言葉を吐きまくりながら――言った。

  

 「部活だ部活。部活を作るぞ! 自転車が好きな奴のひとりやふたり、どっかしらにいるだろ。部活を作って部室を確保してそこに自転車が置ければ、お前はそれで満足なんだろ? だったらやることはひとつだ。部活を作っちまえばいいじゃねえか。ああ、クッソ気は進まねえけど俺も協力してやるよ。だから――」

 

 俺はひと呼吸置き、続けた。

 

 

「学校やめるな。ていうか学級委員やめないでくれ。頼む」


 

 

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