2-16.


 「そんなっ……」


 スバルが驚嘆の声を漏らし、慌てて手で口元を押さえる。


 停学。そして退学。そのワードは自分の日常からは程遠い凶悪犯たちの世界でしか存在しない恐ろしい言葉のような響きを伴って重くのしかかってきた。まさかそんな処分を受ける者を実際に見ることになろうとはな。俺は社会的にそれなりに高水準な節操を保ちながら暮らしつつまた同じような志を持つ仲間が集う環境に身を置いてきたつもりだったから身近で停学処分を受ける人間が出てくるなんて夢にも思っていなかった。


 でも不思議と、俺はスバルほど驚いていなかった。だって、あのやりたい放題っぷりだぜ? 自由の意味を履き違えたリベラリストだってあそこまで向こう見ずなことはしないだろう。自転車で校内を移動するなんて下手したら自他共に大怪我にも繋がりかねないことなんだし、それをあそこまで大問題化にされてもやめなかったのだから、そりゃそれくらいの罰が与えられてもおかしかないだろ。


 俺が諦観の心地に浸っていると、その言葉をどう受け取ったのだろうか、荒川輪子の返答が聞こえた。


 「わかった」

 

 いつになく神妙な顔をしているのが伝わってくる口調で、

 

 「じゃあ学校やめる」


 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中では盛大なファンファーレが演奏された。

 

 荒川輪子が学校やめるって? マジか。あの迷惑極まりない隣の女子がいなくなるのか。やった、やったぜ。これで俺は解放されるぞ。しつこく話しかけられることもなくなれば、邪魔な自転車が教室に置かれることもなくなる。最高じゃないか! 自分の発言がいつあいつの気に障ってキレられるかとビクビクすることもなくなるし、不慮の事故で自転車蹴っ飛ばして逆襲されそうになることだってなくなるんだ。災いの元がいなくなればクラスの雰囲気だってもっと良くなるだろうし、ああ、いいことづくめじゃないか。なんていい気分なんだ!

 

 俺が密かに心躍らせていると、テラサキのため息が聞こえてきた。

 

 「……そうか。まあ、お前ならそう言うんじゃないかって思ってたよ。俺が何言っても聞くつもりはないんだろうし、もう止めることはしないよ。好きな方を選ぶがいいさ。でもな、ひとつだけ最後の願いだと思って聞いてくれ。やめると決める前に、一晩でいいからじっくり考えてほしいんだ。本当にそれでいいのか。本当にその選択が、自分のためになるのかをな。その上で尚お前がやめる方を選ぶのなら、その時は止めやしないよ。それがお前の本当の気持ちなんだろうからな」

 

 ガラッと扉が勢いよく開かれる。


 変なタイミングだった。テラサキは話し終えたばかりだったし、話の最中に荒川輪子が席を立ったような気配もしなかった。ふたりとも扉を開けるにはまだポジション的にもタイミング的にも合っていないんじゃないかと思ったら――その正体は教室内にいたどちらでもなく、俺のすぐ傍にいたはずのスバルだった。


 「待って!」と、スバルは悲痛な声で叫ぶように、

 

 「荒川さん、もっとよく考えて! そんな簡単に学校やめるなんて決めていいの? 学校ってそんな簡単にやめられるほど意味のないものだったの? そんなわけない! そんなわけないんだから、そんな考えなしに決めちゃったら絶対後悔することになるよ。それに、これって自分だけの問題じゃないでしょ? 学費払ってくれてるのは親なんだし、ひとりで勝手に決めていいことでもないでしょ? 荒川さんみたいないい娘が退学したなんて知ったら悲しむ人だっているはずだよ! そうでしょ? よく考えてみてよ。そしたらそんな答え、絶対に出てこないはずだよ」

 

 「昴! お前どうして――」

 

 言いかけたテラサキの声を掻き消すように、

 

 「何なの? あんたに何がわかるって言うの? あたしにとってこのコたちの存在がどういうものなのか、何もわかってないくせに! あたしはね、このコたちと離れるなんて絶対に嫌なの。わがままだって思ってるかもしれないけど、あたしは自転車がない生活なんて耐えられないの! この子たちと離されるくらいなら死んだ方がマシ! 学校なんてクソ喰らえ! どうだっていいのよ!」

 

 荒川輪子も叫んだ。狂気を感じるまでの変態的セリフだったにも関わらず、スバルも負けない。

 

 「嘘! 嘘だよ、そんなの。学校がどうだっていいだなんて嘘。自転車が好きな気持ちはわかるよ。ううん、それも嘘。正直、私にはわからない。そんなに自分の物が好きになった経験、私にはないから。私には想像もつかないくらい自転車が好きなんだよね。その気持ちはすごいと思う。尊敬だってする。その気持ちを大切にしてほしいとも思う。でもね、荒川さん。本当は学校のことだって、同じくらい大切に思ってるんじゃないの? 学校がどうだっていいだなんて、本当は思ってないでしょ? そうじゃない?」

 

 荒川輪子は意外にも少し口調を弱めて、

 

 「……何でそんなことがわかるの。話したこともないのに」

 

 「だってさ、荒川さんって」

 

 スバルは惚れ惚れしてしまうくらいに明るく、そして自信に満ちた声で、

 

 「学校のことにすごく積極的じゃない。授業中よく発言もしてるし課題を忘れたことだって私の知る限りでは一回もないし。班長だってしてるし学級委員にだって自分からなってたじゃん。学校がどうでもいいと思ってる人が普通そんなことする? ううん、するわけないよね。自転車のことばっかり言ってるからすっかり自転車のイメージが強くなっちゃってたけど、荒川さんが学校のこともいっぱい考えてること、私にはわかってたよ。だから江戸君にも話しかけてたんでしょ? 学校楽しむのにひとりぼっちじゃ大変だもんね。江戸君なら話をわかってくれそうって、そう感じてたんじゃないの? 違う?」

 

 俺はギクリとするあまり腰を抜かしてしまいそうになったけど何とか体勢を保つ。スバルめ、なんてことを言いやがるんだ。

 

 幸いにも俺の存在が教室内に悟られることはまだなかったようで、俺は荒川輪子が反論できないでいるという初めて出くわす状況に何やら激辛ラーメンを食べたら甘くておいしかった時のような形容し難い心地を味わっていた。

 

 スバルは続け、そして、俺の心から安心の二文字をアクセル全開で引っこ抜くようなことを言った。

 

 「荒川さんが学校やめちゃったら、きっと江戸君が寂しがるよ。それに、学級委員や班長の役目はどうするの? 班長はまだいいとしても、学級委員がいなくなれば必然的に予備委員になった江戸君にその座が回るよね。彼にその仕事、押し付けるつもり?」

 

 俺は気付いてしまった。気が付かされてしまった。

 

 荒川輪子が公約通りわき目も振らずに学級委員としての役目を果たしていたため、文字通り名目だけの予備委員となっていた俺はもはやすっかり自分にそんな肩書きがあることすら忘れていた――のだけれど。

 

 そうだ。スバルが今言った通り、学級委員がいなくなればその次の位置にいる俺にその役目が回ってくるに違いない。予備委員とはまさにそういうことが役目なんだろ? 


 学級委員の代理人。学級委員が欠けた時にその穴を埋めるのが予備委員。不本意ながらも引き受けてしまった俺の役目。学級委員である荒川輪子が退学になれば永遠にその座が空くことになり、それはそのまま俺が予備委員としての役割を永遠に果たさないといけないことを意味する――すなわち、俺が学級委員となるんだ。

 「おい」

 

 俺はスバルを押しのけて教室に入り、目を見開いて固まる荒川輪子の前に立ちはだかった。

 

 「やめろ。いや、やめるな。学校やめるなんてバカな真似は俺が許さねえぞ。お前が死んでも自転車から離れたくないのと同じくらい、俺は死んでも学級委員なんてやりたくねえ。だからな、お前が学校やめるのは俺を死に追いやることと同義だと思え。何だ? お前は俺を殺したいのか? この人殺しめが。いいからとにかく、早まるな。落ち着け。落ち着いて考えろ。そうすれば何か妙案が浮かぶかもしんねえだろ」

 

 荒川輪子は頭の狂った人間を見るような目で俺を見ていたかと思うと、急に立ち上がって腕を振り上げ――



 バチン!!



 いつか聞いたことのあるような音が響くのと同時にこれまた覚えのある痛みが頬に走る。

 

 「いって! いきなり何しやがる!」

 

 俺が抗議するも荒川輪子は素知らぬ顔で、

 

 「話しかけてきたらブン殴るって言ったでしょ」

 

 そういえばそんなことを言われたような気もするけどだからと言って殴っていいことにはならないんじゃねえのか?

 

 俺がこの思いをどうすれば簡潔にわかりやすく伝えられるかと熟考していると、

 

 「ふふ、あっはは」

 

 スバルがおかしそうに笑い出した。今まで深刻な話題を話していたのも忘れてしまうような楽しげな笑い声で、俺は思わず

 

 「何がおかしいんだよ!」

 

 「何がおかしいのよ!」

 

 言ってからハッとした。見ると荒川輪子もやってしまったと言わんばかりに目を丸くしている。実際やってしまった。完全にハモった。気まずい。

 

 荒川輪子はばつが悪そうに目を逸らし、スバルはさもおかしそうに言った。

 

 「だってふたりとも、すっごい仲良さそうに見えるんだもん。喧嘩してるカップルみたいだよ。あはは」

 

 それは心外だ。俺は心の底から否定したい気分だったけどスバルの屈託のない笑顔を見ているとそんな気にもなれず、俺は代わりに荒川輪子のしかめ面に目を戻した。

 

 今は何よりもこの女子に自主退学を思い留まらせることが先決だ。俺のこれからの高校生活の命運はそれにかかっていると言っても過言ではない。

 

 俺は確固とした決意を胸に、

 

 「とにかく、だ。勝手に学級委員やめるなんて俺が許さん。よくよく考えれば、そういう条件だったじゃねえか。お前が休みことなく仕事をこなすから、何もする必要ないからって言われたから俺は予備委員なんざクッソめんどくせえ役目を引き受けてやったんだぞ。忘れたなんて言わせねえからな。そういうわけで、考え直せ。退学なんてバカな真似はするな」

 

 荒川輪子は目を背けたままなおも反抗的に、

 

 「嫌、って言ったら?」

 

 俺はその憎たらしい顔に向かって言ってやった。

 

 「今度は俺がお前をブン殴る」

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