2-15.
荒川輪子が校内自転車移動を始めてから数日が経ち、もはやそれまでもがこの学校の日常風景になってしまうのかと思われた。
荒川輪子自身は自信満々の発言の通り事故を起こす気配もなく(彼女が自転車に乗っていると本当にその自転車が身体の一部のように動くので不思議なものだった)、他の生徒たちも見て見ぬフリをするか話のネタにするかのどちらかといった有様だ。
俺の見ていないところで素行不良の生徒に注意したがる正義感に溢れ勇敢で真面目クサった生徒がいたとしても、そいつらは荒川輪子の前では蟻を潰すかの如くあっさりと蹴散らされていたことだろう。教師陣との全面戦争をひとりで勝ち抜いてしまった女子生徒だ。並大抵の生徒ごときに立ち向かえるはずがない。
そんな感じで風景的には平和に見える数日だったものの、水面下ではこの通常になりかけていた異常を正すべく事態は動いていたらしい。さすがに教師陣の懐は荒川輪子の行きすぎた真似を許してしまえるほど広くはなかったようだ。いやもうそこにはひとりの女子生徒に説き伏せられてしまったという雪辱を何としてでも晴らしたいという私情までもがもしかしたら混じっていたかもしれない。
荒川輪子の世界から俺が消え、そのショックからやっと世界が立ち直ってきたと思われた頃(誰がショックを受けていたのか等という質問は受け付けない)、俺はふとテラサキが荒川輪子に話しかけているところを目撃する。テラサキの顔はもう諦めの境地に入っており、怒る気も出ないほどに疲れ切っていることが伺える。
そんな彼は敵から死ぬ前にひとつだけ発言を許された時のような様子で荒川輪子に何か言っていた。俺はその時たまたま席から離れていたため何と言ったのかは聞こえなかったのだけれど、どうやらこの時ふたりの間では、世界の命運を決めるひとつの重大な選択をするための段取りのようなことが行われていたらしい。その内容を俺が知ることになるのは、その日の放課後のことだった。
「江戸君」
学校を出て帰路につこうとした俺を呼び止めたのは意外なことにスバルだった。帰りがけを女子に呼び止められるという青春ドラマ的な展開に俺が胸をトキめかせる暇もなく彼女は、
「ちょっとさ、帰るの待たない?」
スバルの話はこうだった。
荒川輪子がテラサキから話しかけられていた時、俺は私用で教室の後ろの方にいたもののスバルは自分の席に座っていた。説明するまでもなく荒川輪子の隣の席の俺の隣の席にいるスバルはすなわち荒川輪子のふたつ隣の席にいるため、テラサキが小声で話しかけた内容がいやおうなしに耳に入ったんだ。その会話の中身というのが、テラサキは荒川輪子に授業が終わった後も教室に残っているように言っていたらしい。
荒川輪子はいつものように睨み返しているだけだったけれど、そういうことに関しては妙に生真面目な彼女のことだ。これまでの行動を顧みても、おそらく荒川輪子は不承不承にも言われた通りにするだろうと。そして察するに、クラスメイトたちが皆帰った後、テラサキはこれまでとは比にならない重要なことを彼女に言うつもりなのだと。
「何だか嫌な予感がする」
スバルはそう締めくくった。
確かにその話が本当なら、事は尋常ではないだろう。俺も会話は聞こえなかったものの、あの悟りに達したようなテラサキの顔は覚えている。そんな彼が荒川輪子とふたりきりの話し合いの場を設けたというのなら、それはどんな修羅場になるのか想像もつかない。
それは確かなのだけれど……。
「めんどくせえな……」
俺はつい本音をもらしてしまった。やっと帰れるんだと居心地の良い自室とフカフカのベッドをイメージして期待を膨らませていたところなのに。この心境に陥った人間にもう一度教室に戻れなどと告げることがどれだけ過酷で非人道的なことなのかスバルは理解していないらしい。
スバルはそんなこと知らないし知るつもりもないといった様子で、
「クラスで一番荒川さんと仲が良いのって江戸君でしょ? だから、面倒臭がらないで気にしてあげてよ。じゃないと荒川さん、本当にひとりぼっちになっちゃうよ。そんなの可哀そう」
俺は別に荒川輪子と仲が良いつもりなんて全くなかったし日頃の俺と彼女のやり取りを見て仲睦ましげに見えていたのなら俺はスバルの視力を称賛したいところだったけれどその点には触れず、
「そんなん俺の知っちゃこっちゃねえよ。てか別に、俺じゃなくてもいいだろ。スバル、お前そんなにあいつのことが気になるのなら、お前が行ってやればいいんじゃねえのか? そっちの方がずっと効果的だと思うんだけどな。女子同士なんだし」
「もちろん私も一緒に行くよ」
スバルは堂々と宣言し、
「でも江戸君も一緒に来ないとダメ。だって私、荒川さんとまともに話したことないし。わかってると思うけど、彼女とちゃんと話したことあるのって江戸君くらいしかいないんだよ? それって、多かれ少なかれ気を許してくれてるってことでしょ? そんなあなたが行ってあげなくて、私の出る幕があるわけないじゃん。ほら、早く来て来て」
どちらかと言えば大人しくて気弱そうな顔をしているのに、スバルはスバルで強引だった。反論の余地もなく手首の辺りをがっちりと握られ、俺は学校に引きずり戻される。決して力強いということはなかったので無理に解けば簡単に逃げられそうだったけど、そんなことをした暁には翌日から俺は両隣の気の強い女子を敵に回すこととなり、後ろの奥田からは白い目で見続けられるという地獄絵図を見ることになりそうだったので抵抗するにもできなかったんだ。
校舎内に舞い戻り、一年生の階から生徒がいなくなるまで隣のクラスで待機する。既にほとんどの生徒が下校したか部活動に行った後だったようで、ポツポツと残っていた生徒たちの姿が見えなくなるまでもそんなに時間はかからなかった。
しんと静まり返った教室は逆に落ち着かない。
息を潜めるようにしていたスバルに俺は囁くようにして言った。
「何でこんなとこで隠れてんだよ。さっさとあいつんとこ行って話せばいいじゃねえか」
スバルは口に指を当ててもっと静かに喋るよう合図してきてから、
「ダメだよ。だって寺崎先生は荒川さんとふたりだけで話すつもりみたいなんだから。私たちがそこにいたら、話を始められないじゃん」
これじゃふたり揃って盗み聞きを企んでいるスパイのような気分だ。まあ元々スバルはこうするつもりだったらしいし、俺も連れて来られてしまったからにはつべこべ言わず従うしかない。
まだテラサキは来ていなく、一年一組の教室からは物音ひとつ聞こえない。荒川輪子が言われた通りに残っているのはスバルがしれっと確認済みなのだけれど、気が付かない内に帰ってしまったのではないかと思ってしまうくらい人の気配が感じられなかった。
放課後の教室ってこんなもんなのか? 一年一組だけじゃなく、階全体が世界が終わったかのような静けさに包まれている。俺が胸の内で渦巻く得体の知れない不安のようなものを感じていると、ふと足音が聞こえた。
カツカツと革靴が立てる音が耳に入ったかと思えば、近づいてくるその音によって停止していた世界はわずかに意識を取り戻したようだった。隣でスバルが息を呑むのがわかった。上半分が窓になっている教室の扉を閉めた上でかつ机の影に隠れながら廊下の様子を伺っていると、その音の主はやはりというかそれしか解答はなかったのだけれど、テラサキだった。
ガラガラと扉を開けてテラサキが隣の教室に入っていく。そして扉が閉められたのを音で確認したと同時に、スバルの合図で俺たちは音を立てないように廊下へまろび出た。一年一組の教室の壁に張り付き、中の様子に耳を立てる。完全に不審者だった。
かくしてテラサキと荒川輪子の会話が始まる。
最初に口を開いたのはテラサキだった。
「荒川。こんなことになるのはどうしても避けたかったんだけどな。俺も最善を尽くしたつもりでいたんだ。でも、ごめんな。俺の気持ちが伝わらなかったんだな。教師として失格だよ。初めて担任を受け持ったってのに、クラスの生徒のひとりを救えないなんて」
テラサキの口調には、どこか自分のミスで救えたはずの命をひとつ失ってしまった医師のやりきれなさのような哀愁が含まれていた。
対する荒川輪子はそんな担任の切実な思いも何のその。スッパリとした声で、
「何なの。何が言いたいの? はっきり言ってよ。この期に及んでまだこのコがどうとか言ってくるつもり?」
「もうそんなことも言っていられなくなったんだよ」
テラサキの声色には諦めの情があるものの、しかしまだ悔しくてたまらないといった強い思いが感じられる。
荒川輪子は何も言わなかった。どんな顔をしていたのかはわからない。
沈黙を挟んで、テラサキの口から衝撃の事実が告げられた。
「今日の職員会議で決まったんだ。荒川、お前はもう二度と学校に自転車を持ち込まないと約束しない限り、明日から無期停学、最悪の場合は退学だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます