2-12.
自転車で教室へ向かう前代未聞の女子生徒を見てあっけに取られぽかんと突っ立っている他の生徒たちの間を抜け、俺は教室へ駆け込む。思えば登校時に初めて走ったかもしれない。走るのが嫌だから毎日必ず家は早めに出るようにしているからな。荒川輪子は平常時と変わらずと言うか、むしろ心なしか少し気分良さそうな顔をしてもう席についていた。そして俺を見るなり彼女は驚いたように、
「あれっ、江戸君どうしたの? そんな慌てて。走って来るなんて珍しいじゃん」
自転車はいつもと変わらない位置に置いてある。この女子は今しがた自分がして来たことを何の何とも思っていないらしい。
「どうしたのじゃねえよ」
俺は息を切らしながら、
「お前な、確かに俺はあんなデカい自転車を教室に持ち込んだら危ないとは言った。自転車が大切ならそういうことも考えろと確かに言った。けどな、違うんだよ。そういう意味じゃないんだよ。サイズの問題なんかじゃないんだよ。俺は自転車を教室に持ち込むなって言ったんだ。小さければいいって意味なんかじゃねえ!」
荒川輪子はせっかく挨拶したのに説教を返されるなんて思ってなかったと言わんばかりに、
「えーっ! でもこのコならそんなにスペース取んないでしょ? ほら、この隙間にぴったり収まってるし。邪魔になるからって言ったのは江戸君じゃん。だからあたし、bmxならちっちゃいしいっかって思ったのに……」
ビーエムエックス……どっかで聞いたような気もする単語だけどどうだっていい。この女子は俺の言った意味をまるで理解していない。それにそもそも、今論議すべき最重要課題はそのことですらないんだ。
「だから大きさの問題じゃないんだよ。ちっちゃかろうがデカかろうがそんなこたどうだっていい。教室に自転車を持ち込んでる時点でおかしいんだ。それにな……お前、さっきのは正気か? どうしたらあんな発想ができんだ?」
荒川輪子は何故怒られているのかわからない子どものような顔で首を傾げる。
俺は言ってやった。
「校内で自転車に乗ろうなんて考えるバカがどこにいるんだよ!」
「バカって何。ヒドい! だってここまで自転車で来ちゃえば楽じゃん? あたしも今日このコで向かってきてる途中に気づいたんだけどね、ロードだと階段登るのとかちょっと大変だから思いつかなかったけど、bmxなら簡単じゃん、って思って。江戸君が昨日言ってくれたから思いついたことなのに、何なの。何か文句あんの?」
荒川輪子の目つきが敵を見るそれに急変する。昨日の夕刻から数十秒前まで続いていた上機嫌はもうどこかへ消し飛んでしまったようだ。膨れていたと思ったら急に可愛い顔をしたりと思ったらまたドギツい表情に変わったりと顔の体操の激しい女子である。でも今回は俺もそんな彼女に気圧されているわけにはいかず、
「文句ありまくりだよ。俺が言ったことが原因でお前の奇行がエスカレートしたなんてことになったら、どんな飛び火が来るかわかったもんじゃねーからな。それに、まずそもそもの話だけど常識的に考えて危ないだろ! 人とぶつかったりしたらどうするんだ?」
「ぶつかったりしなければいいでしょ? 言っとくけどあたしそこまで下手なつもりないからね! こんなとこでミスったりなんて死んでもしないから」
「自転車の上手い下手はよくわかんねえけど何にしろそういう話じゃないんだよ! お前が良くても周りが迷惑すんだ。ちったぁ他人のことも考えるって脳はお前にはないのか?」
「うるさいうるさい! もういい、話しかけないで! 江戸君も結局、あの教師たちみたいにあたしを目の敵にするんだね。ちょっといい人なのかと思ったけど、そんなこと思ったあたしがバカだった! もう嫌。嫌い。今度何か言ってきたらブン殴るから」
こうして俺が荒川輪子から前日の和解より一日も経たないというのにもう絶交宣言を受けたところでテラサキが教室に勢いよく飛び込んできた。
まだ予鈴前であるからホームルームが始まるわけではない。テラサキが意中の女性とのデートの約束の取り付けに成功し気分の良さゲージ二百五十パーセント分くらいのウキウキを胸にいつもより早めに来たのかと思ったら、そんな推測は即座に脳内から弾き飛ばされてその勢いのあまり太陽系の外にまで到達し宇宙遊泳を始めてしまうほどに、彼の顔は深刻だった。その標的は他でもなく――出席番号一番荒川輪子。
まあ、こんなことになるだろうとは予想してたんだ。
教室内全体が不穏な空気に包まれる中、テラサキと荒川輪子の壮絶な言い争いが始まる。内容はもちろん、荒川輪子の今朝の行為についてだ。自転車で廊下を走り、階段を登るまでするという破天荒っぷりを見ていた生徒がチクったか、はたまた教師に目撃されていたかのどちらかだろう。テラサキもこの時ばかりは放っておけないと感じていたに違いない。こんなに怒っているのを見たことがないというくらいにマジな顔のマジな言い争いだった。
ホームルームの時間が始まったことにすらテラサキが気付かないくらいにこの口論は熾烈を極める。野次馬に集まった他クラスの生徒たちが廊下にひしめく中、ついには授業の時間にまで差し掛かり、そこでやっと決着がついたのだけれど――
結局勝者は荒川輪子だった。
テラサキは一応、以前のように惨敗したわけではなく、その立場上授業を妨害するわけにいかなかったから、彼のような鋼の体育会系精神がなければその強烈さのあまり死に至ってしまうほどの苦い思いをしながらも仕方なく折れたという感じではあった。でも何にしろこの日も荒川輪子の自転車がその聖域を穢されることはなく、テラサキが発生源の爆弾無念低気圧が教室内に停滞したまま授業は開始された。
しかしもちろん、これで波乱が収まるわけもなく。
初めの方はまだ良かった。テラサキが敗退してからしばらくは教室の空模様がかなり怪しい気もしたけれど、それでもこの部屋の中でこの約一カ月間に起こった天変地異の数々を考えれば格別気にするようなことでもなかった。教室の隅にある自転車がいつもと違うなんて細かいことを気にする生徒なんてこのクラスには存在せず、荒川輪子がスーパー機嫌悪そうなことも珍しいことではない。気になることを強いて言うなら教室にやってくる科目担当教師たちの顔に浮かぶ皺の数がいつもより多いことくらいだったけど、それも普通に高校生活を送る平凡な生徒たちにとってはどうでもいいことだ。
どんより曇り空に毒ガスのような不穏な空気が加わり、かつてなかったほどに肌に障るようになり始めたのは移動教室の時のこと。今朝高らかに校舎内自転車移動宣言をしてみせた荒川輪子は、登下校時に留まらず教室の移動の際にも自転車を使い出したんだ。
教室を出た直後から自転車に跨った彼女は廊下を走るのはもちろん、階段を自転車で飛び越えるだけでなく無駄にジャンプしたりクルクル回ったり何の意味があるのかわからない動きをしたりするなどして、周りの生徒たちを色んな意味でヒヤヒヤさせていた(奥田に聞いた話だと、この日荒川輪子が持ってきたビーエムエックスという種類の自転車は、まさにこの日見せつけられた曲芸のような風変わりな乗り方をするための自転車らしい。そういえば自己紹介の時にそんなことも言ってたっけかな)。
これを見た教師がしかろうとすれば言い返され、止めようとすれば逃げられの堂々巡りが続き、昼休みになった今、荒川輪子はこともあろうか校庭で自転車で遊び始めたという始末だ。教師たちは一旦撤退して作戦を練り直しているようで、荒川輪子の非常識さには身近故に学校中で最も慣れていると言える一年一組の教室は束の間の静寂を得ている。
誰も何も気にせずこの平穏を堪能しているように見えるものの、俺にはこの静けさの裏で大災害の発生を知らせる警鐘がゴーンゴーンと鳴り響いているように思えてならなかった。
これはいくら何でも、ヤバいんじゃないか?
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