2-11.

 ◆


 朝、俺はとんでもないものを目にして開いた口が塞がらなかった。


 「あっ、江戸君。おっはよー」

 

 いつものように予鈴十分前には登校し、昇降口に入ろうとしていた俺の名前を気分の良い声で呼んで抜いていった女子生徒、それは言うまでもなく昨日実質デートをしてきた荒川輪子だったのだけれど……。


 荒川輪子という女子生徒が自転車をこよなく愛するというのは少なくともこの学校の全一年生の中ではもう言わずと知れたことで、その大きすぎる愛が故に彼女が自分の自転車を校内にまで持ち込んでいるという事実も既に知れ渡っている。愛犬の散歩をしているかのように自転車を侍らせて廊下を歩いているため、新学期が始まってから早一カ月が経とうとしている今となってはその姿を見たことがないという一年生の方が少ないだろうし、多少なりとも上級生にまで話は伝わっていることだろう。

 

 自転車を校内に持ち込むなんて本来ならば言語道断、絶賛規律違反であることには間違いないのだけれど、持ち前のおてんば娘なんて比じゃないこれではどんなわがまま娘も可愛く見えてしまいそうなレベルの自己中心っぷりを発揮して荒川輪子が教師陣を説き伏せてしまったため、この学校の校舎内に自転車が一台あるのはもはや暗黙の了解の内の日常風景となっていた――のだけど。


 そんな平和な毎日が長く続くと何の根拠もなしに思っていたのはどうやら浅はかが過ぎたというものらしい。荒川輪子は何のつもりか、いつもとは違う自転車を持ってきたんだ。


 荒川輪子イコールいつもの競技用自転車というイメージが定着していたため、これは少し意外なことだった。今日の彼女が持ってきたのはサイズから言えば子ども用のような、随分と小柄に見える自転車だった。見慣れた競技用自転車の方は何やらレーシングカーの自転車バージョンといった感じの凝ったデザインが施されているのだけれど、こちらはシルバー一色で無機質な印象がある。また、サドルの位置がこれまた異様に低くてまともに乗れるのだろうかという疑問が浮かぶよりも前にもはや乗るなと言われているような気さえするくらいなのだけれど荒川輪子はお構いなしに立ち漕ぎしている。


 いや、そんなことはどうだっていいんだ。自転車の種類だってこの女子が何台自転車を所持しているのかだって俺はもちろん他の生徒にだってどうだっていいはずだ。そんなことより一年一組担任のテラサキが結婚しているかという問題の方がまだ興味深いというもので、じゃあ何がそんなに目を引いたかって、それは――



 荒川輪子は、校舎の中に入って来やがったんだ。



 思わず足を止めてしまった俺などお構いなし、荒川輪子は何食わぬ顔で自分の下駄箱の前まで行くと、靴を履き替え、やはりそのまま自転車に乗って廊下の方まで行ってしまった。

 

 何だ何だ? どうなってんだ?

 

 自転車に乗ったまま片手片足でバランスを取りつつ上履きに履き替え、ローファーを下駄箱に仕舞うまでやってのけた荒川輪子の器用さもさることながら、この玄関スペースと廊下の間には段差がある。徒歩ならば取るに足らない(というか普通徒歩だから気にしたこともない)段差なのだけれど、自転車で越えるには少々高いため一度降りて持ち上げ越えてからまた走り出す、という一連の動作を経ないといけないはずだ。それなのに荒川輪子は、さながら普通に歩いて段差を越えるのと同じくらい慣れているように見えるというかそれが元々歩いたり走ったりするのと同様に人間の基本動作であるとでも言わんばかりのスムーズさで、ちょこんとそこを越えていってしまったんだ。

 

 あれれ、自転車ってあんなにも簡単に重力に逆らえる乗り物だったっけか……?

 

 俺は物理法則が異なるパラレルワールドに迷い込んでしまったのかと訝しみつつ、すぐにその疑念を振り払って慌てて後を追った。ここが俺の元いた世界であれ異空間であれ、とにかくあいつの常人離れした自転車テクニックに感心している暇なんてない。何がどうあったって、荒川輪子は校舎内に自転車を持ち込んだだけじゃ飽き足らず、校舎内で自転車に乗ってやがる。それはさすがにまずいだろ。


 俺がここまで彼女のことを気にかけていたのは、彼女の行為に少なからず責任を感じていてしまったからかもしれない。俺は昨夕、荒川輪子にナノ単位の思いやりの念が入っていなくもない長文を突発的に喋ってしまった。その翌日にこれだ。もし俺が言ったことが影響しているのだったら……。

 

 苦虫を噛み潰すような思いで俺は廊下に上がる。荒川輪子は昇降口正面の階段へ差し掛かるところだった。ペースを落とす彼女を俺はここぞとばかりに止めようとしたのだけれど――なんと。

 

 荒川輪子は、ペースを落とすことはおろかまたも自転車から降りることをしなかった。階段へ向かって勢いをつけた彼女はそのまま自転車ごとジャンプ。ピョンピョンと跳ねるようにして上まで登って行ってしまった。

 

 もはやどうやってそんな曲芸じみた真似ができたかなんてことは気にならなかった。俺がこの時思ったのはただひとつ。帰り道に現れるツーといい荒川輪子といい、どうしてこいつらは揃いに揃ってこんなにも自転車から降りたがらないんだ? そんなに自転車が好きなのか? いや、好きなのか。好きだからそうしてるんだったっけな。まったく、理解に苦しむぜ。

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