2-10.
連れて行かれた先は、公園内にある森の中の隠れ家的な喫茶店だった。温かみのある茶色の建物が周囲の緑と相まってメルヘンチックな趣のある雰囲気を醸し出している。俺は何だかわからないままに店内へ連れて行かれ(珍しいことに荒川輪子は自転車を店内に持っていくことはせず、外にとめて厳重にチェーンロックしていた)、店員に案内されるがままに丸い木製テーブルを挟んだ二人席へ到達する。荒川輪子と向かい合って着席。
ロケーション的にもシチュエーション的にも端から見れば完全にデートなのだけれど、あいにく目の前の女子はまあ見た目は申し分ないものの幾分顔がムスッとしすぎている。何だかデート中に男がエスコートに失敗して女を怒らせてしまった時のような図になっている気がしなくもないけどそこはやはり気にしないでおく。
「まさかとは思うけど、」
こんな場所でお互い無言で不穏な空気だけ漂わせているのは周りにも迷惑な気がしたので俺は喋ってみた。
「ここに来るのが目的だったとか言うんじゃないよな」
睨まれた。
この女子がもっと和やかな表情をしてくれれば彼女に好意があろうとなかろうと多少は楽しめそうな状況だというのに、どうやらそんなことは許してくれないらしい。
荒川輪子は俺を無視して店員を呼ぶ。空いていたこともあってすぐにやって来たウェイターに荒川輪子はメニューを指差しながら注文した。まだ何もしていないのにやたら不満そうに言いつけられた大学生くらいのウェイターの顔がひたすら気まずそうだったのが不憫だった。
「もしかしてだけど、」
俺はもう一度、
「お前ほんとに、ケーキが食べたかったのか? そんなにケーキが好きだったのか?」
「うるさい」
今度は返事が来た。荒川輪子は何やら決まり悪そうに目を逸らす。彼女が注文した品はメニューの最初のページにでかでかと載せられていた期間限定メニューらしかった。何やら聞きなれないカタカナで名前が付けられていたがそこにあった写真から察するにそれはまさしくケーキ。甘い物の代名詞たる堂々立派なケーキと、ホットコーヒーを彼女は頼んだのだった。
ケーキ――ああ、覚えてるさ。ついさっき、この女子に半殺しにされそうになった時に俺が咄嗟に口にした単語がそれだった。でもあれは暴走した生存本能が瞬時にランダムで選んだ三つの文字がたまたまそうなったくらいの意味しかないはずだった。それがもし、偶然にも怒りに全身を任せた女を止めるに足りる重要性を持つ言葉と合致したというのならば――それはあまりにも都合が良すぎないか?
でも実際に、荒川輪子は俺を身元不明の遺体にするのを止め、俺をここまで連れて来た挙句ケーキを頼んだ。頬を膨らませながらも何やら足をパタパタさせてまでいる。デートなんてまともにしたこともない俺にだってわかる――わかりやすすぎる。荒川輪子は確実に、ケーキが食べたかったんだ。
やがて無言の空間にどんな顔をすればいいのかわからなそうな顔をしたウェイターが注文の品を運んでくる。全体的にうっすらと桃色がかったタルト風のケーキで、ふんだんに盛られたサクランボやイチゴなどの赤系フルーツで彩られている。桜をモチーフとしたメニューらしい。一緒にやって来たコーヒーカップと並んだそれを、荒川輪子は最初、食い入るように見つめていた。
あっけないくらい、あっという間のことだった。
美術館に置いてあっても遜色なさそうなそれに目を奪われるようにしていた彼女の顔から見る見るネガティブな色が消えていく。怨嗟や憤怒、鬱積といったマイナス感情はストローで一気に吸い取られるが如く消え失せ、残ったのは感動に満ちた純粋な少女の顔だった。
そして、その表情もまだ変化を止めることを知らず、さらに荒川輪子はゆっくりと頬を緩め――嬉しそうに、笑った。
一口頬張ってから何もかも満ち足りて幸せとでも言い出しそうな顔をした後、荒川輪子が俺に向かって、
「江戸君も何か頼んでよ。あたしひとりで食べてるのも落ち着かないし」
言われたので俺もホットコーヒーを頼んだ。荒川輪子は砂糖とミルクと入れていたが俺は根っからのブラック派なので多少のフラストレーションを感じていたところだった。
先ほどよりも少しやりやすそうになったウェイターからコーヒーカップを受け取り、一口飲んでから俺は、
「改めて尋ねるけど、これはどういう状況なんだ? 俺はお前にデートに誘われたものと考えて相違ないか?」
「は?」
いや、そこまであからさまに嫌そうな顔をしなくても。
俺はすぐに前言撤回し、
「冗談だよ。そんなに睨まんでくれ。いくら相手がお前だろうとさすがに俺にだって男のプライドってもんがある。で、そんなことはどうでもいいんだ。俺は状況を整理したい。真面目な話、お前はケーキが食べたくて、ケーキを奢ってもらいたかったがためにさっき殴るのをやめてくれたのか? 俺が奢るって言ったから、考えを改めてくれたのか?」
「そうだよ」
荒川輪子はすんなりと認め、
「これ、季節限定で今週が最後のメニューだったの。来月からは新しいのに変わっちゃうからね。ずっと食べたいって思ってたんだけど、あたし今月のお小遣いもうほとんど使っちゃってて、ぜーーったい食べたいのに、諦めないといけなそうだったんだ。でもほんとにほんとに逃したくなかったから何とかならないかってずーっと考えてたの。そしたらちょーどいいタイミングで、江戸君がいいこと言ってくれたってわけ」
何だその出来た話は。それじゃ全て仕組まれてました感がハンパないぞ。ていうかこの女子はあんなに怒り狂っているように見せながら頭の中じゃそんなことを考えていたのか。策士か?
「にしても納得いかないな。お前、あんなに怒ってたのに、ほんとにこれだけのことで許しちまうのか? 自転車以外にこの世に愛すべきことなんてないってくらいに大事そうにしてたのに、ケーキなんかでコロッと気を変えちまっていいのかよ」
「うん」
荒川輪子はあっさりと頷き、
「あのコも無事そうだったしね。傷ついてたらブッ殺してたけど」
平然とおっかないことを言いやがる。
ただね、と彼女は付け加えるように、
「前に言ったことだけは撤回して。じゃないと許さない。許そうとしても許し切れない」
「ええと、俺は何を言ったんだっけ」
「自転車をバカにしたこと」
その言葉を聞いて、いつかの謎の美少女ツーとの会話が頭を過ぎる。そういえばあいつも、何かそんなこと言ってたっけか。
「わかったよ」
ここで反抗したところで何の得も生まれない。俺はふたつ返事で了承し、
「撤回する。まあ俺の自転車に対する思いが変わることはないだろうけど、お前の気に障るようなことを言ったのは謝るよ。お前の自転車愛は十分に伝わった。本当に好きなんだな。俺だって自分の大切に思ってる物を悪く言われたら嫌だしな。自分がされて嫌なことを人にしたいと思うほど俺もひねくれてるわけじゃあない。悪かった。もう言わんよ。約束する」
スバルが言っていたことを交えたから完璧な演説だったと俺が自惚れていると、荒川輪子は想定外なことに納得いかなそうな顔をした。下手なことを言ってしまったのだろうかと息を呑んだ俺を尻目に、彼女はまたメニューを手元に持ってきて呟くのだった。
「やっぱり何かムカつくからもう一個頼む」
その後の会話には大した内容がなく、荒川輪子が延々と舌鼓を打ち、その様子をコーヒーを飲みながら俺が眺めているというだけの時間が過ぎていった。自転車以外にもこの女子が好む物があったということがわかっただけで、他の会話も弾まない俺からすればひたすら無益な時間だった。
俺がひとりでふたり分の会計を済まし、外へ出た頃にはちょうど夕空と夜空が交代を済ませ終わるところで、木々に囲まれた公園内はすっかり真っ暗になっていた。目的を果たして満足げな荒川輪子はさっさと帰りたかったらしく、じゃあとだけ言ってロック解除した自転車に跨った。
別にそのこと自体に俺は何の異論もなく心残りなどひとかけらもなかったのだけれど、自転車で走り去ろうとした彼女を俺はふと呼び止めたのだった。
「なに?」
ペダルを漕ぎ出し、走り出しかけていた荒川輪子はそのままの体勢で振り返る。ペダルから両足を離さないまま、そのまま直立している状態だ。その姿に俺はデジャブを覚える。もう思い出すのも容易い。謎の美少女兼俺の密会相手であるツーも同じようにいつも自転車に乗ったまま止まっている。
でも荒川輪子はツーほど不自然には感じなかった。彼女もサドルに尻をつき両足をペダルに乗せたままその場で静止しているのだけれど、完全に停止しているわけではなくて細かく自転車や身体を動かしていて、バランスを取っているように見える。それでも十分驚くべき身体能力なのだろうけど、ツーの人間離れしたバランスを何度も目の当たりにしている俺はさして驚くことができなかった。ツーはこんなもんじゃない。あいつはバランスを取っているようにすら見えないくらいの安定を誇っているからな。いつの間にか太くなった自分の神経にビックリだ。
自転車に乗りながら立ち話をする女子高生を前にして俺は平常心を保ちながら、
「さすがに、教室ん中にまで自転車を持ち込むのはやめた方がいいんじゃないか?」
荒川輪子はすかさず顔をしかめながらも、少し俯いて考える仕草をした。テラサキに言われたときのように即答してこなかったのは何か違う思いがあったのだろうか?
何も言わない彼女に向かって俺は続けて、
「ただえさえそんなデカい私物なんだ。あの狭い部屋ん中にあったら邪魔になることくらい、お前だってわかるだろ? まあ今となっちゃ誰も気にしてないのかもしんねえけど、今日の俺みたいに誰かがまたぶつからないとも限らないだろ。まあお前ならぶつかる方が悪いとか言いそうだけど、誰が悪かろうがその自転車が傷ついたら一番困るのはお前だろうが。耐え兼ねた奴がいたずらしてきたり、もしかしたら壊そうとしてくる奴がいないとも限らねえ。そうなった時に、誰を責めたってお前の大切な自転車が戻ってくることはないんだ。本当にそいつが大事なら、そういうこともちったぁ考えて行動するべきなんじゃねえの?」
荒川輪子は何と答えればいいか迷っている様子でひとしきり下を向いていた(その間もずっと自転車には乗ったままだった)。
やっと顔を起こしたかと思うと、
「余計な心配いらないから」
小さく呟き、そのまま行ってしまった。あっさりと。引き留めることもできず俺は立ち尽くす。ツーのことも話しておこうかと少しだけ迷っていたのだけれど、帰ってしまったからには仕方ない。諦めよう。
暗闇の中に赤い尾灯が消えゆくのを見届けてから、俺も帰途につくことにする。荒川輪子の心に俺の言葉が響いていたかはわからないけど、言うべきことは言った。後はどうしようと本人の勝手で、これ以上は俺の知ったこっちゃあない。何だか知らない内に不和も解消できたみたいだし、とりあえずこれで一件落着だ。
久しぶりに気分がスッキリしていたおかげか、柄にもなく義勇に駆られてしまったことや往復のタクシー代及び喫茶店の飲食代が痛かったこともそこまで気にならなかった。
そして翌日、俺は出過ぎた真似をしたことを早くも後悔することとなる。
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