2-9.

 ◆


 授業が終わるなり速攻で帰り支度をした荒川輪子は有無を言わせぬ口調で俺についてくるよう言い渡してスタスタと教室から出て行ってしまったため、俺もいつもの三倍のスピードで荷物をまとめる必要があった。


 クラスメイトたちの哀れむような視線を背に受けながら機嫌の悪い隣の女子を追いかける。自転車を片手で支えながら歩く荒川輪子は入学式の時と同じように抜群のコントロールを見せつつ、階段になると片腕で担ぐといった感じで後ろも振り返らず昇降口へ向かっていく。


 目の悪い人が眼鏡をかけていたり中高生が学校の制服を着ていたりするのと同じくらい荒川輪子がいつも自転車を携えているのは当たり前の光景となっていたのだけれど、それにしても本当に自転車の扱いに慣れた奴である。正直なところ、自転車の扱いの良し悪しなどという概念もつい最近俺の頭に形成されたばかりでまだまだ新鮮味に溢れているのだけれど、前を歩く女子のことを見ているとそう感じてしまうのも仕方がないと言ったところだ。


 少なくとも自転車の運搬に関してこの女子はプロである。通学中の高校生が鞄を持っているのよりも自然かつスムーズに自転車を持ち運んでいる。その自転車さばきからは、剣道の達人が身体の一部のように刀を振るうのと同じような神聖な華麗さまで感じられるようだった。


 外へ出た荒川輪子は何をするかと思えば、前の道をタクシーが通りかかるなり迷わず呼び止めた。そのタクシーに乗ってどこかへ行くのだろうかと考えていると、荒川輪子は何やら運転手と言葉を交わし、自らは離れて自転車に跨ったのである。リュックからいつもの帽子とグローブを取り出して身に付け、慣れた動作で髪を後ろでひとくくりにする。どういうことかと俺に訝しむ暇すら与えず、


 「早く乗って! 移動するよ」


 制服姿の女子高生は迷いなく颯爽とペダルを漕ぎ出した。



 タクシーの運転手は彼女に後ろからついてくるように言われていたらしい。俺が慌てて後部座席に乗ると同時に走り出し、自転車で躊躇なく車道を走り始めた女子高生を追いかける。自転車と自動車で並んで走るなんて正気かと俺だけじゃなく運転手も思ったことだろう。道義的にも交通法規的にも緊張せざるを得ない思いで荒川輪子の後ろ姿を眺めていたのだけれど――あれ?


 前方の景色にどこか違和感があった。


 背景は何てことのない普通の街並み。車の速度に合わせて風景が流れていくのはごく自然なことで、周りを走る車の数が極端に多かったり少なかったりするなんてこともない。通常出ないのは前を自転車に乗った女子高生が走っていることだけで、他には何も変わったところはないんだけど――そう、何も変わっていないんだ。普段車窓から外を眺めている時と景色の見え方が何ら変わっていない。横を見ればスライドショーのように流れていく街の姿はドライブならではの情緒溢れる景色なんだけれども――それって、おかしくないか? だって今この車は、走ってるんだぜ?


 この不可解な現象に強烈な不快感を覚えて俺は前に目を戻す。荒川輪子は特段踏ん張っているようにも見えず、のんびりサイクリングでもしているような感じで軽やかにペダルを回している。それだけなら別に何も変な風には見えないんだけど……。


 俺はちらりと車のスピードメーターを覗いた。針が差していたのは時速五十キロ。ええっと、それってどんなもんだ? 一時間に五十キロ進むってことだから……って考えてもわかりにくいな。歩く速度が大体時速四キロって言うから、自転車はせいぜい時速二十キロくらい……? あれ? あれれれれ?


 見間違いはない。今この時点で確実に荒川輪子の自転車とこの車は同じスピード、時速五十キロで走っている。ふと両者は車道の脇を走る自転車――荒川輪子が乗っているような競技用の物ではなく、普通のシティサイクル――を抜いた。止まっているように見えるくらい遅かった。うん、あれが普通だ。今のが自転車が走行する時の普通のスピードだ。


 その事実に気が付いた時、俺は愕然とした。自転車で車と同じスピードで走る? 何なんだそれは。一体どこまでこの女はスッ飛んでいるんだ。その細い足のどこにそんな力があるって言うんだ? にわかには信じられないことではあったけど、今この目で確かめていることだ。俺の視神経に異常が生じたのでなければ、荒川輪子は確かに車と並んで走っていた。悠々と。鼻歌でも歌っていそうな感じに。



 「あの子は君の彼女さんかい?」


 今時の若者はすごいなあと言いたそうな感じに運転手が話しかけてきた。色んな意味でどうでも良かったので俺が答えずにいると、


 「元気な子だねえ。ああいう自転車が走ってるのはよく見るけど、あの子はその中でも飛び切りだよ。女の子なのにすごいなあ。大切にしてやるんだよ」


 俺は聞こえなかったフリをしつつも半分は運転手と同じ気持ちで前を見る。そういえば、荒川輪子は既に自転車とは切っても切れないイメージになっていたけれど、実際に自転車に乗っている姿を見るのは初めてだ。


 何だろう、彼女が走っている姿を見ていると、自転車とはただの重りでしかない鉄の塊だという俺の世界で既存の概念が覆されるようだ。彼女がペダルを漕ぐ姿からは重さというものが露も感じられない。宙に浮いて車輪を空転させているかのような軽々しさでクルクルと足を回し、そして自転車は車と同じような速度で進んでいる。坂道に差し掛かって立ち漕ぎをしたかと思えばその足取りは軽やかなステップを踏んでいるようで、左右に振られる自転車はリズムを刻むメトロノームのような様相を呈していた。


 自転車ってこんな乗り物だったっけと、純粋に疑問に感じてしまう。


 バリッバリのゴツゴツ体育会系男子だったらそこまで気にはならなかったのかもしれないけど、もうひとつ特記すべき点は荒川輪子が学校の制服姿のままこれをやっているということだ。立ち漕ぎする度にひらひらとスカートがはためいているなんて図は後ろの運転手にとっては目に毒でしかないだろうし、それでなくとも膝上二十センチくらいの短さで自転車に乗っている時点で危うい。


 それにこの速度なんだ。風が吹く度なんて生易しいことを言っている場合ではなく常に強風が当たっているような状態だし、ペダルを漕ぐ足が動く度に無駄にヒヤヒヤさせられる。ここで議論すべきは何故俺がそんな根拠もない焦燥に駆られないといけないかということはさておきこれは見る方が悪いのではなく見せる方が確実に悪いしいやそもそも制服姿で自転車に乗る女子を見てあらぬことを考える時点でおかしいなんてことはなくやはりと言っちゃあなんだが優れた容姿の女性は自分が他人の目にどう映るかを自覚し不必要に扇情的な行為は慎むべきで、(以下略)。


 まあ荒川輪子はその点に関してもただならぬスキルを持ち合わせていたようで心配は無用だった(何の心配だ)。下劣な男衆が望むような一瞬を見せるようなこともなく、自分が車だと勘違いした脳が本当に身体を車化させてしまったかのように難なく車道を走り抜け、やがて目的地にたどり着く。


 二十分ほど経っていただろうか。進んできた方向からして都心の辺りだと思われるこの場所は見えるものもやはり都心といった感じの高層ビル群ばかり。その一角にいきなり都会の中とは思えないような緑でいっぱいの公園が現れ、どうやら俺はここに連れて来られたようだった。荒川輪子は歩道に上がってやっと足を止め、タクシーに乗る俺に向かって降りて来いと目で言ってくる。タクシー代はどうするのかなどという愚問を思いつく前に俺はさっさと運転手に料金分の紙と金属を渡し、車を降りた。

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