2-5.

 

 そしてその日の午前中、休み時間に暇を持て余していた俺は席でぼーっとしていた。ついこの前まで中学生だった生徒たちが高校生活に慣れるのも早いもので、クラスメイトたちは何年もここで共に生活しているかのように楽しげにワイワイしている。


 俺はと言えば別にその会話に入りたいとも思わず、ただこの空気の中にいれれば十分だった。こうして平和な時間が流れている限り俺の頭を悩ますようなことも起きないだろうし、これこそ高校生って感じだ。青春だ。たまに言葉を交わす後ろの席の奥田も今は次の授業の宿題に集中しているようで、左隣の席の女子は教室の反対側の方で女子グループの会話に参加している。右隣の問題児はトイレに行っているのかさっきから姿が見当たらず、残された自転車のみがさっきから視界の端に映っていた。


 移動授業の時でさえ放したがらないのに、トイレに行くときは置きっぱなしで大丈夫なのだろうかと、ふと疑問に思った。さすがにトイレの個室の中にまで持ち込むほどあの女子もバカではないということだろうか? 仮にそうだったとしても、どうせ自転車を汚したくないからとかそんな理由に違いない。そうかそうかそれは良かった。とても良いことだ。


 ぼんやりしていた俺の視界に見慣れた黒タイツが入る。俺は呆けるあまり頬杖をつきながら右方を眺める格好になってしまっていたらしい。そこに右隣の席の主が戻ってきたらその姿が目に入るのは至極当然というもので、視界に入った荒川輪子は何を勘違いしたのか、


 「ん? どうかした?」


 話しかけてきやがった。俺は別にお前のことを見ていたわけじゃないぞ。どうもしてねえや。


 「別に」


 俺は答え、そっぽを向いた。会話終了のつもりだったのに、


 「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん。何? 今こっち見てたでしょ。何かあるなら言ってよ。ねーってば」


 荒川輪子はわざわざ俺の席の前にまでやって来て言葉を捲し立てた。俺はとっさに寝たフリをしたが効果はなかったようで、


 「あっ、ねえもしかしてだけど、あたしの自転車見てた? そっちの方見てたよね。ねえ違うの? もしかしてもしかしてだけど、ほんとは自転車興味あるとか? ねえ違う!?」


 久しぶりにこの女子の楽しそうな姿を見た気がする。クラスの誰ともも趣味が合わないとわかるなり底に穴の空いた船の如く急速に気分を消沈させていたから、何だか久しぶりな気分だ。


 俺はたまらず、


 「ちげーよ。誰がそんなもんに興味あるか。ねえねえもしかしてもしかしてうるせーんだよ」


 荒川輪子は信頼していた仲間が実は裏切り者だったとわかった時のように顔をこわばらせ、


 「そんなもんって……別にそんな言い方しなくてもいいじゃん! あたしは江戸君があのコの方見てたように見えたからもしかして、って思っただけなのに。興味ないならそう言うだけでいいでしょ? 興味ない人は興味ないのかもしれないけど、あたしにとっては大切なコなのっ!」


 「だから最初から興味ねえって言ってるだろ。そんな鉄クズみたいな乗り物に興味持ったことなんて生まれてこの方一度たりとも微塵たりともねえよ。そいつが大切だぁ? 正直言わせてもらうと、俺にはその気持ちが理解できねえんだよ。何でわざわざそんな鉄の塊を買ってまでクッソ重い思いしなきゃなんねえんだ。移動なら歩きですればいいし、徒歩圏内から外れてれば移動しなきゃいいだけだろ。それがそんなただの移動手段のために百万だぁ? ふざけ――」



 バチン!!



 爆竹が破裂したかのような甲高い音が鳴り響き、世界が静まり返った。思わず口を止めてしまった俺も何事かと辺りを見回したのだけれど――何だ何だ? 教室内にいる全員が唖然として、見てはいけないものを見てしまったかのように――俺を見ている。いや、正確には俺とその話し相手だ。荒川輪子と俺は二人仲良くクラス中の注目の的になっていた。


 そして俺は理解する。爆竹のように聞こえた音は、平手打ちの音だったんだ。


 頬がじりじりと痛む。荒川輪子は渾身の力で俺の頬を殴ってきたんだ。


 「なっ……」


 言葉が出なかった。目の前の女子がまるで親の仇敵を見るかのよう目で睨みつけてきている。何でそんな怖い顔をしているんだ? その目に浮かんでいるのは何だ? 涙なのか? 何故泣いているんだ。そんなにウルウルした目で見ないでくれ。何かとんでもないことをしでかしてしまったような気分になるじゃねえか。


 実際、俺はしでかしてしまったらしい。荒川輪子は今にも襲い掛かってきそうな気配さえ漂わせていたのだが、思い切ったように身を翻すと、鞄と自転車を持って教室から飛び出して行ってしまった。



 ――キンコーン……。



 授業開始を告げるチャイムが救いだった。これがなければ俺は、空気が硬直し切った教室内でクラス全員分の驚愕、焦燥、不審、不安の入り混じった視線をひとりで受け続けるという極刑に近い辱めに耐えないといけなくなるところだった。


 「あー、えーっと、どうした……のかな? 今荒川が凄い勢いで出て行ったけど、早退の連絡があったかな? 誰か受けてるか? それにこの空気は何だ? おーい、誰か答えてくれえ……」


 一年一組の担任兼数学教師のテラサキが救いを求めるような顔で喋っても、一度死んだ空気が元に戻るまではしばらく時間がかかった。

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