2-4.

 ◆

 

 授業が始まってから早くも数週間が経っていた。初っ端から出席番号一番の女子生徒によって新鮮で晴れやかな空気をメチャクチャのグチョグチョに掻き回された一年一組だったけど、授業開始と同時に落ち着きを取り戻して今やごく普通の和やかな高校のクラスといった感じの光景が広がっていた――と、言っても、ある一つの点を除いての話だけれど。


 その一つというのは教室の廊下側最前方、右前角にあたる席のすぐ隣の壁に立て掛けられている一台の自転車だ。フレームは全体的に細く直線的なデザイン。グニャッと曲がったハンドルに高く突き出たサドルが特徴的なその自転車はいわゆるロードバイクという種類の自転車らしく、自転車レースで用いられるような本格的な競技用自転車だ。


 持ち主はそのすぐ隣の席の主、荒川輪子という名の女子生徒。本人によると自転車の価格は百万円以上。そんなブツが毎日この教室に持ち込まれて当たり前のように鎮座しているのである。担任テラサキがこの問題児の説得に失敗したせいで誰もが見て見ぬフリをするようになり、いつしかこれもこのクラスの日常の光景となりつつあった。

 

 当の荒川輪子はと言えば、最初の頃の威勢が嘘のように今は大人しい。どうやらこの女子は自分の自転車のことに関しては地の底から無限のエネルギーを得たかのように元気良く話すのだが、それ以外のことにはめっぽう興味がないらしい。話題を振られてもあからさまにつまらなそうな顔をするし、また自転車に興味がないとわかるが早いか相手から一切の興味を失くしてしまうのである。これじゃどうしようもない。俺の右隣の女子は早くも友人作りに失敗して孤立してしまったのである。まあ本人が自ら他人と関わることを拒否しているようなので心配には及ばないのかもしれないけれど。

 

 でも安心するのはまだ早く、ここでひとつの懸案事項が発生する。荒川輪子がそんなどうしようもない性格の持ち主だということはクラス全体で周知の事実となっていたのだけれど、そんな彼女はこれでも一年一組第一班の班長であり、またこのクラスの学級委員だ。クラスに友達もいない生徒が学級委員だというのも奇妙に聞こえる話だけれどそれはこの際置いておいて、重要なのは俺が予備委員なるその代理役的なポジションにいることなんだ。


 不本意にもこんな望んでもいなかった役を受け入れてしまったわけなのだけれど、さらに厄介なことに荒川輪子はそんな俺を唯一の話し相手として認識してしまったようなのだった。俺は全くもってこの女子と話したいなどと思っていないのでいつもてきとうにあしらって終わるのだけれど、それでも荒川輪子は隙を見ては何かと話しかけてくるんだ。

 

 「あっ、シャーペンの芯切らしちゃった……。ごめん、何本かもらってもいい?」

 

 「ねーねー、さっきの授業のここよくわかんなかったんだけど、教えてくれない?」

 

 「アイライクバイシコーベリーマッチ。ハウアバウチュー?」(英会話の授業中、それなりに流暢な発音で)

 

 どれも取るに足らない些細な会話でしかないのだけれど、そんなやり取りをしていたおかげでこの女子生徒についてわかったことがいくつかあったので書き連ねてみよう。

 

 ・まずひとつ目。荒川輪子は頭がすっ飛んでいるとばかり思っていたが、意外と授業には真面目だった。俺よりもちゃんと教師の話を聞いているようだし、宿題を忘れるといったようなこともない。登下校の際に帽子とグローブを着用していることだけ除けば身だしなみも抜群で、これらの点だけなら優等生にも見間違えかねない。

 

 ・ふたつ目。ひとつ目の印象を一気に掻き消すようなことだけど、荒川輪子は暇あらば自分の自転車を眺めている。たまに我が子を見守っているかのように笑みを浮かべたりしているから非常に気味が悪い。休み時間中にはたまに工具を取り出していじっていたりもする。素人が勝手に整備してもいいものなのだろうか?


 ・三つ目。俺に話しかけてくる内容はあくまで授業や学校生活に関すること、もしくは事務的に過ぎないことのみだ。それ以外の趣味的娯楽的な話は一切しない(まあされても困るんだけど)。本当に脳内成分の九十九パーセントが自転車で満たされているようである。恐ろしいことに。


 ・四つ目。荒川輪子は雨の日でも自転車でやって来る。でも不思議なことに、髪は風呂上がりのようにびしょびしょに濡れたのをタオルで拭いてきました感マックスなのだけれど、自転車と制服に関してはどこにも濡れた様子がないんだ。どういうトリックなんだろう? 服に関してはレインコートを使ってるにしても雨の中自転車に乗って全く濡れてないのはおかしいし、トイレで着替えたりでもしてるのだろうか? 自転車は……どっかでわざわざ綺麗に拭いてきてるとか? ものすごく手間がかかる気がするが、彼女ならやっていてもおかしい気はしない。


 ・五つ目。荒川輪子は非常にスタイルがいい。クラスでもずば抜けている。その点に関しては誰もが納得するのではないだろうか。細身でよく均整のとれた体つきをしており、正直なところ常に侍らせている競技用自転車とはイメージが全く合わないくらいだ。加えて、関係あるのかはわからないけどいつも黒タイツ姿だ。それが余計に細く長い脚を引き立てていて、それだけは見てても損にならないということだけは言及しておこう。いや、別にそんな興味津々に見てるわけじゃあないぞ。たまたま目に入っただけだ。たまたま、な。


 

 こんなところかな? まあ要するに、荒川輪子という女子生徒は精神障害レベルの自転車偏愛者なわけだけれど自ら班長や学級委員に立候補していることからもわかる通りそれなりに学校のことも好きらしい。その割にはクラスの誰とも関わろうとしないんだけどな。


 こんな感じに、望んでもいないのに俺の頭には右隣の女子についての知識が溜まっていった。脳の記憶容量に限界があるのかは知らないが、無駄なデータであることには違いないんだから勘弁してほしい。覚えようとしなくても相手から接触されることで脳は強制的にその出来事及び関連する事柄を記憶してしまうのだから脳のメカニズムも厄介なものだ。俺が生きている内に記憶をコントロールできるまでに脳科学が発展することを切に願う。

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