2-2.
百万円の自転車。車の間違えじゃないのか――というのは誰もが浮かべる疑問だろう。しかしこれはエンジン付きの快適な乗り物ではなく、正真正銘の自転車なんだ。
例え自転車じゃなくたって、百万円の私物を教室に持ち込む高校生がどこにいる? いや、そんな高価な物を所有しているという時点でおかしいだろう。どこぞのお嬢様なんだろうかこいつは。いやでも、よく考えればそれはあながち間違えじゃないのかもしれない。この学校は今年から共学化されているものの元は有名なお嬢様学校なんだ。性格や態度はそんな高貴な階級からはかけ離れているように思えるが、実際この女子がお嬢様だったりしてもおかしくはない。それも、色んな意味であらぬ方向にずば抜けた、な。
こんな話を聞いてしまったが最後、班員たちはこの女子生徒が自分たちとは違う世界に住んでいるのだということを再認識したようで、湧きかけていた興味はもはや風前の灯と化してしまったようだった。誰もがそれ以上コメントすることができず、荒川輪子本人も周囲のそんな反応に気分を害したのか黙り込んでしまい、何だか煮え切らないままだらだらと自己紹介が続くこととなる。その後の班活動の内容で俺が覚えているのは、横の男子の名字が奥田だということ、そして荒川輪子が班長となったことだけだ。
事務的でしかない自己紹介の後に残されていた課題、班長決め。荒川輪子と俺を除いた班員たちは衝撃の余り理性を失ってしまったようで何やらヘラヘラ笑ってるだけの人形と化してしまい、ドロドロしていた話し合いが完全に詰まってしまうかと思われたその矢先、意外なことに荒川輪子が自らその座に名乗り出たのだ(ちなみに俺は元より班長になる気もないし話す気もなかった)。
状態を不機嫌モードに変えていた荒川輪子はそのまま正常状態に戻ることなく他の班員たちが互いに期待を込めた眼差しを送り合っているど真ん中に「いいよあたしがやるから」と吐き捨て、何だか勢力図が反対になり彼女の方が積極性のない班員たちに腹を立てているような図となっていた。
快進撃はまだ終わらない。班会議が終わった後、今度はクラス会議、すなわち学級委員決めが行われたのだったが、何とこれにも荒川輪子は自ら立候補した。いつの時代もクラスにひとりかふたりは進んで学級委員等の重要な役職に就きたがる積極性の擬人化のように真面目な生徒がいるもんだと思うが、まさかそれが、このクラスではこの女子だとは夢にも思っていなかった。しかもよりによってそれが、唯一のひとりだなんて。誰もが同じ気持ちだったのだろう。荒川輪子が挙手した瞬間、クラス中の驚愕の視線が教室の角に集中したからな。自分たちが立候補してないのにそれもおかしな話なのだけれど。
中でも特に担任テラサキは、死んだと思っていた敵がパワーアップして再び目の前に現れたかのように目を見張り、そして複雑そうな色を顔に滲ませた。まあ、そんな気持ちにもなるだろう。積極性を見せてくれる生徒がひとりもいない中、待望の助け舟が来てくれたかと思ったらそれが規律違反の権化とも言うべき憎きその女子生徒だったのだから。
しかし立候補者が出た以上、担任としても拒否するなんてことはできず、全会一致で学級委員が決まった。それで問題は終わりではなく、次にもうひとり予備委員なるものを選出しなければならなく、これはテラサキの指示により学級委員が指名して良いということになったのだけど――
しーん……。
起立してクラス全体を見回す荒川輪子から誰もが目を逸らした瞬間だった。全員が俯き、いじめが原因で自殺したクラスメイトの通夜のような不気味な沈黙が訪れる。こういう場合は仲の良い友達を選ぶというのが定番なのだろうけど、不幸なことに学級委員となった荒川輪子はこの時まだ親しい間柄を獲得できていなかった。というかこの先も手に入れられるのかどうか疑わしいところだったけど、とにかく荒川輪子にはこの時点で理由を付けて名指すことができるようなクラスメイトがいなかった。
それが災いした束の間の沈黙。テラサキが教壇でオロオロしているのが視界に入る。せっかく学級委員がスムーズに決まったのに、ここでこんなタイムロスが生まれるとは。俺は後先考えずに指名制なんてものを採用したテラサキに頭の中で恨みを募らせながら、ふと右隣を見た。見たというよりは睨んだという感じで、こんな役目を負わされてしまった女子のことを哀れに思いつつさっさと選べそして帰らせろという心のメッセージを送った――つもりだったんだけど――そんな出過ぎた真似をするんじゃなかったと、後で心底思った。
荒川輪子と目が合った。最初から向こうがこっちを見ていたのか、こちらの視線に気が付いて振り向いてきたのかはわからない。ただ、俺は本当にふと見たつもりでしかなかったから詳細には記憶されていなく、気が付いたら合っていたのだった。合ってしまっていた。俺がとっさに気が付かなかったフリをして目を逸らす暇もなく、彼女はにこりと笑った。親しい間柄の人間に見せるような温かみのある笑顔で、
「目、合っちゃったね。予備委員、お願いしていい?」
「無理」
俺は即答えた。相手の期待を裏切り踏みにじり恐怖に陥れる冷酷な口調のつもりだったのに荒川輪子はあざとく、
「えーっ、何でよ! いいじゃん別に。ねえお願い。予備委員なんて名前だけみたいなもんだし。誰かやってくれないとこのホームルーム終わらないんだからさー」
「無理。却下。断固拒否」
俺は学級委員も予備委員なる役職にも就くつもりなど毛頭なかった。そんな面倒な役割は他のやる気あるクラスメイトに任せて俺は悠々自適な高校生活を送るつもりなんだ。やめろ。やめてくれ。俺を面倒臭いことに巻き込まないでくれ。
――でも結論から言えば、俺は結局その役職を受け入れてしまうこととなる。予備委員なんて特にやることないから、学級委員が休んだときの代わりだからなどとテラサキからも懇願されるという非常に厄介な事態となり、結果俺は荒川輪子が欠席しない限り予備委員の出る幕はない、また荒川輪子は欠席しそうにない(そんなイメージ)ということを理解し、これ以上ホームルームが長引くことと名だけの役職を受け入れてしまうことを秤にかけた挙句後者の方が俺にかかる負担は少ないと判断したんだ。クッソめんどくさい。何でこんなことになる。
と、こんな感じで荒川輪子が学級委員となり俺が予備委員となり、このクラスは一年間の活動を開始していくこととなった。学級委員決めの件の後から荒川輪子は何を勘違いしたのか俺と少し仲良くなれたと思ったらしく、時々話しかけてくるようになったのだけれど俺は全て無視するかてきとうに返事をするかの対応を貫き通した。その度に隣の女子は嫌そうな顔になったり不満そうに口を膨らませたりしていたのだけれど俺の知ったことじゃない。俺は仲良くなったつもりなんて全くないんだからな。
自転車を教室に持ち込んでくる時点で頭を疑うところだけれど、自転車で日本一周した云々の話で俺のこの女子に対する生理的嫌悪感はMAXに達していた。あの鉄の塊を引っ提げてどっか行くって聞いただけでも嫌気が差すのに日本一周? 何だそれ。車じゃあないんだぜ? どんな頭してればそんな発想ができんだ。てかそもそも、自転車で日本一周なんてできるのか?
俺の理解の範疇を地球と太陽の距離並みに越えてるせいでワシにゃあちぃと想像もつかんよ。わっはっは。
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