第2章.隣の席の自転車狂
2-1.
◆
入学式のあった週はオリエンテーションやら健康診断、新入生学力テストなるものが目白押しで言われるがままに動いているうちに見る見る時間は過ぎていき、翌週から本格的に授業開始、これぞ高校生というような生活が始まる。俺が高校生活において華麗なるスタートを切ろうとすることにおいて最大の懸案事項であったのは右隣のクラスメイトだったのだけれど、荒川輪子は授業が始まるまでの数日間精力的にクラスメイトたちに布教活動を行っていた。
考えてみてほしい。隣の席の女子が壊れたスピーカーみたいに「自転車好き?」だとか、「ねえ、自転車興味ない?」とかってクラスメイトひとりひとり順々に触れ回ってるんだぜ? 人が聞く一生分の量の自転車というワードを一気に詰め込まれた気分だ。当分自転車という言葉を聞きたくなくなるのと同時に、好きとは何だろうかという哲学的な問いまで頭の中ではためいているような気さえ一瞬した。
もちろんひとりだけ運よく助かったなんて都合の良い話はなく、当然隣の席にいる俺もその犠牲者の一員となったわけだけれど、俺はRPGで言えば村人C(見た目はいかついおっさん)風に「んん? 自転車ぁ? 何だそりゃ。聞いたことがないなぁ」などとてきとうに返すことで難を逃れることに成功する。荒川輪子は妄想癖のある知人を哀れむような顔をしていたけどそんなことで気を病む村人なんていない。
ちなみにもちろん、初日と同じように荒川輪子は毎日欠かさず教室に自転車を持ち込んできている。壁際にレースとかで使われていそうな自転車が置いてある光景は、ほのぼの日常漫画の背景にいつも戦闘機が飛んでいるような不自然さというか妙な感じがあり落ち着かず、担任テラサキもさらに二、三回は注意を試みていたものの即座にキチガイを見るような目で睨み返され、それがショックだったのか女子生徒相手にいすくんでしまったのか、いつの間にか見て見ぬふりを決め込んでいた。
しかし結局のところ、まあ何というか当たり前かもしれないけど、荒川輪子は仲間を見つけられることはできなかったようだ。クラスメイト全員に尋ねたが芳しい回答を得ることができなかったようで、席に戻ってくると同時に大きな溜め息。机に突っ伏して落ち込んでいる風情だった。そんなこともあって、俺はと言えば、この一週間でこの女子生徒に対するイメージは既に最下層までダダ下がり済である。
第一回班活動の時のこと。高校生活での定番とも言える班作りの慣習がこの学校にも漏れなく存在し、俺は席順的な必然性により荒川輪子と同じ班となった。荒川輪子と俺の列の前から三人ずつ、計六人で一班。次の席替えまで行動を比較的共にすることが多くなるであろう集団の出来上がりだ。
机をくっつけて班体制となり、テラサキの指示により自己紹介や雑談をしつつ親睦を深め、最終的には班長を決めるというありがちな面倒を負わされた一年一組一班であるが、俺は向かい合わせとなった荒川輪子といかに不自然なく目を合わせないようにするかという事案について熟考し、また試行していた。その間に俺の鼓膜に上空を過ぎるヘリの騒音のような振動を与えていた会話というのが、
「改めて、荒川輪子と言います。趣味は自転車。自転車しか興味ないです。今はロードに乗ることがほとんどだけど、昔からbmxも乗ってます。たまにbmxで遊びたくなる時もあるけど、やっぱり性能とか機動性とか考えたらロードが一番好きかなー。何より一番スピード出しやすいし。あたしはロードの乗り味が一番好みなのかも。ねえ、この中に少しでも興味ある人、ほんとにいないの?」
数打ちゃあたる戦法の仲間集めに失敗したせいかそれまでとは打って変わって気だるそうになった荒川輪子だった。しかしそれでもよく舌の回る奴だ。専門用語なのか知らんが聞いたこともない単語をあたかも日常単語のように並び立てるのはやめてほしいというのが俺の本音だ。
「あーっと、荒川さんはほんとに自転車が好きなんだ。その自転車、ロードバイクってやつだよね? レースとかで使うやつ。そんな自転車持ってるってことはやっぱり、遠くまで出かけたりすんの?」
俺の後ろの席、今は隣り合わせになっている男子(初日の自己紹介は聞いていなかったため名前がわからない)がこの場を取り繕おうとしたのか機嫌取りしようとしたのかは知らないが恐る恐るそんなことを言った。そんなことしなくてもいいものを。何のマネだ?
「うん。ま、どれくらいの距離のことを遠くって言ってるのか知らないけど、たまにロング行ったりはするよ」
「今まで行った場所で一番遠くだったのってどこ? やっぱり、千葉とかあっちの方まで自転車で行っちゃったりするの?」
今度は荒川輪子の後ろの席の女子。皆若干引きつつも、入学式の日から目も当てられないほどの異彩を放ちまくっている自転車女郎に興味を持たざるを得ないといった様子だった。
「うーん。一番遠い場所かあ。距離で言うなら、北海道? 九州の方が遠かったのかな。小さい頃あちこち行ったから、一番遠い場所って言ってもうまく言えないなー。大抵の場所は行ったことあると思う」
荒川輪子が過去を懐かしむように言い、俺は場が一瞬硬直したような感覚を覚える。
「ほっ、北海道? ああ、新幹線とか飛行機で自転車を持ってって、向こうでサイクリングしてたってこと? 輪行って言うんだよな、そういうの。俺の友達もしてたから知ってるよ」
「んー? 違うよ。あたしは輪行じゃなくて自走で行ってる」
最初の男子が得意ぶって(動揺しているのが見え見えだ)言ったのに対し荒川輪子はさらりと答え、
「小学校の時ね、何年生だったかなー、あんまり詳しく覚えてないけど、日本一周してきたの。初めに北海道まで行って、そこから鹿児島まで走って、帰ってきたの。お母さんに連れられてね。色んな所回ったしあたしまだ小学生だったから、何県のどこを回ったとか全然わかんなくて覚えてないんだけど。でも、だからそん時にほとんどの場所行ってきちゃったかな」
誰でも体験するありきたりな思い出を語るかのようにスラスラと話す。
「日本……一周? えーとー、電車とかで?」
「はー? 何でいきなり電車が出てくんの。自転車でに決まってるでしょ。電車なんて乗るわけないじゃん」
「あー、あー、そっか。自転車でかー。日本一周したんだ。それはすごいな」
男子は目も口も点にして棒読みした。その顔には「マジかよこいつ」の七文字が浮かんでいる。その男子だけじゃない。聞いていた班員全員の顔面上で、同じ文字列がひしめいているのが見て取れた。
実際、俺も思った。マジかよこいつ。そんな「あー、あの頃は俺もよくその公園で遊んでたなー」とかいう風に懐古の情に浸る感じに日本一周の思い出話をするものか? しかも自転車で? 自転車で日本一周? 隣の男子じゃないが、電車での間違えじゃないのか? それか、ヒッチハイクとかでするもんだろう。そう言った類の長旅っていうのは。
でも、そうではないということは目の前の女子の真剣そのものの表情が物語っていた。今はその背にある彼女の自転車までもが主張しているかのようだった。我が主の言っていることは正しいと、無言の圧力が壁から迫ってきているかのようだった。
「えっとさ、そういう自転車ってすごい高いんでしょ? いくらくらいするの?」
(汗)が後に続きそうな感じで他の班員。
「んーとね、合計でどれくらかなー。まずフレームが四十でしょ。ホイールも前後で四十で、コンポがフルセット二十くらいかな。うーん、ま、他のも全部合わせて百ちょっとって感じなんじゃない?」
対する荒川輪子は後に何も続かないごく普通の口調だ。まるで駄菓子の値段を聞かれて答えているかのように。あれか、英語流の数え方でハンドレッド・サウザンド。つまり十万。まあそんなところだろう。本格的な自転車が高いということくらい何となく知っているし想像も付くから、それくらいじゃあ俺は全然驚かないぜ。
俺の横の男子も勘違いしたのかとぼけたのか、
「えっ、百円? それってガチャポンの景品か何かなの?」
「……バカにしてんの?」
斜め前から突き刺されるように睨まれ、男子は押し黙る。
荒川輪子はマジだった。ハンドレッド・サウザンドなどとふざけている場合ではなく、この女子生徒の脇に佇む自転車は嘘偽りなく百。後に続く単位は万。百万円以上の価値があるものらしかった。
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