1-6.

 ◆


 自転車が好きってなんだ? 俺の知っている自転車というものは移動手段というカテゴリにしか含まれていなく、好きになれる要素がどこにも見当たらない。だから、自転車が好きというフレーズを聞いて俺は、色のない緑色のアイデアとか荒れ狂って寝るとかそういった言語学的な不思議を感じさせられた。そして、それとともに昨晩の記憶が蘇る。いや、正確には夢の記憶かもしれない。リアリスティックな感触があるため本当にあった出来事のような気がしなくもなかったけど、夢だったような気がするのも否めない。砂浜に現れた白髪の少女。そういえば、あの女の子も同じようなことを言ってたような気がするな。なんだっけ。自転車に興味がある? 自転車は楽しい? 

 

 俺はふと荒川輪子という名前に引っかかりを覚える。その点についても通じる箇所があったような――そうだ、名前だ。確か、あの女の子も同じような響きのする名前だったような。なんだったけか……リンコツ? 鱗骨? ウロコのホネ? ハンティング系ゲームの素材か何かか? リンコとリンコツ。うーん、これは関係ないか? 無理矢理感がある気もするけど、偶然なのだろうか。

 

 「リンコツじゃなくてリンコツーね。リンコ・ツー。間違えないで」

 

 おお、そうだったか。リンコツじゃなくてリンコツー。最後を伸ばすか伸ばさないかだけで大分響きが変わるな。これは言い間違えるべきじゃあない。

 


 ――って。

 

 

 「おわっ!?」

 

 思わず変な声をあげてしまった。

 

 誰が話しかけてきたのかと思ったら、いつの間にか隣に真っ白い髪をした女の子がいたんだ。同じく真っ白なワンピース姿の小さな女の子。否、どうやら俺は夢を見ていたらしい。いつの間に眠ってしまったのかはわからないけど、とにかく脳内で創造される夢想の世界に入り込んでしまっていたようだ。何故なら、その女の子はよく見れば、昨晩の夢の中でも出会ったあの自転車に乗った不思議な少女だったからだ。

 

 「夢じゃないよ。私はここにいる。江戸さん起きて」

 

 「夢じゃない……? それならここはどこ……?」

 

 辺りを見渡す。開発計画途中で広い道だけが先に出来上がり、見慣れたオーロラブリッジの眺望が前方ひたすらに良い長い長い橋の上。朝も通ったばかりの通学路の途中だ。青空が眩しい。どうやら確かに夢じゃないらしい。

 

 「……っていうことは?」

 

 俺はいつの間にそこいたのかもわからない女の子、リンコ・ツー(どういう意味?)を見た。この昼間に見ても変わらない清らかさを誇る白い髪にエルフの彫刻かと勘違いしてしまうくらいに整った顔立ち。そして、黒い自転車。ペダルに両足を乗せたままなのにまるで見えないレールに実はしっかりと固定されているかのようにフラつく気配すら感じさせないこのバランスの良さ。

 

 確かに昨晩砂浜で会ったあの女の子だ。夢の中の出来事じゃなかったのだとすれば、実際に会って会話をした女の子ということになる。

 

 「フフ、思い出してくれた? 私のこと、覚えておいてね。これからいっぱい会うことになると思うから」

 

 リンコ・ツー(言いづらいから以下リンコ)がうっすら微笑む様子にはなんとなく、雪解け水を思わせる儚さがあった。俺の知っている限りの女性には真似できそうにもない、絵画のような笑みだった。

 

 「ちょっと、ちょっと待ってくれ。説明を省きすぎじゃねえか? 何が何だかわからねえよ。せめてさ、うーんと、そうだ、名前だけじゃなくてもっといろいろと教えてくれねえか? えっと、リンコ・ツー……ちゃん」

 

 「ツーでいいよ」と、リンコは微笑みを崩さないまま、

 

 「リンコからもそう呼ばれてるから」

 

 そうか。それならば遠慮なく以下ツーとさせてもらおう。ん? てか今言ったリンコっていうのは、誰のことだ?

 

 「リンコには会った?」

 

 俺に考える暇も与えずツーは聞いてくる。だからその、リンコっていうのは誰なんだ。リンコ・ツーとは違うのか?

 

 「ええっと、聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえずひとつだけ。お前の言うリンコっていうのは……」

 

 「荒川リンコ。輪っかに子って書いて、輪子。輪っかっていうかこの場合は、車輪の輪ね。自転車のホイールのこと」

 

 ゲッ。

 

 俺が胸騒ぎと共にに予感していたところをドンピシャに言い当ててきやがった。

 

 荒川輪子。会ったも何も、つい先ほど学校でそいつの姿をいやがおうにも目に焼き付けさせられてきたばかりのことだ。どういうことだ? 高校入学という新鮮味溢れる記念すべきイベントに便乗するかのように何だかモヤモヤとした未体験ゾーンが押し寄せてきたせいで状況がイマイチ把握できていない。藪から棒ならぬ森から鉄塔くらいに唐突かつ非常識なことすぎて(一介の男子高校生の前に突然超絶美少女が現れる時点で普通に考えればおかしいだろう)、もはや驚きを通り越して俺は呆気の境地に至り、頭が真っ白になるあまり清々しく見えるようになった世界の中でむしろ冷静に現実を見つめられている。

 

 まず謎の美少女ツーが現れ、次に頭のネジが三百本くらい外れていそうな女子生徒と同じクラスになる。どちらも俺にとっては寝耳に水の新大陸発見並みに衝撃的な体験だったわけであるけど、一見すればこのふたつの出来事には何ら関連性があるようには見えない。しかしそこでなんと、謎の美少女ツーは俺の同級生となったばかりの女子生徒、荒川輪子の名前を出してきたのであった。

 

 違う場所で出会ったとある別々の人物の片方がもう片方の名前を出した、というだけならああそうか実はそのふたりは知り合いだったんだという何の変哲もない話で終わる。しかし、俺の場合はそんな簡単に伏線を回収できるどころか、どこに伏線があるのか、そもそも何本の伏線が隠されているのかも想像がつかない、もしかしたら伏線など既に渦に呑まれてそこにはカオスしか存在していないんじゃないかって疑っちまうくらいふたりの設定が謎すぎる。

 

 そもそも何だよ白髪の美少女って。どこのメルヘンワールドだよ。

  

 「リンコ可愛かったでしょ」


 俺の当惑もどこ吹く風、ツーは花びらのようにやわらかく笑った。

 

 「待とう。ひとまず落ち着いて待とう。静かに心を空にして考えれば見えてくるものもあるかもしれねえしな。俺が入試で難問にぶち当たった時がそうだった。壁が高すぎて通り越せないように見えても、焦らずに観察してみれば思わぬ抜け穴が見つかることだって珍しくなんかない。質問したいことが多すぎて何から言えばいいのかわかんねえけど、とりあえず直近の疑問から言わせてもらおう」

 

 「なーに?」


 俺が制止を入れると、ツーは無邪気な少女の顔で、それでいながらどこか果てしない距離を感じさせるような妖艶さを含んだ微笑みを浮かべて首を傾げた。


 さらりと流れる髪がちらちらと光っている。


 マイターン。クエスチョン。ナンバーワン(英語教材のCDに録音されている感じで)。

 

 「荒川輪子にならついさっき会ってきた。て言っても、同じクラスだっただけで何も話してはないけどな。正直、かなり頭がイカれてるようにしか見えなかったけど、お前はあいつと知り合いなのか?」

 

 「うん」と、ツー。前後に身体を揺らしながら楽しげに、

 

 「そうだよ。私とリンコは知り合い。って言うよりも姉妹って感じかな」

 

 「姉妹? 全然そんな風には見えねえぞ? 自転車にまつわるへんちくりんなプロフィールがあることくらいしか共通点が見いだせないんだけど」

 

 「そうだね。まあ、確かに血が繋がってるわけではないから」

 

 「養子か何かか? 親が子持ちと再婚したとかそういう類のあれか? どういうことだよ」

 

 「どういうことだろうね。フフフ」

 

 言ってツーは俺の周りをクルクル回り出す(もちろん自転車に乗ったまま)。

 

 この女の子は何が言いたいのだろう? 何のつもりだろう? 中学校時代の同級生だったら即座に殴り飛ばしたい衝動に駆られるような返答ではあるが、ツーの笑い声が笛の音色のように癒しの波長を伴って耳に入ってきたため、俺は何とか不審に思うのみに留まる。

 

 「何だかよくわかんねえけど、まともに会話する気がないのなら俺は帰るぞ。時間の無駄だ。それに、お前といい荒川輪子といい、理解できない奴が立て続けに現れやがったせいで頭がこんがらがってんだよ。疲れるわ」

 

 俺がついに本音を吐くと、(うざったいことに)コンパスで円を描くように正確な軌道を何度も描いていたツーは俺の視界の真ん中でいきなり止まって、


 「帰れば?」

 

 何だこいつ。

 

 そう思うしかなかった。

 

 俺がテンプレートな思考に囚われていると、

 

 「別に止めたりしないよ。帰りたかったら帰ってもいいよー」

 

 ツーは歌うように言った。


 それにしても、なおも自転車から降りない奴である。と言うかペダルから一切足を離さない。離そうとすらしている気配がない。今止まったときも寸分たりともブレることがなかったし、また今度は俺の前のスペースを相変わらずの安定性でクルクルし出している。自転車に乗るのが好きなのだろうか――と、俺はふと考え、そしてこれまでになかった感覚を自分が味わっていることに気が付いた。


 なるほどな、と不本意ながら納得でき、こんな感じなのか、とスッキリした気分になった。到底理解はできないけど。自転車が好き、だなんて。

 

 「付き合いきれねえよ。じゃあな」

 

 俺はそう吐き捨て、ツーに背を向けた。思い残すことなどない。厄介事からは早々に身を退くのが賢明ってもんだ。

 

 「うん、またね。リンコと仲良くしてあげてね」

 

 後ろでツーの声がし、向こうも反対側へ去って行ったことを気配で悟る。

 

 俺は片手で鞄を持ち片手をズボンのポケットに突っ込んで学校青春ドラマの主役のイケメン俳優よろしくカッコよく立ち去ろうとしたのだけれどすぐに違和感を覚えて立ち止まってしまった。

 

 

 ん? 今なんて言った? またね……?

 

 

 思わず振り返ると、もうずっと先の方まで行ってしまったツーの後ろ姿が微かに見えるだけだった。白ワンピースの格好で白髪の少女が自転車を漕いでいるのがはるか遠くに小さく見えるのは、本当に妖精が飛んでいるかのようにも見えた。遠目でもわかる異常なまでの安定感。誰でも無意識的にはわかっていることで俺はここで初めて意識的に気が付いたのだけれど、自転車に乗っている人間というのはまっすぐ走っていると表現されても実際は必ずバランスを取るために少なくともミクロ単位では蛇行するように左右に動いているもんだ。


 でも、あの女の子にはそれがないのだった。ペダルを漕ぐ足は動いているのに、それの反動で体がブレることがない。下半身だけが動くようになっているおもちゃかからくり人形のように、なびく髪を除いて上体はただ直線的で精密な軌道を描いているのだった。

 

 それにしても、やけにスピードが速いように見えるのは気のせいだろうか? 全然そんなに力を入れて漕いでいるようには見えないのだけれど。むしろ乗り手の様子からしたらのんびりリラックスしながらサイクリングしているようにしか見えない。しかしながらでも、あれ、もうあっちまで行っちゃった。

 

 つい最近できたばかりであまり知られていないせいか真新しい割に車も人もほとんど通らない道の真ん中にただひとり。まだ太陽が天の頂点を通り過ぎたばかりの空は青々しく、その下で相変わらず海も遠くまで広がっている。


 清々しい去りざまを演じたはずが、自分の方が取り残されて寂しい図になっているような気がするのはまあ気のせいということにしておこう。異論なし。可決。

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