1-5.
そして現在、その女子生徒は俺の隣にいた。入学式会場の隙間なく並べられた席で寄り添うような隣ではなく、机付きの席で人一人分の通路を挟んでの隣。ここは教室なので、いわゆる隣の席ってやつだ。席は出席番号順のため、入学式でも最前列に座っていたその女子はここでも最前列右端の席で、廊下側である。言うまでもなく出席番号一番。タチの悪い運命の嫌がらせなのか、俺は同じく最前列で右から二番目。高校に入学したてで早くも関わりたくないと思った人物の左隣という席順が誰のお恵みなのかありがたくも与えられたんだ。
右隣に鎮座する女子は先ほどよりもお鎮まりになられているように見える。身長は平均よりは少し高めといったところで、細身だ。スタイルに関しては申し分なく、今はキャップがなくあらわになった顔も、髪が多少はねているのと表情が超絶不機嫌そうなのがマイナスだけれどやはり整っていて、学校のアイドル級美人とまではいかずともそれなりにモテそうなことを伺わせる。まあ、見た目だけの話ならばなのだけれども。極めつけのどうしようもないマイナスポイントは他でもない、そのすぐ隣、壁に立て掛けられている自転車だ。
数刻前に入学式会場に持ち込まれて騒ぎの発端となったあの自転車が、今度はこの教室内にあるのだ。体育館から当たり前のようにここまで自分の自転車を運んだこの女子が、止めようとする教師を説き伏せ、置き場所を無事確保して安泰となった直後のことだった。 教壇に上がった担任の男性教師はかなり複雑そうな顔をしている。戦争に負け、理不尽な不平等条約を受け入れざるを得ず、屈辱に呑まれながら自国へと帰還した総司令官のような面持ちだった。
「えー……と、まあ、こほん。そういうことで、じゃあまずは自己紹介から始めようか」
どういうことか全くわからないのにそういうことにしてしまえる魔法の言葉を用いつつ、担任は寺崎雄一と名乗った。テラサキ。今年度一年間ともに過ごす担任。見た目は若く学生時代は体育会系でしたと主張の激しい容貌で、規律に厳しく真面目そうな教師といった感じだ。まあ早々にして生徒の規律違反を正すことに失敗しているのだけれど。
そしてテラサキはクラスの生徒たちにも順番に自己紹介をするように促した。何の趣向も凝らさない出席番号順だ。つまりは俺の右隣の女子――高校生活初日にしてこのクラスの生徒はそいつとその他の二グループに分けてしまっても何の差支えもなさそうなくらい強烈な印象を既に周りに植え付けているその女子が最初だ。
たったこの数時間だけで数十名の高校生に多大な人生経験を与えるという偉業を成し遂げた出席番号一番は、そして立ち上がった。
「荒川輪子って言います! よろしくお願いします。自転車が好きで好きで大好きで、物心ついた頃からずーっと自転車に乗ってると思います。このコは中学の卒業祝いに買い替えてもらった今のバイクで、フレームは念願のフルカーボン! ホイールは前から使ってたやつだけど、軽くてとっても気に入ってるの。何よりこの見た目! このぶっといスポークの組み方めーっちゃカッコよくない!? この本数でしっかり剛性もあるし、ラチェットもいい音出してる! パーツは使い回しが多いけど、ステムとハンドルは剛性高いのに変えてます。あ、あとコンポも新型のにした! さすが、すごい精度上がってて使いやすさ抜群、って感じ! シューズもカーボンソールの新しいのにしたし、とにかく、これからもいっぱい自転車に乗っていけたらな、って思ってます。自転車好きな人いたら教えてください!」
……。
しーん。
誰も何も言わない。
俺が教室だと思っていた場所は、実は砂漠だったのかもしれなかった。
「そ、そうか、自転車がすごく好きなんだな。いいな。とても愛が伝わってきたよ。まあ、好きなものを手元に置いておきたい気持ちはわかるけど、明日からは自転車はちゃんと自転車置き場に置いてきてくれよ。今日はもういいから、な?」
「嫌」
テラサキが恐る恐る紡いだ言葉に対し女子生徒、荒川輪子は即答した。
「嫌じゃなくてなあ、おい……」
「ねえ、今自己紹介の時間でしょ。そんな話してる場合なの?」
「ぐぐ……」
担任教師に平気でタメ口で話しかける生徒荒川輪子と、それに完全に押し切られてしまっている担任テラサキ。この女子の目にはもうテラサキという男のことが担任ではなく敵対者としてしか映っていないのかもしれない。
かくして強制的に自己紹介は続行させられた。この時間を映画に例えるならば、クライマックスがいきなり最初に来たせいで後の展開は取るに足らないほとんど意味のなさない場面というクッソつまらない作品に他ならなかった。誰が何という名前で趣味が何だったかなんてほとんど覚えていない。俺も名前を言うだけで終わりにしたから左隣の女子の心すら一ミリも動かさなかっただろうし、後ろの男子に至っては鼓膜が振動していたかも危うい。そんな感じで自己紹介が終わると、手紙の配布やこれからの学校生活の簡単な説明などが事務的に行われてこの日は終わりとなる。
解散が告げられると、俺はそそくさと教室を後にした。クラスメイトたちが周囲の人間と打ち解けるべく話しかけるなどしてぎこちない活動を始めたからだ。別にこれから長い時を共にするであろうクラスメイトたちと親交を深めたくなかったというわけではないけれど、俺は右隣の女子に話しかけられるのを恐れていた。自己紹介で嬉々と語った謎の内容――自転車が好きだということしか聞き取れなかったけど、俺は直感した。あれはヤバい奴だ。関わると面倒なことになる。本能がそう告げている。俺は荒川輪子から逃げたのだった。
あの女子生徒はてっきり不愛想キャラで、不機嫌を貫き通すのだとばかり思っていた。でも自己紹介の時、あの意味の分からない専門用語的な何かの呪文を捲し立てている最中は心底楽しそうに目を輝かせていたのが印象的だった。
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