1-2.
固まったというのは比喩で、あまりにも予想外すぎたから固まったように見えてしまったんだ。
まるで突然そこの空間だけ絶対零度に達して時間すらも止まってしまったかのようにも思えたくらいだ。女の子はペダルに両足とも乗せたまま、走っている時の格好で止まっている。静止している。
本当に時間が止まったわけではない。風の音も波の音も、巨大な橋を無数の車が走っていく音も普段と変わりなく聞こえる。しかし女の子は止まっていた。自転車に乗ったまま、直立したまま、バランスを一切崩すことなく、地面に足を下ろすことのないまま、美しい少女は止まっていた。
実際に女の子は温もりを保ったままだった。驚きを通り越してあっけにとられる俺を気にする様子もなく、首から下を模型のように静止させた状態でやわらかな笑みを向けてきたんだ。
そして、自分が妖精だと語る。
この状況で平常時と同じように思考を働かせて対応できる人間がいるなら俺は尊敬するぜ。事実、俺は到底そんなことはできなかった。別に焦っていたとか、驚きのあまり正気を失っていたとかそういうわけではない。突然現れた異様な女の子に恐怖していたわけでもない。
俺はただ、どう答えればいいのかわからなかったんだ。
「ええっと……。そうか、よろしく」
俺はそんなことを言った。よろしくと言われたから反射的に同じ言葉を繰り返してしまっただけで、よろしくお願いして親睦を深める相手かどうかという判断をしなければならないかどうかという思考さえ飛ばしてしまっていた。
女の子はそのままの格好で、
「江戸さんって自転車好き? 興味ある? 乗ったことある? 自転車って楽しいんだよ。一緒に乗ろうよ」
唐突すぎて何の話だかわからず、俺は名乗ってもないのに自分の名前が知られていることを訝しむことさえ忘れていた。
綺麗な夜景の中で綺麗な女の子とふたりきりで話しているというシチュエーションについて一旦気にしないでおくにしても、初対面でいきなり自転車に興味があるのかなんて聞いてくる時点で意味がわからない。質問の意図が全くもって理解不能だったがちなみに俺は嫌いなものランキングトップ10には入るくらい自転車が嫌いだ。
理由は簡単で、面倒臭いし疲れるからだ。俺は移動するということそれ自体がこの上なく面倒な行為だと思っているので、わざわざあんなクッソ重い鉄の塊を動かすなどという重労働を強いられてまでどこかへ移動をしなければならないなんてことを考えただけで吐き気がする。自転車なんていう鉄クズを買うことの意義がそもそも感じられないどころか好き好んで自転車移動をする人間の頭の構造が知れない。
だから自転車に興味があるのかという質問は素っ頓狂を通り越してもはや俺の頭の処理能力では理解が及ばず、いきなり何もない空間を指差して「これ何?」と聞かれるのと同じくらいの重要性しか認識できなかった。
「ああ、まあ、そうだな。楽しいかどうかは置いといて、一緒に乗るのはできねえな。俺、自転車持ってないし。幼稚園の頃以来乗ってもないから、乗れるかもわかんねえや」
俺は空っぽになった頭でそんな風に答えていたと思う。
女の子は特に残念がる様子もなかった。うっすらと微笑みを湛えた表情を崩すことなく彼女は、
「乗れるよ。だって江戸さん、才能あるもん。近年稀に見るほどの才能だよ。乗れば驚くほどの力を発揮できる。私にはわかるよ。だって私は自転車の妖精だから。自転車のことなら何でもわかるんだ」
才能才能うるさいと思ったら、また妖精だとさ。本当に妖精みたいな見た目をしているんだから、それで妖精だと自称されるとひたすら薄気味悪い。俺は洗脳でもされているのだろうか? これは催眠術のようなもので、気が付いたら大量の自転車を購入させられていた……なんてことになるのではないだろうな。
「ふうん。妖精なのはすごいと思うしその博識も自信も称賛に値するとは思うけど、あいにく俺はそこまで自転車に興味がないんだなぁ。才能が本当にあるんだとしても、残念ながら開花させられないと思うぜ。誰かに譲ってやりたいよ」
「今は興味なくても、そのうちきっとわかるから。自転車って楽しいもん。本当に。最高だよ。きっと江戸さんも、わかってくれる。その才能は誰にもあげられない。江戸さんだけのものだから。江戸さんじゃなければ、花を開かすこともできないよ」
「へえ、そうなのか。まあ、そうだな、いきなりすぎてよくわからないし、とりあえず保留ってことでいいか? 確かにお前の言う通り、俺もそのうち自転車の楽しさを理解できるようになるかもしれないし、隠された才能に気付く時が来るかもしれない。人生って言うのはほんと、いつ何が起こるかわからないからな。人の好みだってふとしたきっかけで変わっちまうもんだし。でも、今はまだわからねえよ。そうだな、いつか俺も自転車が楽しいと感じるようになったら、その時は一緒にサイクリングしてやってもいいぜ」
俺が出まかせに心にもないことを言うと、女の子は満足したのか「フフ、そうね」と言い残してそのまま去ってしまった。
さて、終始何なのかわからなかった。いきなり女の子が現れたのはまあいいとしても、その子がめちゃくちゃ綺麗すぎて逆に気味悪かったり、自転車に乗ったまま驚異のバランス能力を持っていたり、意味不明なことを聞いてきたり、と思ったらよくわからないタイミングで帰ってしまったり。
謎が多すぎて理解しようとする気にもなれず、むしろ気にするのも面倒で俺は意外にも女の子が去った後は別に不思議で非日常な余韻に浸ることもなくすんなりと元の精神状態に戻ることができた。
時間が経つにつれてその晩の出来事は夢だったんじゃないだろうかという疑いさえ生まれ始めていた。もしかして今のは、リアルな夢だったんじゃないか? 俗に言う白昼夢というやつだろうか。夜だから何だ、暗夜夢とでも言うべきか? それじゃ意外性がないか。いや、そんなことはどうでもいい。
俺はその後普通に家に帰り、数刻前の出来事を家族に話すこともなく普通に床に就いた。ちなみに俺の妹は文武両道にして才色兼備(?)、勘が鋭く微細な変化でもけっこう敏感に読み取る奴だがその妹に何も言われなかったので俺がいかに先ほどの出会いのことを綺麗さっぱり忘れ去ってしまっていたかがわかるだろう。
俺はそして、晴れやかな気分で翌日の入学式に臨んだ。
二日続けて奇想天外な出会いを経験することになるなんて、思ってなかったし思いたくもなかった。
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