自転車女子列伝 ~荒川輪子は自転車を愛する~

江戸ミヅキ

自転車女子列伝

第1章.出会いは立て続けて

1ー1.

 ◆


 しっとりした空気にまだ微かに冬の匂いが残る夜のこと。

 

 澄み切った空の下で、既に寝息を立て始めた宵の街を起こさないよう、ほんのり潮の香りと波の音が小声で囁き合っている。情景描写をするならそれくらいが精いっぱいなくらい、何てことはない夜のこと。

 

 まず初めに目を引いたのは、その清らかな水の流れのように透き通った白い髪だった。腰まで長さのある髪をフワフワサラリと雪が舞うように風になびかせながらその少女は現れた。


 前髪は眉を隠すくらいで切り揃えられていて、その下から覗く顔は幼く、また整っている。赤ちゃんのようとでも言うのがふさわしそうな白く滑らかな肌に、真ん丸な目とはこういうことを言うのだろうと思わせる大きな目。宝石のような青い瞳。小ぶりながらもくっきりとした鼻に、プルリン唇。

 

 世界一優れた遺伝子を受け継ぐ子どもでもここまでの容姿になるのだろうか? 何とか物語とか何とか戦記とかっていうタイトルがついた異世界が舞台の壮大な冒険物語のヒロインか王女、もしくは転生モノで主人公の案内役的妖精的なポジションのキャラクターを瞬時に思ってしまうほど、優美で目につく容貌だった。

 

 事実その女の子は自分が妖精だと語った。淡い光に包まれているように見えるのが錯覚なのか街灯のせいなのか実は本当にそうなのかわからなく見ているだけで混乱しそうになる彼女は、

 

 「こんにちは。私は自転車の妖精。自転車の楽しさを皆に教えるためにこの世界にやって来たの。よろしくね」

 

 俺の目の前に現れるなりそう言ってきたんだ。

 

 ファンタジー云々は一度置いておくにしても、それでも人生に一度出会えれば幸せレベルに綺麗な女の子と対面したときのことを考えてみてほしい。

 

 美しい白髪の可憐な姿。白人の女の子によく似あいそうな純白のワンピースを身に纏った幼い子どもが突然フラフラーっと自分の元にやって来るんだ。


 それも、自転車に乗って(これが何故か全く似合わない真っ黒のやつで)。

 

 目の前で、唐突に、自分が妖精だと告げてくる。

 

 自転車に乗ったまま、ペダルから足も離さず静止した状態で。

 

 

 

 街がすっかり暗くなって、これから本格的に夜の闇が深くなっていくだろうと思われるくらいの時間帯のことだった。


 翌日に高校の入学式を控えていた俺は落ち着かないというほどでもないけど何の虫の知らせかも知らないけれど何となく眠る気が起きず、自分で言うのも変だけれど珍しく気晴らしに散歩へ出かけることにした。


 何十個も連なった高層ビル並に大きな橋(オーロラブリッジと呼ばれている)が煌々と海峡を跨ぎ、その向こうに都会のオフィスビル群が所狭しと並んでいるのを端から端まで一望できる人工砂浜から徒歩一分という人に言わせればこの上ない好立地にそびえるマンションの一室が我が家であり、まあ必然的にというわけでもないけれども何となくという理由で出かけるのにその砂浜はぴったりのロケーションだった。


 だから俺も特に意識したわけではないけれど自然と足をそちらの方へ向けていて、ぼんやりとしながら気が付いたら静謐さに満ちた夜景の中にいた。

 

 人も少なく雑音もなく、見渡す限りの海と街のコラボレーション夜景が見られるこの場所は世のカップルの大好物に成り得るだろうけどあいにく俺にとってはただの見慣れた近所の景色の枠を出ることはなく、ただまあ静かなのは確かだし広々としていて落ち着くからという理由で嫌いな場所ではない。自販機で買った缶コーヒーを片手にベンチに座ってボーっとしていた。


 普段は夜に外へ出るなど俺は面倒なためこれが日課だなんてことは決してない。ただまあ、一カ月に一回、いや数か月、もしくは一年に一回くらいはこんなことをしてもいいんじゃないかって思うんだ。何がいいのかってそんなことは知らないしわからないけど、そんなもんだろ?何となく、とか、気晴らし、なんてものはさ。

 

 とにかく、そんな時だったんだ。キラキラと瞬く地上の星々(なんて詩人気取りは表現するに違いない)を何も考えずにぼんやり眺めていると、地上の流れ星の如くそいつは俺の視界に入ってきた。


 最初はただ単に、その白という珍しい色をした髪に目を引かれたくらいだった。街中を歩いていたらモデル並みの超絶美人とすれ違った時くらいの微小な衝撃を胸にさりげなく目で追おうとすると、追うまでもなくそいつは目の前で停止する。


 男なら誰だって、公園でベンチに座っている時に好みの女が隣に座りでもしたら多かれ少なかれ根拠のない期待の混じった焦燥感に駆られることだろう。俺もそれに似た成分が分子ひとつ分くらい混じった気分になったことは否めないけど、そんな俺を誰が責められるって言うんだ。


 だって、意識が自動的かつ強制的に集中モードに入った時、文字通り人形のような洋風、否、西洋ファンタジー風の女の子が目と鼻の先にいて、互いの視線が寸分狂うことなく交わっているなんていう状況にあったんだぜ? さながら幻想レベルに美しい女の子と目が合っているという時点でおかしかったけど、よく観察すればおかしい点はもう少々あった。

 

 まず、その女の子は自転車に乗っている。いや、自転車に乗っていること自体は別におかしくはないけど、なにせ見た目がものすごく優れているんだ。運動なんていう野暮な事象とは一切無縁の中世ヨーロッパの貴族の娘のような見た目をしているから、何となく庶民の乗り物感が強い自転車とはイメージがつり合わない。それもオシャレな街並みに似合うシャレオツな自転車というわけでもなく、真っ黒で小径車で無駄なものが一切省かれた徹底的に無機質なデザインなんだ。


 そんな自転車に、それが当たり前なのだと無意識に納得させられてしまうほど自然な風に乗っている。乗り方が上手いからとかって理由かはわからないしそもそも俺は自転車の乗り方の良し悪しなど知ったこっちゃないけれど、とにかくその女の子が自転車に乗っている姿は様になっていた。自転車など乗る練習をした時以来乗ったことのないような俺でさえわかるくらい、綺麗なフォームだった。

 

 そして極めつけに、その女の子は俺の目の前へふらりと来るなり、そのまま静止したんだ。


 普通、自転車に乗っている時に駐輪場なり信号なり停止する時は、停止位置を何となく頭でイメージし、そのポイントに近づくにつれゆっくり減速、続けて止まるのと同じくらいのタイミングで片足をペダルから離して地面につけるだろう。そうしないとバランスが取れないからだ。足をペダルから離さないまま止まるなんて暴挙に出れば、たちまちのうちにバランスが取れなくなって倒れてしまう。


 そんなことは自転車にまともに乗ったことのない俺ですらわかる当たり前のことで、当たり前すぎてあえて説明する人間なんて今ここにいる俺が世界で初めてだろうレベルの常識のはずだ。

 

 それゆえ、自転車で停止に向けて減速している人をみれば、無意識のうちにそこから地面に足をつくまでの動作を連想する。そして実際にその人が予想通りの動作を行ったことで自分でも気づかぬうちに脳が勝手に納得して、安心してその情景から目を離せるというのが人間の脳のメカニズム――なのかは知らないけど、何となくその感覚についてはわかってもらえるだろうと思うし思いたい。


 だから、そこでその予想に反することが起これば反射的に目を釘付けにされることとなるということは論理的に容易に導かれる結論であり、何を隠そうこの時の俺がそうだったんだ。

 

 美しい自転車少女はゆっくりと俺の前へやってきて、その自転車及び周囲の空間に全く衝撃と振動を与えることがなさそうなくらい緩やかでスムーズな減速をし、やがて速度はゼロとなり――



 そのまま、固まった。

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