第10話 星天のリフレイン

 耳をませると聞こえてくる音。それは――、水の音だった。

 さらさらと、耳をませないとわからないぐらいに、しかし、確かに水が流れていく音がする。

 革靴をいた足を動かすと、かすかに水がねた。

 風の魔法の余韻よいんとして散る燐光りんこうも薄まり、辺りは、徐々に暗くなっていく最中さなかだ。

 もうすぐ、道を進むどころの話ではなくなってしまう。

 穴の上の坑道では、まだ、ぽつぽつと照明用の魔法陣が天井に刻まれていたり、ランタンが吊り下げられていたりもした。

 だが、この辺りは、あまり頻繁には人が立ち入らないのかもしれない。見える範囲に、そういった設備は見受けられなかった。

 どうしようも無いのであれば、スマートフォンのライトでも使うしか無いわね、と考えながら、映はため息をつく。暗闇は苦手だ。

「【水の音しか聞こえないのだけれど? 地下河川ちかかせんを辿っていけば、渓谷けいこくの谷間にでも通じているのかしら?】」

「【ここら辺の地下深度だとそういった場所は無いな】」

「【説明をしなさい、と私は言ったわ】」

 むっとする映に、ウィルマーはいたずらっ子のように口の端を吊り上げる。

「【あるんだ――。この先に、地上へと労せずに戻れる一本道が】」

 付いてきなよと手で合図をして、壁に空いた穴にもぐりこもうとする背中に、映は声をかける。

「【灯りもなしに暗闇を歩くつもり?】」

 その指は、ウィルマーのシャツのすそをちんまりと掴んでいた。

 自分の声は、かすかにふるえていただろうか。生意気にも、何かをさとったようにウィルマーは体を引き戻す。

「【……、もうすぐだから灯りは必要ないと思うけど、一応確保はしとくか】」

 んー……と考える。

「【ランタンは無いし……となると──。あれ、苦手なんだよなあ……】」

 と、何かぶつぶつと言いながら、手を腰にやると、ウィルマーは、ベルトに吊り下げた革のケースから、指一本分の長さの円筒形のものを取り出した。乳白色の粉を固めたような物体だ。

 それをチョークのように使い、手のひらに紋章を描いていく。円陣を描き、その中に、とげのようなものを同心円状に開かせ、最後に中央にシンボルを刻み込む。

「【光精霊ティールの導きにおいて、ことわりを示せ】」

 トン、とチョークで円陣をつつくと、不可視の波紋があふれたような気がした。

 その言葉とともに、光の粒子が集まり、えがかれた紋章がにぶく発光しだす。

 これは、坑道内の天井に記されていたものと同じような紋章だ――。

 光度はそれと比べられないほどに弱く、常夜灯程度の明るさだが、足元を照らすぐらいには十分だろう。

「【……ほんとに、魔法の世界なのね、ここは】」

 まじまじとウィルマーの手のひらを見て、映はつぶやいた。

 現代ではあまり感じないが、暗闇に包まれるということは、それだけで死の濃密な気配を感じる事柄ことがらだ。

 どこからどこまでが自分か分からなくなり、なにが近づいてくるのかもわからない。恐怖が、否応無しにふくらんでいく。

 風鳴りは、化け物の吠声ほうせいに聞こえ始め、小鳥の羽ばたきに、肝を冷やすようになる。恐怖は、思考を奪う。

 思考することで生き残って来た人類は、自らの強みを生かす為に、灯りを増やし続けて現代に至るのだ。

 あかりの歴史は、すなわち、不明の恐怖へ打ちつための闘争の歴史。

 私たちの地球においては、火をおこすこと、電気を使うことでそれを成しげていったが、この世界では魔法をもちいてそれを行っていくのだろう。

「【行くよ、映】」

 この世界の歴史に思いをせていた映は、呼び声に我に返る。

「【……えぇ】」


       ◆


 背の低い、ゆるく下っていく傾斜の付いた狭い斜坑。

 湿度は高くじめじめとしていて、長くいるとカビてしまいそうなほどだ。

 ブーツの足元をちょろちょろと流れていく水を追って、辿り着いた先、そこは、急に横幅が広がり、広場のようになっていた。天井かむりも高い。

 また、広場の地面ふまえは、その三分の二に水をたたえており、そこが地底湖であることが見て取れた。

 だが、何よりも驚くべきことに、その岩肌の広場には――、

「【―――っ!】」

 辺り一面に、銀河が広がっていた。

 背後にいる映から、息をのむ声が聞こえる。一度見たことのあるウィルマーでも、見惚みとれるほどの絶景。

 二人が食い入るようにあおぐ、岩肌の天井かむり。そこは、まるで宇宙に飛び出したかのような、騒がしいほどのきらめきに満ちていた。暗闇でぼうっと光る、青白い小さな光たち。それらが見渡す限りのどべら天井かむりに無数にともり、星空を構成している。場所によっては、きらめく糸がレース飾りのように天から吊り下がっていた。星空をたゆたう光が、地底湖の水面に反射してはまた輝いて、まるで星空に足をひたしているような景色。その湖面にボートでも浮かべたら、さぞかし幻想的でロマンチックなことだろう。

「【少し、ここで休もうか】」

 ウィルマーは、坑道からチョロチョロと流れてくる水の道を避け、渇いている壁際どべらの地面に腰を下ろす。背中にかついでいた幼火土竜サラマンドひもをほどいて膝の上に乗せると、のん気なことに寝息をかいていた。

 映はぴくりとも動かず、洞窟の星空を食い入るように見とれている。かといって目を輝かせているというわけではなく、いつもの彫像のような冷えた表情だ。

 しかし、目の前の光景を、視覚から貪欲どんよくに取り入れようとしていることが、その姿勢から分かった。

「【これは──、なんなの?】」

「【岩窟の星天シュテルネンヘーレ……、〝日本〟でいうところのホタルみたいなものだよ。水が綺麗なところにしか住まないんだ】」

「【そう……、虫なのね】」

「【益体やくたいもない言い方をすると、そうだけどね……】」

 ウィルマーは思わず苦笑する。この人には情緒じょうちょとか風情がないのだろうか、と。

 しかし、そうでは無いのだろう。依然いぜんとして食い入るように見つめている。きっと、表現が不器用なだけだ。

 ウィルマーは、壁にもたれ掛かったまま、片足を放り出し、星天を見上げる。

 ……それにしても良かった、と。映に、大聖堂で冷たく突き放された時、そのまま諦めなくて良かった。こうやって会話が出来ることが、何よりもうれしい。なんてったって、たった二人の〝日本〟にゆかりのある人間同士だ。うれしくないわけがない。今は普通に会話ができているから、聖堂にいた時はなにか虫の居所が悪かったのかもしれない。知らず知らずのうちに、気にさわるようなことを自分が言ったのかもしれない。それなら、謝ろう。そして二人で旅に出よう。きっと、映となら〝日本〟にだって辿り着ける。

 ちゃんと話をするのなら、今しかない。

「【映、聞いてくれないか】」

 ウィルマーの声音に真面目なものを感じたのか、少し離れた場所にいる映は、天井かむりから目を離し、ウィルマーへと視線を移すと、こくりとうなずく。

「【俺と、年神としがみの旅に出よう、映】」

 流れる水の反響音しか聞こえない地底湖に声が響く。

 しんとした、つかの間の静寂。岩窟の星天シュテルネンヘーレの放つ光が、映のほほをあわく照らしている。

 映は、じっとウィルマーの瞳を見つめて、その言葉を吟味ぎんみしているようだった。

 映の反応を確かめてから、ウィルマーは、言葉をいでいく。

「【色々な危険な目にあったと思う、突然飛ばされたよくわからない世界で、言葉も分からず旅をするのは危険だと思っただろう】」

 でも。

「【俺なら、映の言葉がわかる。俺なら、この世界を知っている。そして、映なら、この世界のあらゆる境界線を越えていける──。そして、今……、映と俺がこの世界にいるということは、この世界と、〝日本〟に、何らかの繋がりがあるということだ】」

 喋るごとに、ウィルマーの言葉は熱を帯びていく。爛々らんらんと光る、その瞳。

 映の吟味に、決して目をらさず、ウィルマーも映を見える。

「【俺は、〝日本〟に行きたい。記憶の中にだけしかない、あの土地を、あの人々を、俺はもう一度この目で見たい。そして──】」

「【もう一度、あの人生を生きたい?】」

 そこだけ注意深く、確認するように、映は言葉を挟んだ。まるで、星空を隠す雲のように、ずぶりと心に差し込まれる、その不穏。

 言葉を切り、ウィルマーは少し頭を悩ませる。

「【……いや、俺は、ウィルマーおれとしての人生もある。今更、誠治かれの人生に戻ることは出来ないよ。それでも、俺の中の誠治かれが泣いているのは、見過ごせないんだ】」

 それはとてもデリケートな問題だ。どこからどこまでがウィルマーで〝誠治せいじ〟なのかと、時々分からなくなる時はある。実際、ウィルマーの性格が形作られる上で、〝誠治せいじ〟の存在は切っても切れない存在だ。しかし、ウィルマーの人生は、ただ、〝誠治せいじ〟がよみがえるためのうつわなどでは無く、自分は、自分としての人生があると、そう信じたいのだ。

 目を伏せて、幼火土竜サラマンドの背をなぜると、迷路に迷い込みそうな心が少し落ち着く。

「【……そう】」

 じっと、獲物を狙う猫のようにウィルマーを見つめていた映は、そこで初めて視線をらした。

 何かを決意したように、詰めていた息を吐く。彼女にしては珍しく、何か言おうとしては口をつぐみ、何か言おうとしては口をつぐみ、というのを何回か繰り返したのちに、小さく口を開く。

「【――良く知りもしないで人を評価しないことね】」

 ……、突然何の話だろうか。ウィルマーが、いぶかしげな顔をした途端。


 ──世界が、停止した。


 湖面にしたたる水の音が遮絶しゃぜつされ、辺りは無音。岩窟の星天シュテルネンヘーレの明滅も、変異しない。

 湖面の直前ではりつけられたように止まっている水滴が、光る文字列に変換されると、ほどけ、ほつれ、天井かむりの辺りで再構成される。


       ◆


「【……いや、俺は、ウィルマーおれとしての人生もある。今更、誠治かれの人生に戻ることは出来ないよ。それでも、俺の中の誠治かれが泣いているのは、見過ごせないんだ】」

 目を伏せて、幼火土竜サラマンドの背をなぜると、迷路に迷い込みそうな心が少し落ち着く。

「【……そう】」

 じっと、獲物を狙う猫のようにウィルマーを見つめていた映は、そこで初めて視線をらした。

 ……このやり取りを先ほどもした気がするのは気のせいだろうか。

 まあ、気のせいだろう。

 何かを決意したように、口を開いてはつぐみ、開いてはつぐみというのを何回か繰り返したのちに、小さく口を開く映。

「【――あなたは、私のことを過大評価しすぎなのよ】」

 ……、突然何の話だろうか。とウィルマーは思う。

「【そんなことはないだろ? 映はすごいよ。この世界の言葉がわかれば、俺なんか必要ないぐらいに頭は回るし、度胸もある。きっと、一人でもうまくやっていけると思うよ。さみしいけ――】」

「【――それが嫌なのよ! わたしのこと、なにもわかってない!】」

 初めて、映が感情的に声を荒げるのを聞いた。

 ウィルマーが思わず身を固くした瞬間。映は、自分の怒声に驚いたかのように目を丸くすると、白くなるほど唇をかみしめる。それと同時に、またしても世界から音が消えた。


       ◆


 目を伏せて、幼火土竜サラマンドの背をなぜると、迷路に迷い込みそうなウィルマーの心が、少し落ち着く。

「【……そう】」

 じっと、獲物を狙う猫のようにウィルマーを見つめていた映は、そこで初めて視線をらした。

 ――なんなんだ、これは。この場面は何度目だ? なんとなく頭が痛い。それよりも映だ。あんなに取り乱していた映は……、さっきの出来事が嘘かのようにすました顔をしていた。しかし、その顔は、どこか疲れ、うれいをびている。

「【――私って面倒な女なの】」

 うん。と思わずうなずきそうになって、ウィルマーは動きを止めた。

 しかし、映はもはや、まわりのことなど気にしていないようだ。

「【時々、自分でも嫌になるのだけれど、でもそれも性格だからしょうがないと思うの】」

 顔を伏せながら、吐き出すように言葉をつむぎ続けていく。

「【夢は人一倍見るけれど、結局はかごの鳥で、あれをしたい、これをしたいと言ってもさせて貰えなくて、ずっとかごの中。だから、いつしか夢を見るのをやめて、取りつくろうようになった。ずっと一人で頑張って来たの。でも、そんな仮初かりそめの自分を誉められても誉められても信じられなくて、苦しくて……】」

 ぎゅっとスカートのすそをにぎりしめ、震える声の語尾がかすれる。

「【だから、誉める時は、私をちゃんと見て誉めて欲しいの、もう、私を一人にしないでほしいの……!】」

 しぼり出すように叫ぶ。ウィルマーには、それがなぜか、私を思い出して、と訴えているように聞こえた。映と過去に会ったことがあるはずは無いのだが、なぜだろう、記憶の中に、なにか引っかかるものを感じる。

 ……しかし、結局その何かは思い出せず、ウィルマーは、現実の濁流だくりゅうへと飲み込まれていく。

 荒々しく前髪をかき乱し、うなり始める映。言いたいことをうまく言えずに苦しんでいるようにも見える。

 あの、凛々りりしく、怜悧れいりな、何にも物おじしない姿が、仮初かりそめの姿だと、そういうことなのだろうか? だから上辺うわべだけを見ないでくれと? でも、なぜ今このタイミングで?

 ただ、なんとなく、なんとなくだが、ウィルマーは、彼女の言いたいことが分かってきたような気がした。

「【だから……その……】」

ウィルマーは、幼火土竜サラマンドを脇に置き、立ち上がる。映はよほど狼狽ろうばいしているのか、ウィルマーが立ち上がったことにも気付かない。

 そんな映の前まで歩いて行って見えるのは、今にも何か言い出しそうな映の桜色の小さく薄い唇。

 映も、普通の女の子なのだ。それも、表現がちょっと不器用な。でも、それはわかる人がわかっていればいい。

 だから。

 その意地っ張りな口が、何も喋らなくていいように。その居丈高いたけだかな口が、そのままでいられるように、ウィルマーは、映の頭に手を伸ばす。

「【ごめ――】」

「【大丈夫、伝わったよ】」

 頭半分背の低い映の小さな頭を抱きかかえると、ちょうどその口はウィルマーの肩で塞がれる形になる。

 抗議の声が聞こえたような気もするが、気にしない。

 抱きしめているうちに、こわばった華奢きゃしゃな肩も、少しずつ力が抜けてきた。

 絹のような長い黒髪が流れる後頭部を二度三度、落ち着かせるように撫でると、ウィルマーは身を離す。

 映は、所在なさげにやや下を見て、伸ばした片腕を抱いていた。

「【……いやらしい】」

「【ぅえっ!?】」

 つんと顔を背け、後ろを向いてしまう映。

 目を見開いてびしりと固まるウィルマー。

「(え――……? 今、めっっちゃ良いシーンだったような気がしたんだけどな――? これは、あれか? 女性経験の少なさか? 少なさゆえにいやらしい触り方になってしまったのか!? 少女漫画のイケメンになったつもりが変質者になっていたのか――!?)」

 頭を抱えてしゃがみ込む。

 そんなウィルマーに、追加で声が降ってきた。

「【……これから一緒に旅をするのに、言わないままじゃ、気持ちが悪かったから】」

 背を向けたままの映から聞こえる、ぶっきらぼうな声。

「【これが、旅に出たいというあなたの提案に対する、私の答えよ】」

「……ははっ」

 それを聞いて、うなだれていたウィルマーは、自分が、おかしくなってしまった。

 とんだ照れ隠しもあったものだ。

 映にもいろいろと悩みがあって、それで心を持て余して、ちょっと冷たい対応をしてしまった。ごめん、と。それに、勘違いされたまま長い旅路を共にしたくない、どうせ、旅の道連れとなるなら肩肘かたひじをはらないような関係になっておきたい、と、そういうことなのだろう。

 ただ、ひとこと言えば良いのに、色々なものが邪魔して言えない。でも、なんとか言おうとしてくれた。

 映は、本当に不器用で、普通の人間だ。それが、ウィルマーにはおかしくて、とてもうれしかった。

「【そっか、そうだよな――。俺も、ごめん】」

「【……あのね、ウィルマー。そうだよな、の意味がまずわからないし、俺〝も〟なんて言ったら、かっこつけて言わせなかった意味が無いとは思わないの? 馬鹿なのかしら?】」

「【あ、そっか、はは、そうだよな。ははは】」

「【はあ……。もう……】」

 嬉しさでいつもより陽気に笑うウィルマーと、深いため息をつく映。

 洗いざらいぶちまけたのが、気恥ずかしくもあり、清々しくもあり、なんともすわりが悪いといったところだろう。

 映は、妙にそわそわしていた。落ち着きなく髪をかきあげる。

「【休憩は十分よ。水浴びでもして早くすっきりしたい気分だわ】」

 映が、今しがた髪をかきあげた指をみつめて、不快そうにうめく。

「【ん? 水浴びならそこの地底湖でも出来るよ?】」

「【……鉱毒に汚染された水につかれと? 正気を疑うわね。甘いことを言って、実は私を殺すつもりなのかしら?】」

「【なんだよそれ……。いやいや、ここは綺麗だよ。岩窟の星天シュテルネンヘーレは、本当にきれいな水にしか住めないんだ。それになんて言ってもここは――、鉱山主と契約している上位精霊が、片っ端から水を浄化していく、排水処理場だからね】」

 ――地下での採掘は、水との闘いであると言われる。染み出してくる地下水などは、処理をしなければあっという間に足を取られるほどの水量になってしまう。通常時ですらそれなのだ。大雨が降った後の日などは、下手をすれば坑道内に鉄砲水が噴き出すなどということもありえる。地下坑での落命原因は、なにも落盤や、有毒ガスだけが原因ではない。地下での水難事故というものは、案外多いのだ。

 そもそも、水がたまっていては、作業が出来ない。しかし、鉱石が埋まる地中を浸透していく水は、どうしても重金属などの汚染を受ける。その水をそのまま排水すれば、公害の出来上がりだ。

 映の目が、すっと細められる。

「【……処理した排水は、どこへ?】」

「【それは、もちろん――地上だよ】」

 ウィルマーは口の端を吊り上げて、親指である場所を指し示す。

 二人の背後、この地底湖の入り口である斜坑から何メートルか右にずれた、その場所。

 そこには、材質こそ木製だが、立派な足場がついており、木箱のふたを取ったような形の乗り物が鎮座ちんざしていた。

 昇降機エレベーターというよりかは、井戸で使うおけ――、つるべに近いかもしれない。大人が四人ぐらいはゆうに入れるその木箱。その下を十字にくぐらせるように極厚ごくあつひもが回り、箱の直上では、四つのひもがさらにり合わさって天へと伸びている。

 そのひもの行く先を見上げると、かすかに朝陽が差しているのが見える。地表へと貫通している竪坑たてこうだ。

「【……初めて心からあなたを称賛する気持ちになったわ】」

「【巨大な竜と対峙した時は称賛されてなかったんだねぇ……】」

「【女の子のピンチに駆けつけるのは、男の子の役目でしょう?】」

「【ヒロインって言わないのはわざとなの?】」

「【ええ、わたし、あなたのものになるつもりは無いもの】」

 めずらしく、本当にめずらしく、口の端を吊り上げて、柔和にゅうわに笑う映。

 やれやれと肩をすくめると、ウィルマーは、幼火土竜サラマンドを背中に背負い直す。

「【じゃあ、地下ここを出ようか】」

「【えぇ】」

 昇降機の床に片足をかけた映は、ふと後ろを振り返り、名残惜しむように、岩窟の星天シュテルネンヘーレを目に焼き付けた。そして、誰にも聞こえない、小さな声でつぶやく。

「【今はまだ……、ね】」


       ◆


 誰も居なくなった地底湖に、妙に記憶に残らない声が響く。

『思いのままでなくてはならない、とは言ったが、しかし、随分とやりたい放題にやったものだ』

 人影は見えず、ましてや動物の影も見当たらない。

『二回も繰り返したわりに、えらくぬるいシナリオを描くじゃないか。神の名がすたるぞ、XXX』

 しかし、地底湖の中央あたりの空間が、レンズを通したようにゆがんでいた。

 おかしなことに、天井からしたたり落ちようとする水のしずくが、宙空でぴたりと止まっている。

『……まあ、良い。もうしばらく、私は、のために生きるとしよう』

 その声が昇降機の辺りで消えると同時、地底湖に水の音が響き、波紋が広がった。

 湖面に生じた波紋は際限無く広がっていき、重なり、やがて消えていく。

 あるいはそれは、これからこの世界に起こる物語の、縮図しゅくずであるのかもしれなかった。

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