第8話 活路
「【危なかったわね】」
映の目前――、つまりウィルマーの背後には、
映は、依然として、ウィルマーの頭を自分の胸に押し当てるように片腕で抱いたまま、動こうとはしない。二人は膝立ちで向かい合ったまま、そこそこの時間が
「(いやいやいやいや……)」
ウィルマーは、映の気分を害さない程度に抜け出そうとあがいてみる。だが、案外映の指の力が強く、なかなか離して貰えないでいた。
「(いやいやいやいや……!)」
なんだというのか。
ウィルマーも健全な男子であるからして、この状況はいかんせんよろしくない。大変によろしくない。
まずもって、散々坑道を土まみれになりながら走ったりなんだりしているのだから、汗はかいている。それだというのに、映からは、とにかくいい匂いがするのだ。香水でもつけているのだろうか。
突然のことに思考が追いついていかない。
それよりも目の前の光景だ。
再会してからこっち、目まぐるしい展開で気が付かなかったが、映のワイシャツの前ボタンがはじけ飛んで、ぐっと
一説によると、YかIで本物かどうかがわかるそうだが、どうみてもこれは本物だった。
……この緊急時に何を考えているのだろうか。
いやいや、そもそもボタンがはじけ飛ぶって何があったのだろうか?
ああ、だめだ。白い素肌が目にまぶしい。
映が身じろぎする度、甘い匂いが漂ってきて、ウィルマーの頭を熱病のようにクラクラさせる。
だが、ウィルマーの顔を
「(なんでそう押し付け……むっ)」
〝
それだというのに、窒息しそうなほど、ウィルマーの顔を包んでくる、それ。
段々と語尾が失われていく程度には、ウィルマーは、頭を
目の前で、豊かな半球を汗がすべり落ちていくという、それだけで
かてて加えて映は、ウィルマーの頭に添えていた指を首筋のあたりにすべらせ、優しく、何かを確認するようになぞり始める。
短く小さな吐息が、ウィルマーの耳にかかった。ウィルマーの背筋にぞく、と衝撃が走る。
――もう、限界だ。
ドン、と、ウィルマーは、映の肩の辺りを強く押し、映の身体を強引に押し倒す。
映はきょとんとして固まっており、ウィルマーの顔は真っ赤だった。
「【そ、そろそろ、この場を離れないと危ないんじゃないかなぁ!?】」
ナニが危ないのかは、この際言わないでおく。
脳内で、悪魔のような角を生やしたウィルマーが、スエゼン! スエゼン! と叫んでいたが、なんだその言葉は。
ニホンゴ、ワタシワカラナイ。
頭に光る輪っかをつけたウィルマーが、雷を落とすと、悪魔はいなくなった。
「【……そうね、まずはあの狭い坑道まで走りましょう】」
挙動不審なウィルマーをじっと見つめていた映は、そう言うと立ち上がった。
なんの
「【あ、ああ……】」
天然……なのだろうか。生命の危機に
「【でも、その前に。手を出しなさい、右手よ――そう、その精霊刀を握っている方の手。精霊との契約はもう切って】」
「【え、でもそんなことしたら、え……】」
切れ長の映の瞳が、すっと不快気に細められる。
「【私の言う通りにしなさい。数日は、もうその契約をしないこと】」
手のひらをこちらに突き出し、有無を言わさぬという気迫があった。まるで、〝神の言うことが聞けないのか〟、とでも言い出しそうな雰囲気だ。
まあ、そう言うからには何か思うところがあるのだろうと、ウィルマーはしぶしぶそれに従った。不平の金切り声を上げる〝
ウィルマーは、一直線に裂傷が出来ている右の手のひらを差し出すと、映はかすかに眉を
ウィルマーの手のひらを、レースのハンカチで縛っていく。
「【……今は、これぐらいしか出来ないけど、しないよりはましだわ】」
なにかを納得させるように、映はそう呟く。
「【さぁ、行くわよ】」
学生鞄を
頭をガシガシと
――その
「……っ!」
ウィルマーは背後から爆風に
制汗剤で鼻を潰された
慌てて、
土煙の匂いが鼻を刺す。
その
そのうろこは、軽く焼け焦げ、湯気が立ち
どういう、ことだ……? とウィルマーが事態を飲み込めずにいると、視界の端が赤く照らされた。慌てて後ろに飛び
しかし、真横から飛んできた火球が着弾したのは、先ほどまでウィルマーが立っていた場所ではなく、目の前の
「キュオォ……!」
悲し気に、仲間たちに何かを訴えるように鳴く幼体の声。しかし、その声に構わず、四方から幼体に火球が殺到する。ウィルマーや映のことなど、もう眼中にないようだ。
火球の切れ間に、ぴすぴすと鼻を鳴らした幼体は、最早、生きることをあきらめたかのように身を伏せた。目がしっかりとあるのであれば、しずしずと涙を流していたのかもしれない。
「【ウィルマー! 何をやっているの! 早くこちらに来なさい!】」
振り向くと、もう既に映は、少し走ったところにある狭い坑道の入り口にいる。何とか表情が判別出来るぐらいの距離だ。
――当たり前の話だろう。先ほどまで襲い掛かってきていた者たちが、今度は仲間割れを始めた。
襲われていた者としては、よしよし、これはしめたもの。と、その場を逃げ出すのが普通だろう。
その中の一人が袋叩きにあっていても、〝可哀そう〟などと思ってはいけない。
そもそも、今までばったばったと斬り倒していた対象を、今更〝可哀そう〟などと思うのは幾らなんでもトリアタマが過ぎるというものだ。
でも――、おかしな話かもしれないが、嫌だった。嫌だったのだ。自分の命を
誰かが無念に死んでいくのを見るのは嫌だった。仲間から
そもそも、自分達が原因で、相手がそういう状況になっているのなら尚更だ。
だから、目の届く範囲で、手の届く範囲なら、そこから救いたいと思っている。それが、例え、今まで自分に牙を向けていたものでさえ。
ウィルマーは、
「【映――、俺は、今から自己満足のために、
火球の飛来が、一瞬
「【え? 聞こえないわ! あなた、何を言って――】」
今だ。
「ォ―――!」
走りながら地面に横たわる
当然、その背には追っ手が掛かる。火球が雨あられとウィルマーの背を――、正確には未知の外敵の匂いがする、
ウィルマーは歯を食いしばりながら、右へ左へと走るコースを変え、突っ走る。そこかしこに着弾して巻き上げられた岩の破片が、ぱらぱらと頭上から降ってくる。
腕の中の幼体は、息はしているようだが、ぐったりとしていて動かない。だが、まだ息はある。未来はある。
後ろからやってくる特大の火球を、横っ飛びに転がってかわすと、また走り始めるウィルマー。
ようやくの思いで狭い坑道に飛び込んでも、走るスピードはゆるめない。
映とすれ違いざま、幼体を抱えているのとは逆の手を差し出した。映は、その手を掴み、すこし引っ張られるようにして走り出す。
ゆるやかな下り坂になっている坑道を、転がるように
ジトっとした
……まあ、そういう反応になりますよね~、と苦笑いをしながら、ウィルマーは行く先を注視する。
一本道になっているその坑道の中央は、
広間より暗闇が濃くなったように感じるのは、
足元も暗ければ、先も見えない。
疲れからか、足があまり上がらなくなってきている。思えば、親方と別れてからウィルマーは走り通しだった。呼吸が荒く、早くなっていく。
「【っ……!】」
ちら、と振り返った映がうめく。
ようやく暗闇にも慣れ、徐々に奥行きが見えてきた。走っていく先に立て看板が置いてあるのを、ウィルマーは認識する。
イルミンスク語で書かれたその看板には、〝この先
――〝
だいたい直径五メートル以上の穴であることが多く、深度は高低差百メートルぐらいのものであれば、どの鉱山にもあることだろう。
〝日本〟でいうビルに例えるなら、百メートルというのは二十五階建てのマンションに相当する高さだ。
足を滑らせて落ちればどうなるかぐらいは、想像しなくてもわかるだろう。
そんな、死に直結する、ぽっかりと
その穴の向こうは行き止まりで、
ギリ、と歯噛みする音が聞こえた。映の手が徐々に
その二択しかないように思えたのだろう。
映はウィルマーの手を振りほどくと、走っている足を地面に突き立てるようにしてブレーキをかける。
制汗剤を手に取り、映は
「【――あなたが変な気を起こさなければ今頃っ!】」
至近の岩壁を火球が破砕した。反射的に目を
ウィルマーに詰め寄ろうとしていた映は、ぐっと苦いものを噛みしめるように口を閉じた。
後ろからは、
「【……いいえ、違うわね。そもそもこの道を選んだ時点で、私たちは――】」
「【いいや、この道を選んだのは正解なんだ】」
ウィルマーは、大穴を背に、肩で息をしながら
「【今からこの穴を降下する】」
「【あ、頭でもやられたの!? こんな底の見えない大きな穴に飛び込んで!? 嫌よ!】」
「【――俺を、信じろ】」
真正面からのウィルマーの真剣な瞳に、
「【信じたいわよ。でも、パラシュートや命綱も無しにこんな……!】」
目を伏せながら、なおも言い
もう、追っ手達の影がすぐそこに迫っている。
少し遠くの方で、何度も聞いた音が響く。あの特大級の
右腕で映の頭を引き寄せるウィルマー。身を密着させると瞬時に腰を落とし、膝裏に左腕を差し込んだ。そのまま一気に抱き上げる。俗にいう、お姫様抱っこだ。
暴れられても大丈夫なように強く抱きしめると、穴のふちに足をかける。
「【ちょ……、ちょっと、嘘でしょ!?】」
にこりと笑うウィルマー。
「【――ごめん】」
坑道の幅とほぼ同じ大きさの火球が飛来する。それを避けるように、そのまま後ろに倒れこんだウィルマーは、背中から
火球が岩壁を破砕して、
爆音に一瞬かき消されながらも、映の悲鳴は
後にはただ――、暗い穴のまわりでうろつく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます