第一章 地下都市迷宮ニーダスヴァルト

第1話 前世の記憶

 終礼のチャイムが鳴る。椅子いすを動かす音がかさなり、新月丘中学校の教室は、すぐさま騒音のるつぼとなった。建て付けの悪い窓ガラスからは、乾いた秋風と共に、茜色あかねいろし込んでいる。

 ほうきを持った男子生徒数名が、子犬のようにじゃれ合っていた。生真面目きまじめな女子生徒が、非難の声を上げる。それを横目に、軽くおしゃべりをしながらゆっくりと教室を出ていく者が数名。

 なんとはない下校風景。ぱらぱらと人が減っていく教室。その中で一人、帰宅の波に乗らない少年がいた。

 机に突っ伏したまま、窓の外を眺めている。申し訳程度に、机の上に出されている教科書には、〈2-A 入間いるま 誠治せいじ〉と名前がしるされていた。ワイシャツを着崩し、スラックスは腰履こしばき。見るからに不真面目そうな生徒だ。

「またひねた顔してんね」

 群れるのが嫌いで、皮肉屋。いつもだるそうにしていて、反応が薄い。そんな誠治せいじに、声を掛ける人物は、このクラスで1人しか居ない。

「いや……、が級友達は、なんで、ああ毎日猿のように、騒げるんだろうなあと思って……」

 誠治せいじは、机に突っ伏していた身体を、わざと緩慢かんまんな動作で起こした。その〝たった一人〟が、誠治の言葉に肩をすくめて苦笑する。

「せーちゃんの言いようは、相変わらずひどいね」

光正みつまさ……、お前、その呼び方やめろって言っただろ」

 誠治せいじの眉間にしわが寄る。

「せーちゃん、て? だめ?」

 光正みつまさと呼ばれたクラスメートは、両手を口に当てて、きらきらとした上目遣いで誠治せいじを見つめるが、

「だめだ」

と、断られた途端、一気に砕けた男子の態度に切り替わった。

「……ああ、彼女にしか呼ばせてないんだっけ?」

「幼なじみだっつってんだろ、ミッツ」

「ミッツって。ぼくに女装の趣味は無いよ?」

「じゃあ、ミッチー」

薔薇ばら飛ばしてそうでやだ」

 カーディガンの袖口から、わずかに見える片手を口にあて、クスクスと笑う。

 自分の顔がととのっているのがわかっているのだろう。光正みつまさという少年は、時々わざとらしく愛嬌あいきょうを振りまくような仕草しぐさをする。背が低いこともあいまって、そこいらの女子よりも可愛いことも少なくない。単なるぶりっ子カマ野郎と言えばそれまでだが、無邪気な子犬にじゃれつかれて悪く思う者はいるまい。それは・・・このクラスの・・・・・・全員が・・・思っている・・・・・事だ・・

 誠治は、ため息をついた。

 亜麻色の柔らかな髪。肌の白さ。長く細い首、肩。まるで人形のような容姿。それでいて、いつも無邪気で人見知りをしない光正みつまさは、男女共に人気が高い。

『なんで私たちのみっくんと、あんたが仲良いのよ!』

 と、誠治は良く言われる。だが、別に邪険にしてはいないだけで、そこまで仲が良いわけではない。しかし一方で、女子たちの言葉は、理解出来るとも誠治は思っていた。わざと嫌われるように振る舞っている節もあるが、誠治せいじは嫌われ者だ。

 背は高く、目は三白眼さんぱくがん。悪い目つきを隠すように、黒々とした前髪は長く伸ばしている。他人が誠治を表現する言葉は、〝怖い〟、〝不良〟、〝不気味〟だ。とてもめられた容姿ではない。

 幼なじみの葉南はなみ あきらは、唯一、

『せーちゃんはかっこいいよ!』

 などと言って甘やかすのだが、そんなものは、親バカの身内補正のようなものだと誠治はへそを曲げていた。下手に夢ばかり見せる言葉なら、言わない方がマシなのだ。取りつくろうと思えば思うほど、大切なものはこぼれていくのだから――。

「今日もまだ待っていくの?」

 つと視線をらし、窓の外を見ながら言う光正みつまさ。その言葉で、誠治せいじは思考の海から現実に引き戻された。

「……ああ。いつものことだからな。もう少しで練習も終わるだろ」

 光正みつまさの顔には影が差していて、夕陽の当たり具合もあるのだろうが、どことなく寂しそうに見える。

葉南はなみさん弓道部だっけ。甲斐甲斐しいねえ、ほんと。なんか彼女を待ってるみたい」

「……暗くなってから1人で帰るのは危険だろ」

「危険な目に会うほど可愛いってことかぁ~」

 誠治せいじがギロリとめ上げる。

「ぅわっこわ~~い。君みたいな不良がそばにいたら、そりゃ誰も襲わないよね。でも、あんまり意固地になってるととんびに油揚げをさらわれちゃうかもよ?」

「……はぁ? それどういう意味だよ」

「そのままの意味だよ。それとも――」

 ふと浮かべられる、蠱惑的こわくてきで、意味あり気な微笑。

「ぼくが君をさらっちゃうかも?」

 夕陽で陰影のきつくなった顔。小首をかしげる桜色の頬。細められるつぶらな瞳。幼い顔に宿る色気の匂いは、どこかしら背徳的でさえあった。

 怪訝けげんそうな顔をする誠治せいじに、にこっと笑いかけて去っていく光正みつまさ。特に深く考えることも無く、興味を無くした誠治せいじは、また机に突っ伏した。

 廊下に出た光正みつまさが、教室の入り口で振り返り、ひらひらと手を振る。しかしその時、誠治せいじは、すでに廊下の方を見ていなかった。差し込む夕陽に染まりながら、光正みつまさがふと無表情になるのも、誠治せいじは見逃していた――。



 すっかりが沈み、廊下の蛍光灯だけが辺りを照らす時間になって、ようやくドタバタと廊下を走る音がする。

「せーちゃーん、ごめ~~~~~ん」

 底抜けに明るい鐘のように響く声。しんとした夕闇の静寂しじまをブチ壊す存在感。やれやれ、ようやく帰れるか。と、ため息をついて、誠治せいじは背を伸ばす。

 上履きの悲鳴でも聞こえて来そうなぐらいの急停止。ぜいぜいと肩で息をしいしい、教室の入り口に現れたのは、誠治せいじの幼なじみである少女、あきらだ。

「どうせ、的張まとはりにでも時間食ったんだろ」

 教科書を机の中に雑に放り込む。かかとを踏み潰した上履きをつっかけ、スカスカの通学鞄を手に取ると、机の合間を縫って暗い教室を抜け出した。

「えへへ、その通りです。でも聞いて! 昨日より上手くできたの! 先輩もめてくれたんだー!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねるあきらの脇を抜け、ずんずんと進んでいく、少し丸まった背中。あきらは、その背中に雛鳥ひなどりのように付いていく。

「くだらね。下積みとかいう奴隷制度によくもまあ従う気になるな。それで弓が上手くなるのかよ」

「わからん! でも楽しいから良いんだー!」

「ああ、そう……」

「あ、ねー、お腹減ったよー。部活後の定番、とりさい! まだ開いてるかなあ」

「そろそろ閉まるんじゃねえの?」

 走らなきゃ! と、あきら誠治せいじの腕を取り、廊下を駆けだしていく。


       ◆


 手が大分しびれてきていた。夜に差し掛かる山並みの空気は、氷柱つららじかに押し当てられているかのような冷たさで、確実に体温を奪っていく。

 ゴウゴウという激しい水音が、岩や川岸にぶつかって、小高い山の中を木霊こだまする。その音は、山道のはるか下から聞こえていた。

「いいから離せ!」

「出来る訳ないでしょ!?」

 広葉樹林が鬱蒼うっそうしげる山道。片側は切り立った山肌、もう片側は急斜面。日も暮れ、通る者などいない。そんな場所で言い争いをしている二人は、今まさに命の危機を迎えていた。

「ちょっと……、待ってね……、体勢を変えれば……、せーちゃんのこと、引っ張り上げられるから……!」

 左手で近くの木の枝を掴み、切り立った急斜面から半分身を乗り出しているあきら。その手は、今にも崖底に落ちていきそうな誠治せいじの手首を必死に掴んでいた。あきらのひたいには汗が浮いていて、息が荒い。どうにか力を入れやすい体勢は無いかと探っているものの、黄葉もみじの降り積もった地面は、思った以上に滑りやすいようだ。下手な体勢を取れば、誠治せいじどころかあきらも激流に落ちてしまうだろう。

 生憎あいにく誠治せいじの周りに掴めそうなものは何も無い。自分の不甲斐なさに呆れ果てながら、八つ当たりのように声を張り上げる。

「お前、部活の後だろ。力入らなくなってきてんのわかるぞ」

 誠治せいじの手首を掴むあきらの指が、どんどん白くなり、小刻みに震えている。吐く息は白く、日が落ちてからの山の寒さは、容赦ようしゃなく体力を奪う。

「……やだ! やだやだやだやだ! あたし、絶対せーちゃんの手、離さないから!」

 あきらが流した涙の粒が、上を向く誠治せいじの頬を濡らした。まるでドラマのようだ。口の中に広がりつつある苦々しさに、誠治せいじは目を伏せる。

「良いから離せ……。二人とも落ちるよりはマシだ!」

 だが、現実は無常だった。何かがきしむ音が、先程から誠治の耳に聞こえ始めている。それと共に漂ってくるのは、青臭い木の裂ける匂い。残された時間は、きっとそう多くない。

「だって! 先に足を滑らせたのはあたしだし……!」

「下は川だ。運が良けりゃ、大した怪我はしねぇさ」

「運が良くなかったら!?」

 取り乱した声を上げるあきらに、誠治せいじは、言葉を返せずにいた。だが、ここは、嘘でも何か言わなければいけないところだったのだろう。重苦しい沈黙が降りて来て、それきり、もう言葉を継ぐ者はいない。焦燥しょうそうと最悪の結果だけが、じりじりと押し迫ってくる。

 ――潮時しおどきだ。そろそろ、 二人とも限界が近い。誠治せいじは、らしていた目をまた上に向けた。

 あきらの明るい茶に染めた髪。普段なら、快活なショートヘアをポンパドールにまとめて、少し女の子らしさを出している髪。それが、今は崩れ、乱れ、ボサボサだ。人なつっこい笑顔も涙でぐしょぐしょになっていた。

 妹のように感じていた、幼馴染おさななじみ。叶うことなら、頭を撫でてやりたかったが、もう届かない。もう、届かないのだ。

 ──だから、誠治せいじは、あきらに掴まれている方の手指を、ぴんと伸ばした。

「……せーちゃん?」

 不安そうなかすれた声が、あきらの唇から漏れる。それに構わず、誠治せいじは、ぴんと伸ばした手指をあきらの腕に沿って、螺旋ねじのように回した。

「……せーちゃん!?」

 手が一周する頃には、掴む手はほどけている。合気道の初歩の初歩の技、〝手解てほどき〟だ。

「またな」

 ──小さく乾いたこすれる音がして、重なりあった手はほどかれた。

「─────」

 吹き下ろす風のように落ちていく。ブレザーが踊り狂ったようにはためいている。あきらの叫び声は、風鳴りに掻き消され、最早誠治せいじの耳には届かない。

 ――昔、ほんの少しだけ合気道を習っていたことが、ここで役に立つとは思わなかった。と、誠治せいじはぼんやりと思い出す。走馬灯のように浮かび上がってくる過去の日々。あの日々・・・・は、出来ることなら思い出したくないと思っていたが、やはり最後まで逃げられないのだろう。

 上へ上へと流れていく風景。土と草の匂い。頬を裂くような夜風に、粉々にされていく様に感じながら、誠治は目を閉じる。

 思えばろくな人生では無かった。無愛想で、不器用で、怖がられてばかりの人生……。人生の中で、唯一明るかったと言えば、それは、あきらと出会えたことだろう。見た目が怖く、無愛想な人間に、物怖じせずに突っ込んで来てくれたあきら。何があっても味方でいてくれたあきら。自分の人生には、いつもあきらが隣にいてくれていたのだ。……ああ、そうか。自分は、思っている以上にあきらのことが好きだったのかもしれない。

 気付いた。気付いて、しまった。

 あきらが、ちょっと良い景色を見ながらコロッケが食べたいんだ、と言わなければ。地元の名所である裏山に来なければ。自分の頭に何かが当たらなければ。それに驚いたあきらが、足を滑らせ無ければ。もっと、断崖が低ければ……。次の展開が、あったのかもしれない。

 誠治は、うっすらと目を開ける。コマりのように流れていく森の夜空よぞら。耳に聞こえる川の水音が、どんどんと大きくなっていく。

「(ああ、あきら、なんて顔をしているんだ。俺の名を叫んでいるのか? 危ないじゃないか、そんなに身を乗り出し──)」

 びくんと体が不規則に跳ねる。地面に生卵を叩き付けたような音がした。四肢がだらりと力なく伸び、おびただしい量の液体が、川面かわもを赤く染めていく……。

 そこには、川底から隆起した大きな岩があった。


       ◆


『………ィ……!』

 頭の奥に差し込まれる鈍痛。

『お………、ル…………!』

 じっとりとした汗が止まらず、呼吸は浅く早くなる。少年は、崩れ落ちそうな身体を、なんとかツルハシにすがって支えていた。

『……ル……!』

 自分が、山道から落ちて死ぬ夢。いつだって突然で、一切容赦いっさいようしゃの無い、暴力的な白昼夢イメージ

 夢の中での彼の容姿は、今とは全く違っていて、服装も、名前も全く違う。けれど、何故か全身全霊の自信を持って、あれは自分だ、と言える奇妙な夢。

『………ィル……!………!!』

 見たこともない服を着て、聞いたこともない言語で喋っている人達。ドワーフ達がつくるような機械と、自然が融合している奇妙な世界。

『……ィルマ……!!!』

 小さい頃、少年は大人に聞いて回ったことがあった。こんな言葉を知らないか、こんな服を知らないか、と羊皮紙に絵を描いて。

 結果は、紙を無駄にするんじゃない!と怒られただけだった。

 誰も、何も知らないという。そう、この世界では〝学生〟は誰もがなれる身分じゃない。大抵の子供は、家業なり村の仕事を手伝うことになっている。

 使われている言語は、イルミンスク語だ。この世界には、九つの地方があり、様々な種族が暮らしている。例えば────。

「ウィルマァ―――――!!!!」

「はいっ、すんませッ!!!」

 地下坑に、だみ声がとどろいた。少年は、一瞬で現実・・の世界に引き戻される。

 金槌かなづちで岩を叩く音。足場の悪い通路を手押し車が行く音。掘削機くっさくきが散らす火花。吊されたランタンのあかりだけが頼りの暗い地下世界。

 ここは、日常生活に必要不可欠なある〝鉱石〟を掘る坑道であった。

 だみ声の主が近づいてくる。

「ウィルマー、おめぇ、また居眠りしてたのかッ!! 何度めろって言ったらわかるんだ! 穴のいたバケツみたいな頭しやがって! 死ぬぞ!」

 空のバケツで頭をひっぱたかれそうになった少年、ウィルマーは、身をらせ、すんでのところで、それをける。

「なァんでけるんだッ! てめェ!」

 と言ってバケツを振りかぶるのは、この坑窟こうくつをまとめる親方だ。待って! 待って! とウィルマーは両手を上げる。

『……いやね、あなた。あなた、ドワーフと人間のハーフですよ。そんじょそこらの人間とは、腕力が違うんですよ。二の腕なんてちょっとしたたるぐらいあるじゃないですか! そこら辺の物差しで叩かれたって、ぼかぁ、頭の形が変わっちゃいますよ!』

 と、言いつのろうとした瞬間。ウィルマーの脳内に、岩に叩きつけられた夢の記憶がフラッシュバックした。口を押さえ、胃の中身をもどしそうになるのを、どうにかしてこらえる。

「なんでェい、青っちろい顔して。具合でも悪ぃのか?」

 振りかぶった腕を上げたまま、ウィルマーの顔を覗き込む親方。

「いやまぁ、その……、すみません。ははは……」

 ウィルマーは、異常な量の汗をかき、見るからに蒼い顔をしていた。

「なんで言わねえんだバカ! 帰れ!」

 背骨が軋みそうな勢いでウィルマーの背中を叩き、親方は次の監督場所へと歩いていく。よろけながらもウィルマーは振り返り、ありがとうございますと頭を下げた。

 親方はすぐ怒鳴るし、口は悪いし、暴力は振るうが、面倒見は良く、なんだかんだ優しいところがあるのだ。そんな親方を、ウィルマーはわりと尊敬していた。

 そんなことをぼうっと考えていると、

「どけ!」

と、後ろから低い声でどやされる。慌てて壁際に張り付くようにして避けるウィルマー。

 腰の高さほどしかないドワーフが、鉱石を満載した手押し車で通路を通過していく。

「すみませんっした!」

 と、その背に声をかける。おう、と声だけが返ってきた。

 ふと、ウィルマーは苦笑する。

「(夢の中のだったら、ぼろくそに言ってそうな職場だよな)」

 肉体的には、重労働で命の危険もあり、罵声ばせいや大声が飛び交う。

 でも、皆悪い人達ではないし、職場は戦場だ。事故は死につながる。坑道の環境は過酷と言ってもいいだろう。口が悪くなるのも仕方がない。だが一つ、ウィルマーには、物心ついたときから決めている事がある。

 〝どんな時も、愛想良く生きよう〟

 それは、生まれてから幾度と無く見る白昼夢イメージの影響でもあった。夢に出てくる〝光正みつまさ〟に憧れたからかもしれない。

 そのおかげかは知らないが、いつも愛想良く笑顔でいるウィルマーの周りには、自然と人が集まるようになっていた。

 坑窟にやってきた最初は、ドワーフ達に怪訝けげんな顔をされ、一歩引かれていた気もするが、今ではだいたいのドワーフと仲良しだ。

 ウィルマーは、汗をぬぐいつつ、ふらふらと水場に歩いていく。

 おけに溜めた水面で、ウィルマーは、自分の顔を見た。

 髪は赤みがかっており、ツンツンと跳ねている。瞳は、どちらかというと黒目がちで、色は〝風の魔石シュヴェルトライテ〟のような若草色だ。〝夢〟の中の自分とは、本当に何もかもが違うと改めて実感する。

 ウィルマーは、両手で水をすくい、軽く顔を洗うと、首に掛けていた布で顔をぬぐって、水場の外に出た。首にかけた〝風の魔石シュヴェルトライテ〟のペンダントが、しゃらりと揺れる。

 ウィルマーが振り仰ぐと、赤い岩肌の天が辺り一面に広がっており、そこに空いた通気用の竪穴たてあなからは、丸くくり抜かれた空が見えている。赤から、濃紺に変わりゆく時間。すでに、星は輝き始めていた。 

 今は、すべてのことが上手くいっている。人付き合いも円満で、職もある。ゆくゆくは細工師になるのも良いだろう。

 ただ……、とウィルマーは思う。

 一つ問題があるとすれば、あの白昼夢イメージのワンシーンだ。

 山道から落ちていく自分に手を伸ばし、泣き叫ぶ〝あきら〟という女の子。ウィルマーは、指に刺さったとげのように、ただ一つ、あの子のことだけが気にかかっていた。

 あの白昼夢イメージが、単なる妄想か、頭がおかしくなっているだけなら良い。でも、もし、本当にあったことだとしたら? あれが、いわゆる〝前世〟の記憶だとしたら。あの後、あの子はどうしたのだろうか?

 思わず握り締めていた布から手を離し、ウィルマーは帰途に着く。

 ウィルマー・ジーベック、今の俺の名前……。この人生は上手くいっているのに、"聖あきら"のことが気にかかるせいで、どうにもすわりの悪い毎日になっていた。これを解決するすべは、無いのだろうか――。

 答えの出ない問いに、ウィルマーは今日も悩み続ける。


       ◆


 長い髪の少女が駆け込んで来た。暗い部屋だ。

 壁一面が本棚で、端から端、床から天井まで所狭しと本で埋まってる。窓の下でさえ、小振りな本棚が置かれていた。

 所々に、可愛らしい調度品が置かれていることから、ここは、少女の部屋なのだろう。

 インクと古いほこりのにおいがただよう中、少女は、泣きながら机に突っ伏している。照明も付けず、もう何十分経っただろうか。ようやく落ち着いた少女は椅子を運び、天井に備え付けられた引き出しから、一冊のノートを取り出した。

 樫の木で作られた机にノートを開き、質素なアンティークランプに火をともす。引き出しから取り出したのは、万年筆とインク壺だ。

 長い黒髪を耳にかけなおし、そうして彼女は、何事かを熱心に書きつづりり始めた──。

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