第10話 プールサイド
彼女の形のきれいな足の爪は真っ赤で、その裸の足は雌猫が子猫を舐める時のように丁寧に、僕のすねを撫でていた。プールサイドは塩素の臭いで一杯で、僕は息苦しさを覚えながら体をこわばらせていた。子どもたちは僕たちの様子に気が付くことなく、生ぬるい水を巻き散らして遊んでいた。
「話って何」
僕はたまらずそう言ってしまった。声は震え、裏返った。途端に僕らを覆っていたある種の雰囲気は破れた。彼女は舌打ちをしそうな顔をして、僕の足から自分の足をどかした。
「話なんて無いわ。あなたに会いたいから呼んだだけ」
彼女は低い声で、吐き捨てるようにそう言った。
「そう」
僕はそれしか言えなかった。僕はいつだって彼女の言葉に対する適切な答えを用意できなかった。でも、そんなことはいつも問題ないのだった。彼女はいつだって彼女のリズムを崩さなかった。
「昨日ね、日曜だったでしょ」
「うん」
「仕事が休みだったから公園に行って本を読んでいたの。そうしてしばらく本を読んでいて、犬を見つけたの。小さな雑種の飼い犬よ。小さな女の子が散歩をさせてたの。大人の女とおんなじ格好をした、おかっぱ頭のかわいい子よ」
「うん」
僕らの体は乾き始めていた。髪の毛だけは濡れていて、彼女のほつれた髪の毛が、彼女の口元にくっついていた。
「その子が言うの。この犬、キンシンソウカンで生まれたのよって」
キンシンソウカン。僕の頭で奇妙な響きがこだました。キンシンソウカン。
「犬って発情期になると、親も兄弟もお構いなしなのね。その犬は親子の間で産まれたらしいわ。一緒に飼ってるのに去勢手術をしなかったのね。でも大した事じゃないわよ。子犬が正常に産まれてくるんなら。あの犬はおとなしくて女の子に従順で、何の問題も無かったわ」
「そう」
相槌を打つ。それから僕はひやりとして、足元を見た。彼女が僕の足を再び撫で始めたのだ。湿ってふやけた皮膚が、毛の生えた僕の皮膚をさする。
「ねえ」
「何?」
「あなたは私を好きでしょう?」
僕の胸には誰かに押し潰されるような痛みが走った。彼女は微笑んでいた。その後ろに、不安が隠れているのが見えた。僕は思わず言った。それが本心であろうともなかろうとも。
「好き、だよ」
彼女の表情が明るくなる。輝くように。だけど僕の気分は重い。
「好きなら、キスして」
彼女の顔に自信が戻る。僕はテーブルに身を乗り出し、ゆっくりと顔を寄せ、そっと唇をつける。彼女の唇は、口紅ひとつついていなかった。
「嬉しい」
彼女は顔を紅潮させて、とても幸せそうだ。
「でね、あのね」
彼女ははしゃぎながら言う。何を言うのだろうか。僕は青ざめたまま、耳を塞ぎたい気分でいる。
「結婚するの。だから、私たちの関係、終りにしましょう」
「え?」
僕は何を言われたのか分からなかった。彼女はというと、にっこりと笑っていた。
「会社の上司にプロポーズされたの。それに私たちのこの関係、もう終り時だわ。別れましょう」
僕は呆然としていた。あの話は何だったんだ?
「私たちは犬とは違うの。姉弟でこんなこと、もう出来ない。最後のキス、ありがとう」
姉は一言一言大事そうにそう言った。僕は黙ったまま、涙をこぼした。姉が僕の手を包む。
「私だって悲しいわ。辛いわ。だけどしょうがないの。あなたも自分の幸せを見付けなさいね」
僕は、泣いた。人目もはばからずに泣いた。今度は子どもたちが気付かずにはいなかった。彼らは驚いたように僕を見ていた。
姉は僕の腕をつかんで、ドーナツ型の流れるプールに飛込んだ。水深は浅く、僕らの胸までしかなかったが、僕と姉は構わず泳いだ。水をかきわけ――水は腐った味がした――涙を溶けこませた。
姉が僕の少し先を泳いでいる。その姿はとても美しかった。僕はまた、涙をふりこぼした。
良くも悪くもこの関係は終わった。僕は姉を愛することから逃れられた。とても苦しかった恋。
今でも、苦しい。恋しくて、苦しい。
《了》
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