第3話 水風船が飛んで行く

 あの人がここに来る度に、心臓がチャプチャプ鳴る。ドクドクと激しく動くことを止めた心臓が、空気と混ざって赤く躍る。私は正常だろうか。この感情は偽物じゃないだろうか。いや、そうじゃないだろう。だって、私は死んでしまっているから。死んでしまえば、感情に正しいも間違いもない。

「ユリエさん。僕です」

 今日も彼の声がする。遠慮がちで、それでいて揺るぎない態度で、彼は私に話しかける。

 ガラス玉のように動かない私の目は、彼の形をおぼろげに映し出す。かたちしか見えない。細身の、なだらかな体の輪郭。薄緑色に揺らめいて、私を同じ色で包み込もうとしている。

「今日は、雪が降りました。ボタン雪です。紅色の影があちこちに控え目な音を立てて落ちました。今日はルビーの日だったんです。ルビーは石畳の上でコチコチと飛び上がり、大きな粒は子どもたちに拾われ、小さな粒は石畳の合わせ目に落ちて、この間の雨の日に降った白真珠のかけらと共にうずもりました。黒い石畳の隙間が赤く浮き上がって、血管のように見えました。とてもきれいでしたよ」

 きれいな夢のお話。私は見ることが出来ない遠い場所の物語。彼は私に夢を届けてくれる。

「明日は風船の日です。風船はご存じですか? ガスで膨らんだ丸いゴムの袋です。手を離すと空高く浮かび上がって、見えなくなってしまうんです。僕は風船の日が大好きなんですよ」

 私は彼のことが好きだ。心臓はチャプチャプ鳴って、この物語を静かに聞く。

「良い風船が欲しいんです。中に一粒大きなルビー、昨日降ったルビーを仕込ませて、ヘリウムで膨らませて、空の向こう、出来れば雲の上まで飛ばしたいんです」

 私は夢の話を聞くように、静かに、口をつぐんで黙りこむ。一言も聞き逃さない。

「あなたの心臓を下さいませんか?」

ドクン。私の心臓ははね上がった。

「心臓を膨らませたいんです。空に、泳がせたいんです」

 私にはこの心臓しかないのに。彼の言葉に反応できるのは心臓しかないのに。

「空の上にはルビーを降らせる天女がいるんです。真珠も、猫目石も、メノウも、美しい女性たちの手からばら蒔かれているんですよ。僕は彼女たちに返事をしてあげたいんです。美しいものをばら蒔いていることのお礼を。僕は最近それしか考えられないんです」

 彼の話はとても美しい。私が一人で見る夢よりも、ずっと美しい。

「お願いだ」

 私の心臓の中が波立つ。

「お願いだ」

 ジャキン。金属が擦れる音がする。

「……いいですよね」

 彼の手が私の胸を探る感触がした。冷たい金属が肌に触れる。

「きれいに仕上げます。中に香りの良い空気を入れて、一番うつくしい宝石を詰めて、虹色のリボンを結びます。きれいに仕上げたら、あなたもきっと喜びます」

 私の心臓はチャプチャプ鳴る。中の液体は薔薇の香りのオーデコロン。彼はこれを捨ててまで、ヘリウムの量を増やしたりはしないだろう。

 香りと石を空へと届ける私の心臓は、目一杯膨らんで、ゆっくりと雲を目指すだろう。彼の夢の女性達は、私を迎えてくれるだろう。

 ハサミが音を立て始めた。ガラス製の私の棺は、私の心臓が失われても、気にしない。この寂しい墓場には、もう百年も人が来ない。

 私の体は腐らない。オーデコロンの血液と、チャプチャプ動く心臓があったから。

 心臓が消えて、私の体がくちてしまっても構わない。心臓は彼のものになり、彼は毎日ここに来てくれるに違いないから。

 だけど、私の心臓でできた風船は、水が入っていても浮かぶだろうか。飛んで行くとき、どんな音がするのだろうか。それだけが気掛かりだ。

                              《了》

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