第2話 真っ黒な影
真っ黒な影が歩いている。僕の前方。楽器屋の手前。
楽器屋の前には粗末な椅子がある。体重をかける度にガタガタと鳴る、今にもくしゃりと潰れそうな木の椅子だ。店主は枯れ葉色の寂しげな夕方の中で、ドングリのように光るマンドリンをポロンと爪弾いた。真っ黒な影はマンドリンにも店主にも無関心に、ただ夕焼けの方を眺めている。秋の夕焼けの一番美しい時が過ぎた、冴えない色の空を。
影は老婆の形をしていた。腰は弓のように曲がり、体の関節が一つ一つ萎縮した、性のにおいが一切消え去ってしまった女の形。その形はとても哀しいような、厳かなような、まとまりのない感情を僕に生み付ける。
黒い布をまとった老婆は、空を眺めている。僕は老婆を見つめている。楽器屋はマンドリンを掻き鳴らし始める。
黒い影はゆっくりと夕焼けに背を向けた。顔が見えた。色褪せた張りのない肌と、垂れた皮膚に周りを囲まれた灰色の瞳。体全体をマントとショールで覆って、何もかも、僕の視線すらもはねつけていた。
僕はいたたまれない気持になった。何も言いたくない。彼女に何の干渉もしたくない。彼女の望みは何なのか、分からないけれど。
だけど、僕は型通りの言葉を言うしかなかった。
「おばあさん。盗んだものを返してください」
老婆は粘土の塊のように、体を小さくまとめてたたずんでいた。灰色の瞳が地面に落ちた。
「去年亡くなった祖母の宝物なんです。今日は彼女を何よりも大切にしていた祖父の葬式で、僕らは彼の棺にそれを入れてやりたいんです」
老婆は古くなって端のほつれたショールを、枯れ枝のような細い指で引っ張った。指に緑色の輝きが見えた。
「祖母は美しい人でした。いつも身ぎれいに装い、指を飾ることを忘れませんでした。その時一番大切に扱っていたのがエメラルドの結婚指輪なんです。祖父は彼の母の形見を、彼女にあげたんです。祖母はいつもそうっと左手の薬指に通して、一旦その輝きにうっとりとして祖父に笑いかけました。祖父も幸せそうに笑っていました。二人は、絵に描いたように素晴らしい夫婦でした。彼女が亡くなり、祖父が後を追うように亡くなった今、僕らが一番にしなければならないことはその指輪を棺に入れることなんです。おばあさん、僕はあなたが祖父の部屋から盗み出すのを見たんですよ。なぜ盗んだんです。さあ、返してください。お願いだ」
こう言葉を列ねることがいかに虚しいか、僕は一言一言を強く発音しながら体に染みて感じた。老婆の瞳は動かなかった。黒く醜い塊は、手に輝く不釣り合いな輝きから離れなかった。
祖母の美しさをこの醜い老婆に訴えかけて、何になる? 祖父の愛が揺るぎないからと言って、老婆は何も感じはしないだろう。
「祖父が埋められてしまう前に、さあ、おばあさん」
僕は無力感に襲われながら、老婆に一歩近寄った。途端に、ひきつれた声がした。
「これは、ね。私の、だよ」
老婆の口を隠すショールが震えた。
「私がもらうはずだったんだ。あの人は私にくれると言ったんだ」
老婆は震える手で、指に填めたエメラルドの指輪を撫でた。体は一層縮こまった。
「結婚してくれると、言ったんだ」
僕は自分の次の行動を思い付くことも出来ずに、老婆の指に光る指輪を凝視していた。長い年月の向こうを見透かそうと、僕は指輪の放つ色を目の前に描いた。緑色の輝きの中で、祖父と祖母はお互いに寄り添いながら指に通される指輪の前で微笑みあっていた。
老婆はデタラメを言っているのだろうか? マンドリンを穏やかに鳴らす楽器屋の前で、彼女はエメラルドを守るような体勢で、再び歩き出した。黒い影が後に付き従う。僕は何をしようか? 真実がどちらであろうと、僕は一歩も動きたくはなかった。老婆を捕えたくもなかった。
それだけは、はじめから変わらぬ心情だった。
《了》
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