第12話 帰還
この俺が、会ったばかりの女の信用を失うのを恐れるのか?
それは……何故だ。
どうして俺はそんなことを思って……
「どうしたの?
どこか痛いの、怪我?」
茉莉花は弱々しい微笑みを浮かべ、俺を心配してきた。
「いや、なに、逃走経路を考えてただけさ。
100パーセント、完璧な奴をな。
だから楽にして、休んでいいぞ」
「わかった。
いいって言うまで、私は眼を閉じる。
だから、あとは任せるから。
あなたの思う通りにして」
茉莉花は眼を閉じ、身をよじって姿勢を整えた。
その体には、力がギュッと入っていて、固くなっているのが見てとれた。
しっかりと眼をつむる茉莉花を見て――頭のいい子だ――そう思った。
ハンドルを握ったままで、なかなか車を動かさない俺の様子に、何か感じるものがあったのだろう。
俺が見るなと禁止したわけではない。
自分から、目を閉じて見ないと言ったのだ。
ならば夕鶴の「与ひょう」のように、俺がすることについて覗くことはないだろう。
そもそも場内道路での俺の運転を、すでに茉莉花は味わっている。
トンでもない運転をするのではないかと、ビビってもいるだろう。
それでも俺に任せるというのだ。
ならば、やるべきことをやるだけ。
茉莉花が眼をつぶっているのをチラッと確認すると、カーナビの地図を拡大した。
丘の上のデカい工場の周囲が、市街のように明るいはずもない。
工場内の薄らぼんやりとした灯りが、どれだけ周囲を照らしていたことだろうか。
それが暗い外なら、よくわかる。
壁の内と外では、確実に景色は違っていた。
そうして俺は、暗闇を利用し、溶け込むようにと、無灯火のまま走り出した。
はじめはゆっくりと車を滑らせるように。
しかしそれでも、下りの続く道は車をグングン加速させていく。
頭に入っている地図と、時折灯る頼りない街灯。
白く浮かび上がるガードやフェンスの類。
チラチラとナビの地図を見ながら、先のカーブを読んで備える。
限界までスピードを上げて逃げ出せないなら、できる限り遠くから見つからぬようにするしかない。
制限速度プラス20kmくらいが限界だ。
無灯火のままで、下り坂を駆け抜ける。
極力ブレーキランプはつけぬよう、サイドブレーキを併用しながら下っていく。
気持ちではスピードメーターを3ケタに乗せたいが、転がるように下り続けた結果、茉莉花を地獄まで案内するわけにはいかない。
あの世のスリルも興味深いが、それにはまだ早過ぎる。
急なカーブの連続に、下り坂。
息がつまり、胃がキュッと締まる。
ハンドルを握り締める手に湿気を感じるのは、車の暖房の効きが良すぎるせいか、冷や汗か……
――いかんな、ネガティヴになってるか?
楽しめよ。
最高のスリルを楽しむんだ。
すると何故だろうか?
今は亡き
――あの時の毱花も、帰り道は寝ていたな。
もっとも、こちらの茉莉花は寝ているフリだけだろうがな。
あとでこの車のシートが濡れちまっていても、驚かんよ。
それから不思議と落ち着いた俺は、迷うこと無く正確にハンドルを切っていく。
あっという間に狭い山道を駆け下り終えた。
すると今度は逆に、街中で無灯火では職務質問してくれと言っているようなものだ。
平坦になってから、俺はヘッドライトをつけた。
それから念のため、市街を周回するようなルートで車を走らせ続けた。
走らせ続けること、1時間。
まわりの流れに乗ったり、ワザと遅くしてみたりと変化をつけてみたが、バックミラーに怪しい動きは映らなかった。
茉莉花にはロクな持ち物はない。
バッグも、財布も、携帯もない。
それどころか、着ている服でさえ、まともといえない状況だ。
逃走対策でGPSがついている、ということもないだろう。
――とりあえず、ひと安心か?
赤信号で停車し、茉莉花を見る。
暖かい車内のせいか、顔が赤いようにも見えた。
窓越しに差し込むコンビニや街灯の光が、薄暗いせいかもしれない。
――風邪薬なんて、事務所にあったか?
茉莉花に声をかけてみるが、「うーん?」と寝ぼけた奴がやる返事を、俺に返すのみだった。
俺の自宅には、戻りたくない。
娘の凜々花が寝ている。
とはいえ、事務所に戻っても、女物の服も無い。
ドアに肘を付き、
こんな未明の3時過ぎに、服屋が営業していようはずもない。
――消去法で、結局は事務所しかないか。
そう決め、ねずみ色の事務所に向かった。
コンビニに寄ろうかとも思ったが、エンジンのかかった車内に茉莉花を置いて1人にすることは、落ち着かない気がしてやめた。
事務所の周辺をゆっくりと巡らせて、一応周辺を確認する。
駐車場に車を止め、エンジン切った。
かわいそうとも思ったが、茉莉花を揺すって起こし、助手席側に回る。
ドアを開けると茉莉花は外の冷気にブルっと震え、「寒いっ」とこぼした。
上半身を助手席に突っ込み、俺の首に茉莉花の腕を回させる。
横抱きにしてひざ掛けごと持ち上げ、事務所へ向かった。
けれどお姫様抱っこでは階段が登れない。
狭い階段では、姫様の足をぶつけてしまい、危険だろう。
茉莉花を下ろしておんぶにしようと思ったが、茉莉花は自分の足で登るという。
彼女の言うに任せて2階へ上がり、いちばん奥の事務所の鍵を開けた。
パチンと電気のスイッチを入れ、エアコンのリモコンをいじる。
人のいない未明の事務所は冷え込んでいた。
「奥にソファがある。
そこで休め」
「ん、ありがとう」
俺はいったん部屋を出て、隣の本業用の事務所から泊まり込み用の枕と毛布を引っ張り出してくる。
枕と毛布をスンスンと嗅いでみるが、臭いはないように思えた。
もっとも自分の体臭だ。
自分には気にならないようなものかもしれない。
娘の凜々花には、匂うの臭いのとは言われていないから、きっとセーフなはずだが。
「悪いな、事務所に風呂やシャワーはない。
体を拭くなら、そこの給湯器で湯を出せ。
タオルはここにある」
「ん、大丈夫」
「……あとで
漏らしてたろ」
茉莉花は顔を赤くしてから
粗雑に扱われた可哀想なクッションを拾い上げ、軽くはたいてからそっと優しくカウンターに置く。
「隣で着替えてくる。30分は戻らない」と声をかけ、事務所を出た。
外から鍵をかけ、隣へ移る。
昼間の
それはジャケットに入れっぱしのまま置いていった携帯電話――
――ではなかった。
単純に、俺も寒さを感じたのだ。
茉莉花の貧相な格好ばかり気にしていたが、俺もフライトジャケットをくれてやってからは長袖インナー1枚きり。
いつものねずみ小屋に戻ってきたことで、仕事の興奮が引き、熱も冷めたのだろう。
イカれた世界から、当たり前に寒い、年末12月の日常へ帰ってきたのだ。
念のため携帯を見るが、誰からも連絡はない。
再びロッカーを開け、マフラーを首から垂らし、ダウンベストを羽織った。
茉莉花にも――客といえるかどうかわからんが――最低限のもてなしは必要だろう。
俺は近くのコンビニへ歩いて向かった。
――茉莉花だから、ジャスミンか?
温かい飲み物、適当な風邪薬、レンチンの冷凍食品をカゴに突っ込んで会計を済ませる。
戻ると茉莉花のいる事務所には上がらず、駐車場の車に乗り込み、コーヒーをすする。
事務所を見上げながら、時間が過ぎるのを待った。
30分が過ぎて戻ると、身綺麗にし終えた茉莉花はソファの上で毛布にくるまっていた。
ガラスのセンターテーブルの上に、買ってきたものを並べた。
せっかく気を使って買ったジャスミンティーについては触れられず、どうして下着を買ってこないのかについて、理不尽に責められた。
「そんなものをオッサンが1人で、買ってこれるわけがねーだろうが。
あのなあ、たとえそう思ってもだ。
ここは『ありがとう』で済ます場面だろうが。
どういう
「あら、そういうことじゃ海外ではやっていけないわよ。
言いたいことがあるなら、ちゃんと主張しなきゃ。
だいたいあなた、女性に対する気遣いが不足してるのよ」
「ここは海外じゃねーよ。
日本で、相手の俺も日本人なの
オーケー?
アンダスタン?
ナンパ野郎じゃあるまいし、女の御機嫌なんか取らねーよ。
まあ、服については、朝になったら娘を呼んでやる。
それまで我慢しろ。
どのみち下着をどうにかしても、それ以外はコンビニじゃ買えん」
俺はエアコンのリモコンを「好きに調整しろ」と投げて渡し、「寝る」と言って話を打ち切る。
そしてそのまま床に寝転ぶ。
どうせ娘の凜々花が半日前にモップをかけたばかりだ。
たとえ床にじか寝とはいえ、綺麗なもんだろう。
茉莉花は相変わらず文句を言ったり、「床に寝るなんて信じられない。おかしい」とかなんとか言っているが、そんなことは無視する。
そう、そんなことより俺は1度、冷静に考えて整理する必要があるのだ。
だから俺は、1人の世界に没入した。
――これから、どうする?
女を連れ出しては来たが、正直扱いに困るな。
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