第28話 カチューシャは歩み行く
その悪辣な笑みを間違えることはありえない。
そこに現れたのはハーニャさんではなく、ハーニャさんの身体を借りて現れた、僕の愛する師匠だと確信できた。僕を東京から連れ去り、一年も飛行船で連れ回し、北壁の地獄に叩き落とした、その本人だ。
だからこそ僕は張り詰めた糸が千切れるように……とは言いたくない。そんな糸があれば、彼女は引っ張ったり伸ばしたりして、僕の反応を楽しむことだろう。他に例えるとすれば、ずっと冷たい所にいた春の花が、雪を突き破って陽の光を浴びたように、僕は緊張から解放されて、その場にヘタリ込んだ。
「なんだ……師匠か」
「なんだとはなんスかぁ! もっとリアクションくださいよ!」
師匠は……もとい、ハーニャさんの姿をした僕の主、僕をお人形と呼び、師匠と呼ぶように定めた魔女、『カチューシャ』は、ぷっくりと頬を膨らせた。
「……乗っ取ったんですか? っていうかなんですかそのエロい格好は!?」
「いやぁ、元の服はフリフリしてウチ好みじゃなかったんで、パンナトッティのデザイン借りたんスよ。どうッスかトータ? ホントのウチと比べて美人だしセクシーじゃないッスかね?」
師匠がキュピっとあざとく体を捻る。首から乳頭を経由して股間部に紐が走っているだけの格好だ。そうするだけで胸がこぼれ落ちそうで危うかった。いや、こぼれるとか見える見えないという状態なのか? 布地らしきものは危うい箇所を危うく隠すに留まり、それ以外は紐。裸に近いというかほぼ裸と言い切れる。まさか、これがあの『ものすごい水着』なのか! マントで隠れているが、後ろはどうなっているのか実に興味深い……いやそうじゃない
「うぉぉ! トータからかつてなくエロい視線を感じるぅぅ! ウチにはそんな視線向けてくれなかったのにぃ! やっぱりこの子の方が美人なんスね! むきぃぃ!!」
「ちょ、ムダに動かないでください! 脱げる! それ脱げる!」
チクショウ! 紐ばかりが気になって話が進まない!
「ま、それはそれとしてトータ……」
急に師匠は平静に戻り、弾むような足取りで僕に近寄ると、屈み込んでニンマリと笑った。
「トータもなかなかマニアックなカッコしてるッスね! 積もる話もあるんで、取り敢えずこのまま一発ヤっときますか!」
これがこの人の平静であるから、実に疲れる。
「アンナ嬢とリザは大丈夫なんですか?」
「あん、そうやって話を逸らす……せっかく愛しのトータとの再会なんスよ? 他の女に邪魔させるわけないじゃないッスかぁ、ちょっと眠ってるだけッスよ」
リザとアンナ嬢に視線を配り、僅かに腹部が持ち上がるのを見届ける。
そもそも、この人は人殺しが出来ないからその心配はないが……先ほどの動揺を見てからでは、心配もする。
僕には分からないけれど、おそらく魔女には魔女特有の危機感知能力があるのだろう。熊の接近に怯える子犬のような感覚なのかもしれない。パンナトッティのような善とも悪ともつかない魔女は分からないが、この人は属性的に、真っ黒の『悪』だった。
「上にもう一人、ダーシャがいたはずです。眼鏡でショートカットの」
「あぁ、あのおっぱい大きい子ッスか?」
師匠はご馳走でも思い浮かべるように虚空を見上げ、ゆっくりと手を合わせた。
「いやぁ……おいしゅうございました」
無事でいてくれ、ダーシャ……
「なんスかトータ、ウチの前で他の女の話ばっかり……妬いちゃうんスけど?」
「何しに来たんですか……『お迎え』にはまだ早いはずでしょう。っていうか、力を貸した魔女を乗っ取れるのは六大魔女の特権じゃなかったんですか?」
「質問ばっかりッスねぇ……これはお仕置きが必要ッスかね」
「……待て、それはアンタの身体じゃない」
「待たない」
師匠は僕に飛びかかり、床に押し倒して唇を奪う。身体はハーニャさんのものながら、獣の如くむしゃぶりつき、強引に舌をねじ込み、吸い上げ、内蔵ごと引き出そうとするような強烈なキスは師匠の感触だ……呼吸もままならず、暴れ回って酸欠寸前にまで追い詰められて、ようやく解放される。その鬼畜ぶりもどこか懐かしかった。
「……っぷはぁぁッ! キくぅぅぅぅッ! たまに小娘食べるのも燃えるッスけど、やっぱりトータが一番ッスねぇ! あ、そうそう、上の子、ダーシャでしたっけ? ビミョーにトータの味がしたんで、少々キツめにヤっといたッス」
本当に無事だろうな、ダーシャ……
あとハーニャさん、申し訳ございません。ありがとうございます。
「このまま一晩中ヤり倒したいところッスけど、生憎とウチ仕事なんで、もう行くッスよ。たまたまトータがいたんで挨拶に来ただけッス。ち○ち○ガマン出来なかったら、そこに転がってる小娘でも使ってください、しばらく起きないッスから」
「妬くんじゃないんですか?」
「許可した女を使わせるのと、勝手に手ぇ出されるのは違うんスよ」
師匠が僕を巻く蔦の縄に触れると、たちまち炎が広がって跡形もなく焼け落ちてしまう。僕が灰を振り払うのを見届けると、師匠はゆっくりと身体を引き剥がし、立ち上がって背中を向けた。
その拍子にふわりとマントが翻り、僅かに背中が見える。
まさか! そんなことが!
「そんじゃまた~」
「おい待て! いろいろ待て!」
「そうだ、待て……」
立ち去ろうとする彼女の前に、二つの影が立ちはだかった。
息も切れ切れに肩を浮沈させ、しかし鋭い威嚇の眼光を飛ばす、リザとアンナ嬢だ。
「あらん? 手加減しすぎたッスかねぇ……今の話聞いてたッスか?」
「使うだの使わないだの言ってる所はな……」
「ごめん、私まだ頭ボヤボヤしてるんだけど、このオシャレなカッコの人、ハーニャであってる?」
二人の身体はガタガタと震えていた。少し突けば今にも崩れ落ちてしましそうだ。全身全霊の力を寄せ集め、ようやく立っている様子の二人をクスクスと笑って見下ろし、師匠は大きく息を吸い込んだ。
「……わッ!!」
子供を脅かすような、ただの大声が部屋に響き渡る。しかして二人はその声量の圧に、震える膝を折りかけた。
「……きゃ、っひッ!」
「……きゅぅ」
目を閉じ、歯を食いしばり、二人は身体を縮めて師匠の圧に耐えている。
大熊に立ち向かう子犬を思えば、勇敢で強靭な意志の力だ。けれどそれは、同時に無謀でもある。
「キャハハハハ! いやぁ、ゾクゾクするッスねぇ、ウチごときに怯えちゃって……そうそう、一般の雑魚魔女なんてこんなもんでしたねぇ、あんま後輩と会う機会なんてないもんスから……悪戯したくなっちゃいますよぉ」
「手を出すな!」
師匠が両手を持ち上げた瞬間に声を荒げる。けれど、その場から動くことは出来なかった。僕が飛び出し、腕力を振るったところで彼女にとってはそよ風にもならないだろう。彼女は人を殺すことが出来ないが、それ以外のことなら、なんでも出来るのだ。
「頼むから……質問に答えてくれ。ハーニャさんはアンタが乗っ取ったのか?」
「あらん?」
師匠が僕を振り返る。それを僕が認識した瞬間には、師匠は僕の耳元に唇を寄せていた。耳の奥までねっとりと絡みつくような声で、師匠は囁く。
「ホントホントホント、さっきからなんなんスかねぇ……小娘の話ばっかり、またそんなこと言っちゃうんスかぁ? そんなこと言うから、妬いちゃうんスよ?」
「やめろ……」
師匠が再び身を翻す、次の瞬間には、リザの身体が床から浮いていた。師匠はリザの髪を鷲掴みにして持ち上げ、僕の方へ放り投げる。女性の腕力では不可能な、砲弾の如き勢いでリザが僕へ衝突した。
「……ぐ、っふッ!」
僕の両足も床を離れ、そのまま壁に叩きつけられる、背中を強打し、腹部にリザの身体がめり込んだ。呼吸が止まり、胃液を吐きかけたが、なんとか堪えて床に崩れる。震えるリザの肩を強く抱きしめた。
「ハー、ニャ、かえ、して……」
階段の前では、今にも泣き崩れそうなアンナ嬢が、師匠のマントを握り締めていた。師匠は悪戯げに笑むと、ぬるりとアンナ嬢に腕を巻きつけ、僕へ見せつけるように、そのまま小さな身体を背中から抱きしめる。
「聞いたッスかぁ? この女、こ~んな心にもないこと言ってるッスよぉ?」
「な、によ……」
「ホントはいなくなっちゃえばいいと思ってるクセにぃ……あらん? へぇぇ、もし機会があれば? この祭りドサクサで酷いことしようとも企んでたんスか? なるほどぉ、北壁の軍人は素行が悪いッスからねぇ……ちょっと背中を押せば適当に○してくれるかもなんて、期待しちゃってたんスかぁ?」
「……ひッ! ぃゃ……」
師匠が唇を寄せ、アンナ嬢の耳を舐って舌を押し込んでいく。
そのまま、師匠の右手はぬるりとアンナ嬢の胸の膨らみを蹂躙し、左手はスカートの中に侵入していった。
「悪い子ッスねぇ……卑しくて、醜くて、怠惰で嫉妬深くて淫らで汚くて自惚れで甘ったれで……その上臆病で狡猾でうぬぼれ屋さんだ……」
「い、いや……いやぁ……」
師匠がアンナ嬢の耳を舐りながら、小声で彼女に罵声を浴びせていく。同時に細かく手を動かし、ビクビクと震えるアンナ嬢の身体をさらに可愛がり続けた。
「この……卑怯者」
「いやぁぁぁ――――ッッ!!」
そう囁かれた瞬間、アンナ嬢は喉が千切れんばかりに絶叫し、プツンと糸が切れたかのように床へ崩れ落ちた。師匠が手を離した瞬間、チョロチョロとわずかな水音と共に、アンナ嬢のスカートの中から黒いシミが湧き出し、瞬く間に床の絨毯に広がっていった。
「ま、それはそれで魔女らしいんスけどね」
師匠はペロリと唇を舐めると、僕とリザに視線を定める。
「さて、そっちはどうッスかねぇ……いっただっきま~す」
「きゅぁッ!」
まだ、呼吸機能が戻らず、アンナ嬢の悲鳴がキンキンと耳奥に響く中、師匠は僕に抱きしめられたままのリザに歩み寄り、そっと首筋を噛んだ。
「……っひッ! いッ! ぁッ……あッ! ぁッ!」
リザは僕の腕の中で身動ぎ、僕の服を両手で強く握り締める。強く何かに抗うように、全身を震わせて嗚咽をあげた。
「へぇ、『お嫁さんに』なりたいんスかぁ? 見かけによらず乙女ぇ……」
「……やめて」
やがて顔を上げたリザは、恍惚と蕩けた瞳で僕を見上げた。
「やだぁ、ちょっと優しくされただけでそんなこと思っちゃうなんて、チョロすぎッスよ……ふぅん、そんなことまで、妄想癖ッスねぇ……」
「っひッ! ぃぁ……ぁッ! ぁッ!」
首から背中にかけて師匠に舐られながら、リザはゆっくりと身を起こし、僕に身体を押し付けてくる。服を掴んでいた拳を解き、腕を首へ巻きつけて、視線は僕の両目に固定したまま、鼻頭が触れるまで顔を近づけた。
「……ダメ、ちゃんと、したいのに……アタシ、初めて……きゃぁッ!」
「おっと? なに盛ってンすか……お前はなんかイヤだからダメッス」
師匠はリザの髪を掴み、僕の顔から引き剥がした。
「スペシャルウブのクセにダイタンっスねぇ……なんなら、このまま朝までモップとヤれるようにしてあげましょうか? 楽しいッスよぉ? 自分の意思とは関係なく、身体はガンガン動き続けてイっちゃっても止まらなくて気持ちよくて気持ちよくて……熱ッ!」
バチっと、火花が弾けた。火花は瞬く間に炎となり、小さな竜巻となってリザを包み込む。彼女と一緒に包み込まれた僕は灼熱の痛みを覚悟したが、しかし幻覚かと思うほど熱さはない。そして、ほんの一瞬で炎は消えてしまう。
「うわっ! なんスかそれ! ガチの方の『魔女の火』じゃないッスか! やらしいこと探りすぎて気付かんかったッス!」
しかして、師匠の興を削ぐには十分効果したようだ。
師匠はリザから離れると、マントをはためかせて呆気にとられた顔を浮かべた。
「はぁッ……はぁッ! はぁッ……はぁッ!」
リザは俯いて大粒の涙を流しながら、息を荒げて自分を抱きしめている。僕もようやく呼吸機能が戻り、リザと身体を入れ替えて師匠に対した。膝を立ててリザを背中に庇ったまま、憤怒を込めて睨みを飛ばす。
「いい加減にしてください……」
「あらあら、怒っちゃいましたか……相変わず優しいッスねぇ、まぁ、そういうトコ好きですけど……あぁ、今日一番ゾクゾクしちゃうッスよ、その目ぇ……」
師匠は自分を抱きしめてブルリと身震いし、口を左右に裂いて笑った。
「大丈夫ッスよトータ、この子、ハーニャでしたっけ? 六大魔女にかなり借金してるみたいッスけど、今回のウチは特別派遣なんで、すぐ返すッス……あぁ、返して欲しかったらの話ッスけどねぇ……」
師匠はクルリと反転し、沈黙を続けるアンナ嬢の横を通り抜けて階段へ向かう。
「今回、ウチはパンナトッティに用事があるんで……それじゃ、会えたらまた後で会うッスよ。会えなかったら、そうッスねぇ……そのうち、様子見に行くんで、浮気しないで待ってるッス」
師匠は弾むような足取りで階段を上っていく。やがてその足音も聞こえなくなった。
僕は大きく息を吐き出し、震えてうずくまるアンナ嬢とリザを交互に見やり、その後で暖炉の上の砂時計を見る。時間は、ほとんど進んでいなかった。
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