第27話 愛しきカチューシャ

 ダーシャが僕に怯えていると知った時、僕はほんの僅かに、けれど確かに高揚していた。右手で触れたデリンジャーをそのまま抜いて、彼女に突きつけて、死にたくなければ僕に従えなんて命令できたら、どれほど心地よいかを想像していた。


 そのままダーシャを人質に取れば、アンナ嬢や、リザや、ハーニャさんも僕に従わせることが出来ただろう。無一文で街に帰る前に、あるいは、パンナトッティの人形になってしまう前に、楽しい時間を過ごしてやるのも悪くない。もしそうすることが出来たら、どれほど愉快だろうと想像してしまうくらいに、僕は薄汚い人間なのだ。


 両親に抑圧され、師匠に管理され、山賊みたいな上官にイジメ抜かれた末、ほんの僅かに訪れた王様になれる機会を前に、僕は確かに高揚し、悪辣なことを企んでいた。そしてアンナ嬢もまた、ハーニャさんが強者に返り咲いたことによって、よからぬ企みを白紙に戻したことだろう。アンナ嬢には迷いがあったようだから、それもそれで良かったと思う。


 だから、つくづくに、考えれば考えるほど、ハーニャさんが強者として君臨する空間は、優しくて、清浄で、正常だ。


「……おい、大丈夫か?」


 僕は縛られたまま一階のソファーに座っていた。久しぶりに声をかけられて、顔を上げる。そこにいたのはリザだった。


「ごめん、少し寝ていた……時間は?」


 部屋の奥、暖炉の上に置かれた巨大砂時計を睨む。砂は既に、四分の一ほどしか残っていなかった。あれからどれだけ時間が過ぎたのか。


「お水飲む? 丸二日も飲まず食わずじゃない、死ぬわよ?」


 アンナ嬢も居たらしい。グラスと水差しをテーブルに置き、少し困った顔を見せた。


「えっと、どうやって飲ませよう……漏斗?」

「お気遣いなく、北壁の訓練に比べれば、天国みたいなもんです」

「生々しいからやめてくれない? 口移しで飲ませて下さいみたいなジョークでも飛ばして欲しいわ」

「いえ……」

「ハーニャがごめんなさい。あの子って、たまに常識が通じないのよ。昔から優秀で、なんでも出来て、安請け合いするから、自分がしっかりしなくちゃって思い込んでて。今の状況は、そういう環境で育ててしまった私たちのせいでもあるわ」

「いいえ……」


 僕は許しを請うように顔を伏せ、懺悔を絞り出した。


「すみません、アンナ嬢……今、僕はすごく安心しています。自分が、暴力で貴方達を組み伏せられると気づいた瞬間、少しだけ、そうすることを考えてしまいました。誘惑に駆られてしまいました。ケダモノです。鎖に繋がれて、今は安心してます」

 現に今、残り時間を知った時、僅かに焦りが浮かんだ。ハーニャさんが統括する環境だから僅かで済んだのかもしれない。これがもし、僕自身が皆を統括する状況だったら、もっと強い焦りが浮かんでいただろう。その場合、さらに追い詰めたら、僕がいつまで理性を保てたか分からない。


 ハーニャさんには感謝すべきだ。感謝しすぎて溜め息が漏れる。


「トータ? ちょっとトータ!」

「むぎゅるッ!」


 不意にアンナ嬢の小さな手が僕の両頬を挟み込み、強引に上を向かせる。


「やばいリザ! トータがメチャクチャ弱ってる! 水飲ませて水!」

「水よりいいのがあるぞ? 七階の化け物が落としていったウォッカだ」

「いいわねそれ行っときましょ!」

「ちょ……マジですか! ぐぇッ!」


 アンナ嬢がぐいと髪を引っ張り、僕の口を天井へ向けて顎を引っ張る。ぽっかり開口したところへリザが酒瓶を当てつけ、容赦なく傾けた。


「ぐほッ! ぶはッ……がはぁッ! 殺す気ですか!」

「だってものすごくキモイこと言うから……うわ鳥肌たったぁ……」

「フツーそういうもんだろ。オレらに謝られても困る」

「待てリザ、さり気なく飲もうとするな。ウォッカは! ウォッカはやめなさい!」


 アンナ嬢がリザから酒瓶を奪い、栓をしてテーブルに戻す。それから僕の頭にポンと手を置いて、ワシワシ髪をかき乱した。


「ホントにウブいのねアンタ。アンタがそう思っちゃうことも、なんかの拍子に爆発しちゃうかもしれない、ってことも、それを必死に抑えてくれてるのも、ちゃんと分かってるわよ。最悪、私がヌいたげるくらいの覚悟はしてたってもんよ」

「ヌくって何を?」

「おっと? ちょっと耳塞いどきなさい生娘」

「待ってくださいアンナ嬢……あなたその容姿で? まさか!?」

「失礼ね! 詮索すんな! 大人なんだぞ! 年長なんだぞ!」


 頭を撫でる手がバシバシ叩く平手に変わる。痛くはない。むしろ心地よい。


「それにしても、いや待て……年齢的にはおかしく無いだろうけど、この容姿だぞ? 確かに出るところは出てるし、クビレもあるし、下着の趣味は過激だけど……いや、未婚だから数年前という可能性が高い、なら今よりもさらに幼女じみた容姿だったはず……確かにそういった性癖の人間は存在するし否定する気もないが……相手がいると信じたくない!」

「おいこら、心の声が漏れとるぞ? もう一発ウォッカくらうか?」


 目を細めてアンナ嬢がウォッカを持ち上げる。素直に謝った。


「さて、下ネタはこんくらいにしといてくれる? 状況報告よ」


 アンナ嬢が僕の隣にちょこんと腰掛けると、リザも反対側に腰掛けてソファーを埋める。どうやら二人共、僕に気を使ってくれているらしい。


「あれから、二日もかかったけど、ようやく十階までたどり着いたわ。八階で少し苦戦したみたいだけど、ハーニャがなんとかしてくれたみたい。あの子は器用だから、自分で工夫してやりきったんでしょうね。そんで、どうやら次が最上階みたい。いよいよパンナトッティとご対面のようね」

「その話しぶりだと、アンナ嬢は戦闘に参加してないんですね?」

「えぇ、アンタの言うとおり、キャンディをハーニャ一人に集中させたからね。リザは戦闘に入ってるけど、ほとんどハーニャが片付けてるんでしょ?」

「オレは立ってるだけだ、なんも出来ねぇ」


 リザはトンファーをくるくる回しながら、つまらなそうにぼやく。


「時間的にまだ余裕があるから、少し休んでから先に進もうってことになったの……ハーニャは今、ダーシャが相手してるわ」

「ちなみに今、ハーニャさんはどんな姿になってますか?」

「調子戻ってきたわね……案の定脱げてるわ、裸にエプロン一枚よ」

「マジっすか!」

「ウソよ、信じるなスケベ」

「縛っといて正解だったな」


 左右から冷笑を浴びつつ、テーブルに額を打ち付けた。本当はどんな姿になっていることやら……見れないのは残念だ。


「一応、お前にも手鏡を確認して欲しいってことで、様子を見に来たんだ。手持ちのカードで備えられることがあれば、備えてくれ。お前、このゲームに詳しいから」

「そういえば、ずっと気になってたんだけど、アンタなんでこのゲームに詳しいの? こんな変わったゲーム、見たことないんだけど」

「まぁ、あった故郷と言いますかなんと言いますか……それより、僕が見るのはいいですが、もっと根本的な問題がありますよね?」

「そうなのよねぇ……」


 アンナ嬢が深く溜め息を吐く。その反対側でリザが首をかしげた。


「蒸気戦車を破壊したハーニャさんのあの強さは、六大魔女から魔力を借りているのかもしれない。しかも想像するだに、あの人は日常的にあの強さなんですよね」

「えぇ……内蔵魔力が特別に多い天才児、みたいに扱ってきたけどね。正直、本人が違うと言えば確かめるすべはないし、あまりにも当然のように使いこなすから、分からないのよ」


 けれど、考えなしに魔女コインを大量購入していたあの様を見て、疑いはますます強くなっていた。


 六大魔女から力を『借りる』ことは、それ即ち『借用』という意味。いずれ返さなきゃいけない。そしてその返済手段が、六大魔女に身体を乗っ取られること。


「もし、ハーニャが普段から六大魔女に借金していたとしたら……伝説通りであれば、パンナトッティはハーニャをいうがままに操れることになるわね」

「もしそうだとしたら、パンナトッティに勝つ術はない。時間的にも、他の誰かのレベルを上げるまでは余裕がありませんし、最悪は魔女コインを買ってガチャを回しまくるしかない、か……」


 アンナ嬢の言葉を僕が紡ぐ。『もし』に『もし』に『もし』を重ねた場合の、悲観的な想定ではあるけど、それぞれの『もし』を強く否定できないがために、起こりうる事態かもしれないと、強く想像してしまう。


「はぁぁ……これ以上魔女コインを買ったら、帰ったとしてどうなるのよ」

「戻ったらお屋敷が消えてるとかですかね?」

「ハーニャの分と合わせたら、もう消えるくらい買っちゃってるわよ」

「普通の借金なら内蔵売るとかか? 貧民街では色宿に連れてかれるけど」

「アナタ、純粋そうに見えていろいろ知ってるのね……」

 リザの言葉に、アンナ嬢がぶるりと身震いする。

「一応、私も魔女だし、娼婦を悪く言う気はないけど……勘弁して欲しいわ」


 余談ながら、この国は性風俗業で栄えていたりもする。魔女の起源が娼婦とも言われているため、取り締まる法律が極めて緩いのだ。近年では、帝国の将官がお忍びで通っているとの噂もある。もしハーニャさんがそうなったら、本当に国が傾く事態になりそうだ。


「ともかく、パンナトッティがチャラにしてくれるのかどうか……先に行った貴族がぜんぶ破産してる所を見ると、期待はできないでしょうけど」

「ハーニャさんが勝ってみないと分からないですね……」


 ブルリ、と、またアンナ嬢が震え上がった。

 自分を抱くように両腕を締めつけ、背中をガタガタを揺らし始める。見下ろすと、両足も小刻みに床を叩いていた。


「アンナ嬢? いえ、大丈夫ですよ、もしそうなっても僕がなんとか見受けしてみせます」

「いや、アンタも貯蓄使い切ってるでしょ……そうじゃなくて、アレ?」


 自分の身に何が起こっているのか理解出来ないように、アンナ嬢はさらに身を丸め、奥歯をガタガタ鳴らしてと震え上がる。


「リザ、アンナ嬢を勇気づけてやってくれ……リザ?」

「……なんだコレ」


 反対側のリザを振り返ると、彼女もまた震え始めた自分の腕を睨みつけていた。


「二人とも、どうしたんですか? 寒い?」

「寒いというか……なに、この感覚、怖い?」

「なにか、来てる感じだな」


 おもむろにリザが立ち上がった。ドレスのスリットを捲り、ふとももに仕込んでいたもう一本のトンファーを抜き出して階段を向く。その瞬間、彼女は噛み合せた歯をむき出しにして、両目を大きく見開いた。髪さえ殺気で逆立つようだ。怯える獣が、それでも外敵を威嚇する剣幕にも似ていた。


「アンナ、そいつの縄解けるか!」

「ムリよ、ハーニャの魔法だもん、私じゃ何にもできない!」

「ヤバイのが来る、隠れろ!」

「動けない……立てない……」


 アンナ嬢は僕の隣で泣き崩れ始める。勇ましく立ち向かうリザの両脚も、今にも膝が折れそうほど震えていた。僕は立ち上がり、両腕に力を集めて植物の縄に抵抗してみるが、どれほど力を入れても緩む気配すらなかった。


 無力な僕の袖に、それでもアンナ嬢がすがりついてくる。


「何が起こって……」


 僕は言葉を途中で止めた。

 何が起こっているのかを、理解したのだ。


 階段の上から鼻歌が聞こえてくる。明るく弾み、ワクワクして、ずっと聞いていたくなるような、心地よい鼻歌だった。


「……『カチューシャ』」


 それは『彼女』が僕の故郷に現れた時に知った歌だった。

 自分と同じ名前だと、彼女はこの歌をすごく気に入っている。

 彼女はゴキゲンなほど、この歌が上手くなる。

 彼女がゴキゲンなほど、決まって良くないことが起こる。

 だからこの鼻歌が、こんなに愉快に聞こえてくるのは、とても良くないことだ。

 階段から足が見えた瞬間、パチンとフィンガースナップが鳴り響いた。

 それと同時に、リザとアンナ嬢が糸の切れた人形のように倒れる。


 白い素足はそのまま階段を下り、長い生脚を見せ、引き締まったお腹とおヘソを見せ、豊かな胸も恥じらうことなく曝け出し、ゆっくりと全容を現す。


 世にも美しいハーニャさんの美顔が、そこにあった。


 けれど彼女は僕を見つけると、口を左右に裂くような独特の笑みを見せ、とても懐かしい口調でこう言った。


「久しぶりッスねぇ……トータぁ」 

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