第24話 拳銃をアナタに
「……え?」
急激にアンナ嬢の存在感が膨らんだ。
まるで香水の瓶を開いたように、突如として部屋が全体に甘い香りに包まれる。驚いて立ちすくんでいる間にも、心を蕩かすような香りはさらに濃度を増して、綿飴の如く濃密に満ちていく。アンナ嬢がわずかに身じろぐだけで香りが波打ち、足を取られそうになる。
もちろん、アンナ嬢は香水の瓶なんて持っていない。
嗅覚に集中すれば、何かが香っている訳ではないと気づくことが出来た。
それから再びアンナ嬢を見て、悟る。
これは、彼女が放った『色香』だ。
「……ねぇ、そうなの?」
アンナ嬢の瞳が切なげに瞬き、薄桃色の唇がほのかに開く。
それだけで、甘い弱電流が僕の身体を包んだ。明らかに僕の知る彼女ではなくなっている。『可愛い』ではなく、『美しい』、そして
気づいたときにはもう、アンナ嬢から目が離せなくなっていた。
彼女の髪や、瞳や、唇や、白い胸元や脚に、視線が吸い寄せられていく。呼吸をするだけで濃密な色香が肺へ侵入してくるようだ。色香はそのまま血液に乗って全身へ巡り、脳まで達する。
くらりと意識が歪んだ。
アンナ嬢の何もかもが魅力的に見えて仕方なかった。
今にも彼女へ飛びかかって、その素肌に吸いつきたいという欲求に駆られる。
それが許されるなら、どんな代償でも支払ってしまいそうだ。
「そうね……もしアナタが私の期待に応えてくれたら、もちろん、私は嬉しくなってなんでもシテあげちゃうかもね……アナタが私に望むことなら、な~んでも」
アンナ嬢は挑発するように、くすりと微笑を浮かべる。
男を誘い誑かそうとするような、妖艶な魔女の微笑みだった。
「……ねぇ、トータ、それでどう?」
アンナ嬢は魅惑的な瞳で、上目遣いに僕を見上げる。
直接触れている訳でもないのに、その視線に乗せて彼女の温もりや柔らかさが、生々しい肌の感触が伝わって来るようだった。
(……凄いな)
いくら背が低くて子供っぽいとはいえ、やはりアンナ嬢は大人の魔女なのだろう。自我が飛びそうなほど強力で、洗脳的な色香だった。
「……そういう問題ではありません」
危なげながら、気合で自我と意識を保ち、僕は言葉を返した。
「このまま僕が何かをしたら、僕は『アンナ嬢の信用を裏切って非道を行った悪漢』になってしまいます。それは本意ではありません」
「ややこしいのねアンタも……見返りが欲しい訳じゃないの?」
アンナ嬢は床に目を落とし、溜め息を吐いた。その瞬間に、部屋に満ちていた綿飴のような色香が、溶けるように消えてしまう。僕の態度を見て、色仕掛けを諦めたということだろうか。
(……危なかった)
何をどうやってアンナ嬢が色香を放ったのか、全くわからなかった。魔法を使った素振りはないから、おそらくは単なる技術なのだろう。ダーシャの如く肌を見せたり、身体に触れさせたりもせず、視線や呼吸や仕草だけで、アンナ嬢は身に纏う雰囲気をガラリと変えてみせたのだ。
……やっぱり女性は恐ろしい。後一歩でアンナ嬢の奴隷になるところだった。
今はほんの一瞬、僕を試す目的で使われたのだと思うけど、もし彼女が本気で僕を籠絡するつもりだったら、僕はどうなっていただろう。
僕が冷や汗を浮かべる一方、アンナ嬢は頭を抱えて言葉を続けた。
「えっと……つまり、アンタは『何』をすればいいか分かっているクセに、『直接、頼まれない限り、やりません』って、そう言いたいのね? それって、見返りを求めないのなら、何か意味があるのかしら? 悪者になりたくないだけ?」
意味はあった。必要な場合は泥をかぶる覚悟もある。けれど、現状のまま僕が行動を起こしても、アンナ嬢への『貸し』と、『信用』を得ることが出来ない。それでは誰にも利益はない。
だけど、その狙いを彼女に悟られると都合が悪かった。
「僕は、悪者になりたくないだけです。アンナ嬢だってそうでしょ?」
「なりたくないわけじゃないわよ。なるわけにいかないの……」
アンナ嬢は顔を伏せて小さく呟き、うさぎのぬいぐるみを抱きしめ、ソファーに身を投げ出す。
「私みたいな小娘が貴族をやっていくなんて、大変なのよ……」
「お察しします」
「んぁぁぁ~~~………」
魂ごと吐き出すように、大きく大きく溜め息を吐いて、アンナ嬢は身を持ち上げた。
「ありがとう、少し吹っ切れたわ。アナタがそういうつもりなら、アナタが思うことを、私の口からアナタに頼むことは絶対にありえない。だから、もう気にしないで? ごめんなさいね、ヘンな気を使わせちゃって」
アンナ嬢は失望を裏に秘めた、穏やかな笑みを浮かべる。
その言葉と笑みは、彼女の意思を推し量るのに十分な材料だった。
つまり、『未必の故意』だ。
直接手は下さず、そうなりやすい環境を整え、そうなればいいなと見守るだけ。『悪者になるわけにはいかない』と言うくらいだから、貴族特有の事情が諸々あるのだろう。それは僕が追求すべきことではない。
「……本当に、アンタのヘタレ具合は予想外だわ」
呆れたように、力が抜けた顔で、アンナ嬢が僕を見上げた。
「ご期待に添えず申し訳ございません……」
「いいえ、ありがとう。私も少し、気が楽になったわ……間違いを犯さずに済んで良かった」
アンナ嬢が落胆と共に言葉を滑らせる。嬉しい言葉だった。
その言葉が出たこの人になら、任せて大丈夫だろう。
「それでは、僕は全員が無事に帰れるように、心置きなく尽力します。いいですね?」
「よろしくどーも」
「では、そのことについて、一つお願いがあります」
僕はゆっくりと屈み、ズボンの裾を持ち上げて、足首に巻きつけたデリンジャーを取り外した。元々、隠し持つことに特化した小型拳銃だ。手の平より小さいそれをアンナ嬢の前に差し出すと、彼女は今度こそ子猫のように愛らしく、疑問符を浮かべて首をかしげた。
「なにこれ? 鉄砲のオモチャ?」
「いいえ、本物の拳銃です。とても小型ですが、人を殺傷できる威力があります」
「やだ、何よ怖いわね……」
「はい、とても怖いんです」
僕はデリンジャーを差し出したまま、アンナ嬢の前に跪いて、苦笑を浮かべた。
「さっき、ダーシャと話しました。こんな隔離空間で、美女四人に囲まれて、なおかつ、この先精神的に追い詰められてしまった時、こんな物を持っていたら、僕はよからぬことを企むかもしれません。だから、これは、アナタに持っていて欲しい。なんなら、今すぐ僕の手足を縛って下さい。お休み中は僕をどこかの階に隔離して、家具を動かせばバリケードくらい作れるはずです。攻略に必要な指示は出しますので」
「……それって」
アンナ嬢が目を丸める。驚きと、戸惑いに満ちた表情だった。
普段、僕には自分が強いという認識すらなかった。無意識の内に、僕が何をしても、僕より強い誰かが僕を止めてくれるという安心感があった。
東京にいた時は両親や警察がそうだったし、飛行船では師匠、北壁では上官、僕は間違ったことをしたら彼らに咎められ、悪事を目論むことさえ抑止されていた。
けれど今は、僕を止めることの出来る何かが存在しない。
僕が僕を見失ったら、誰も僕を止めることが出来ない。この場には五人しか存在しなくて、そこには正義を振りかざして干渉してくる誰かも居ないし、悪意の暴力から逃げる場所も無い。あるいはパンナトッティが介入して来るかも知れないとも考えたけど、このゲームの裏で渦巻く『事情』を踏まえて考えれば、それに期待するのは愚かに思えた。
だから僕は、アンナ嬢に拳銃を差し出した。
そうすることで彼女らは僕からの防衛手段を確保出来るし、僕自身も『拳銃で撃たれるかもしれない』という不安で自分を縛ることができる。という寸法だ。
「……ヘタレねホントに」
アンナ嬢は呆気にとられた顔で僕を見下ろし、くつくつと笑った。そして子供を褒めるように、ぐりぐりと頭を撫で回してくれる。
「別に、縛るまではしないわよ。もし本当に、アナタがよからぬことを企んでくれてたら、むしろ私にとって都合がよかったんだけど……」
アンナ嬢はそっと僕に手を重ね、デリンジャーを受け取った。
小さな拳銃は、彼女の小さな手にしっかりと収まり、まるで本来の主の元へ戻ったかのように、鈍く光る。
「これは、私が預かるわね……」
「使うときは撃鉄を上げて、引き金を引くだけです」
「言わないでよ、そういうこと……」
声を震わせながら、アンナ嬢はギュッと銃身を握り締める。
不意に、激痛を伴う罪悪感が、僕の身体を駆け巡った。
今日ほど自分を臆病者だと思ったことはない。
ダーシャに諭された瞬間、僕は先述のような言い訳をして、アンナ嬢に拳銃を渡すことで、絶対強者の立場から逃げたのだ。
ああ、これで僕が悪いことをしようとすれば、アンナ嬢が僕を裁いてくれる……
そんな生ぬるい抑止力に、僕は甘んじてしまった。
そして、僕が逃げるほどの辛い役目をアンナ嬢に押し付けてしまった。
その罪悪感が、鞭の如く僕の身を
「……あぁ、なるほどそうか」
不意に頭の中でイメージが繋がった。
強力な魔法を使える普段のハーニャさんと、普段から非力なアンナ嬢。
拳銃を持ったアンナ嬢と、魔法が使えないハーニャさん。
絶対強者に対する不安と恐怖と罪悪感。
あるいは、と心の中で唱え、僕は視線を上げた。
あるいは普段から彼女は、さっきの僕と同じ立場に存在しているのではないか。
あるいは力を失った今、彼女は僕に対してどういう疑いを抱いている?
普段から絶対強者の立場にいる彼女なら、あるいは……。
「ねぇ、トータ……」
呼ばれて顔を上げると、アンナ嬢は震える手で拳銃を握りながら、瞳を潤ませていた。跪いたままの僕を見下ろし、今にも泣き崩れそうな声で、問いかける。
「私……だいじょうぶかな? ちゃんと、『間違わない』かな?」
その言葉と共に、アンナ嬢の別の言葉が、脳裏をよぎった。
――『この先、何が起こるか分からないから、あの子がどうなるか分からない』
――『あの子、【危ない】のよ』
――『貴方があの子に【何をしたとしても】、私はアナタの味方をしてあげる』
遺産相続か、家督権限か、妬みか恨みか……貴族階級の水面下抗争は、僕が想像出来るものではない。無知で弱くて臆病者の僕に出来ることは、きっと限られている。
「人は誰も間違えます……僕も多分、今、間違えている」
僕は震えるアンナ嬢の手を包み込むように、そっと両手を重ねた。
そのまま彼女の小さな手を握り、彼女の指をゆっくりと、拳銃に巻きつけていく。
両手でしっかりとグリップを握らせ、親指を撃鉄に添えさせ、腕を伸ばすように持ち上げさせて、銃口を僕の心臓へ向けさせた。
そのまま、ぎゅっと彼女の手を握り、じっと強く眼を合わせて告げる。
「でも、アナタなら……絶対に間違えてはいけないことは間違わない。僕はそう確信しています。アナタが僕を信用すると言うのなら、どうかこの言葉も信じてください……それとも、やっぱり僕が持っていたほうがいいですか?」
アンナ嬢はしばらくの間、口を噤んだ。
その間も、僕は震える彼女の手を、拳銃ごと握り続けた。
「……いいえ」
やがて手の震えが止まった後に、アンナ嬢は力強く口を開いた。
「これは、私が預かるわ……
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