第10話 風呂小屋②
庭の植木に隠されて、黒い小屋があった。
月の光さえ届かない深淵の闇の中、アンナ嬢が蝋燭を灯さなければ、そこに小屋があることさえ分からなかっただろう。小屋は今にも崩れそうなほど傷んでいる上、場所一体がジメジメとしていて気味が悪く、何か得体の知れない怪物に見張られているような、居心地の悪さを感じた。
「……お風呂、なんですか?」
「昔のね。今はお屋敷の中にお風呂があるのが当たり前だけど、昔は、こんなお風呂小屋がどこにでもあったんだよ?」
私はその時代を知らないけど、っと付け加えて、ハーニャさんは言葉を結ぶ。その口調が敬語からくだけた調子に代わっていることを僕は聞き逃さなかった。年の近いリザと話すことで素の調子に近づいたのだろうか、なにはともあれ嬉しい。
アンナ嬢が小屋の鍵を開けて中に入る。戸惑うリザを背中かから抱きしめ、ハーニャさんがその後に続いた(リザめ羨ましい)。僕もその後に続く。入ってすぐはかなり狭い小部屋で、木の棚と籠だけが置いてある。もう一つ扉があり、奥に続いているようだった。風呂、ということなら、ここは脱衣場なのだろう。
さらに奥の部屋は広く……といっても、アパートの一室くらいの広さだ。壁沿いに階段状のベンチが三段並び、部屋の中央には真っ黒な石のカマドがある。床や椅子や壁も、カマドと同じく真っ黒だった。窓はなく、隙間風は入るが、小屋の外さえ暗いために全く光が入ってこない。蝋燭を消せば雨の夜よりくらいだろう。
その他には、大きな姿見が二つと、蓋をされた大きな水瓶が二つ、部屋の奥に並んでいる。
見覚えのある構造にふと気づいた。
「……なるほどサウナか」
「そう、カマドで火を焚いて、水瓶に焼石を入れてジュゥって蒸気を起こすの。何回かアンナ姉さんと入ったことあるけど、結構、気持ちいいんだよ?」
「今はどこの家にもボイラーがあるから、こんな手間のかかるお風呂、貴族の家にしかないけどねぇ……昔は、お風呂なんて一週間に入るか入らないかってものだったらしいし、お風呂小屋はトイレより不潔で気味悪い場所だったらしいわ。まぁ、この有様を見てたらわかる気もするけど……」
話しながら、ハーニャさんとアンナ嬢は姿見を持ち上げて移動を始める。重そうではないが、慌てて手伝いに走った。力仕事は僕が引き受けるべきだろう。
「ありがとう、もう一つは、この鏡の対角に置いてもらっていいかな? 角度は私が調整するから」
「お安い御用です」
僕はハーニャさんに言われるまま、もう一つの鏡を浴室の対角へ運んだ。中心にあるカマドを挟んで向かい合わせになる構図だ。
「……これって合わせ鏡?」
「うん、それで大丈夫、あとは、アンナ姉さん……」
「ほーい、せっかくだしリザ、アンタが蝋燭に火つけてちょうだい?」
アンナ嬢はカマドの上に蝋燭を置き、カマドの対角に火のついていない蝋燭をもう一本置いた。怪訝そうに眉を寄せながらもリザが指を弾くと、ボン、っと空中に火が弾けて蝋燭が灯される。
「……凄いな」
幻想的な光景だった。
暗黒の浴室を斜めに切る合わせ鏡、その間に置かれた二本の蝋燭。鏡の中には蝋燭の火が無限に跳ね返り、並木道のようになってどこまでも続いている。深い深い暗闇の底まで続くような灯火の道に、しばらく見蕩れて、ふと我に返った。
鏡の中に映っているはずの、僕たちの姿がそこに無い。
「……行くわよ」
いよいよアンナ嬢が覚悟を決めた声で、鏡の中の灯火の道へ踏み出した。リザの手を引いてハーニャさんが、手を引かれるまま呆然としたリザが、その後に続く。
「軍人くん、早く進んでくれ」
後ろからダーシャにお尻をつつかれ、僕はリザの後に続いた。不思議と、鏡にぶつかるような気はしなかった、既に浴室と鏡の中は暗闇で繋がれていたのだ。気が付くと僕は闇の中を続く灯火の道を、リザの背中に続いて歩いていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
闇の中をどこまでも歩いていた。
ガス灯の光もなく、月も星もなく、左右に並ぶ蝋燭の光だけが僕たちの姿を薄明るく照らしている。僕たちの姿以外は何も見えない。前も後ろも、右も左も、ただひたすらに闇が続いていた。アンナ嬢が先頭を歩いてくれているからそちらが前だと分かるが、一人で歩いていれば前後不覚に陥りそうだ。
「これ、なんていう魔法なんですか?」
「う~ん、なんだっけ? アンナ姉さん」
「んぁ~~」
リザと腕を組んで歩くハーニャさんに問いかけると、その前を歩くアンナ嬢にまでパスが飛んだ。ひどく面倒くさそうなうめき声が上がる。
「空間自体は『
「あまり怪談は聞いたことないんですが、そうなんですか?」
「そういうことになってるわね。元々、ルーシェの魔法は自然界の力や仕組みに人間が干渉する、って形だから。まぁ、そんな感じなんじゃない? よく知らないのよ」
「これはアンナが魔法を使ってるワケじゃないのか?」
絡みつくハーニャさんの腕を面倒くさそうに振り解き、リザが質問を繋げる。
「当然よ。私に出来るのはちょっと水を操れる程度。リザだって、ちょっと火を操れる程度でしょ? 六大魔女に親等が近い貴族でも、四大元素のひとつかふたつを使うのが精一杯みたいね。正直、こういった大きな魔法は、誰もよく分かってないのよ。これをこうすると、門が開く伝統ですよって教えられて、それに従ってるだけだから。パンナトッティの呼び出しがなけりゃ、そうそう使うものでもないしね。六大魔女でもなけりゃ、どこに出るかなんて制御できないだろうし、下手すりゃこの空間に閉じ込められるのがオチよ。前に使った去年のお祭り以来、一度も使ってないわ」
「あれは楽しかったねぇ~……今回と違って貴族全員強制参加だったから、凄く人が集まって」
する、っとリザを後ろから抱きしめ、ハーニャさんがくすくす笑う。
なんかこの人、リザに対してやたらベタベタしてません?
「去年って、『チキチキ、ヴォルガ川逆流レース』とか言ってましたっけ?」
「ホントあれなんだったのかしら……無駄に魔法使いまくったわ」
「パンナトッティの悪戯は、魔女の力と文化を維持するためとも言われている」
不意に最後尾のダーシャが発言する。振り返ると、彼女は丸眼鏡に蝋燭の火を写しつつ、興味深そうに暗闇を見つめていた。
「そういえば最近、魔法なんて滅多に使わないもんね」
「時代は蒸気機関の登場でどんどん便利になってるから、たまには魔法を思い出せってことなのかしら」
無駄話を進めつつ歩き続けると、やがて蝋燭の道の先に、小さな光が見えてきた。光は近づけば近づくほど大きくなって、やがて姿見の大きさで形を留める。
「いよいよ会場に到着みたいね……さて、何が出ますことやら……」
アンナ嬢に続いて姿見をくぐり抜けると、辺りが瞬く間に光に包まれた。
太陽の光でも、月の光でも、蝋燭の光でもない。
それは無数のガス灯だった。
「……はい?」
『ウェルカァァァーームゥゥッ!! ドッキドキ×ワックワクのパンナトッティ祭にようこそ!!! 待っておったぞアクショーノヴァ御一行! まずは小手調べ? 腕試し? 準備運動のデモストレーションチャレェーンジ!! ドンドンぱふぱふ! イェーイ!! 五体の門番を倒してパンナトッティ城の鍵を手に入れよう! 果たして無事にお城までたどり着けるかな!?』
やたらとハイテンションな子供の声が響き渡り、響き渡る。それはそれは響き渡る。
それもそうだろう。姿見を抜けた先に広がっていたのは夜に輝く工場地帯。網目のように張り巡らされた配管とワイヤー、夥しい数のバルブから漏れ出る蒸気。そびえ立つ鉄の壁がどこまでもどこまでも声を反響させていく。
「魔女は蒸気機関がお嫌いですって?」
「んんー? んん? んんん~~?」
僕が問いかけるとアンナ嬢の首が右へ左へころころ傾ぐ。
「ねぇ、アレ……なにかな?」
誰もが状況についていけず戸惑う中、ハーニャさんの指がするりと伸び、僕たちの正面先を指した。言われるままにその方を見れば、二ブロックほど離れた向こうに、五つの巨大な影が屹立している。
それはそれは、巨大な影だった。僕らが呆気に取られる内にも、それらの影は背中の煙突からけたたましい蒸気を放ち、轟音を従えてキャタピラを回し、地面を揺さぶりながら僕らの方へ突進を始める。キャタピラの上から伸びる巨人のような上半身、その肩が回転して大木じみた腕が振り上げられると、僕らのいる一体が浅い影に包まれた。
「蒸気戦車ぁ!!??」
「『腕付き』だぁぁぁ――――ッッ!!!」
みんなが数歩退く中、ずっと僕の後ろにいた彼女が奇声を発して前に飛び出した。
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