第2話 魔女の火

 季節は春も半ば、まだ溶け切らない雪が歩道の隅に残っているものの、日のある時間は長くなっていた。もう二か月もすると白夜の時期が来るだろう。石畳で舗装された街道にはガス灯が並び、その間を背広を着た商社紳士や、買い物に走るメイド、新聞売りの少年などが忙しく往来している。車道には一頭馬車が走り回り、郵便物やお偉い方を運搬中だ。


「あ、すごい、自動車だ。めずらしーわね、どこの金持ちかしら?」


 ふとアンナ嬢が街道の先に目を留めた。

 物々しい蒸気自動車が、靴屋の前に駐車されている。エンジン部からは湯気が立ち昇り、駐車中ながらクランクがガチャガチャと音を立てていた。時折、プシュゥと音を上げて漏れる白い排気に、見物に集まった子供たちが歓声を上げている。


「蒸気自動車が珍しいのはこの国だけですよ。帝国の方じゃ馬車に取って代わる勢いと聞いています。ぼちぼち空も飛ぶとか、飛ばないとか……」

「あら、そういう話もできるクチ?」

 アンナ嬢が振り返り、大きな瞳をパチクリさせた。

「別に難しい話はしていませんが、野獣しか居ないイメージですか、北壁」

「一般的にはね。部屋を貸してもらえてること、感謝しなさい」


 アンナ嬢は凛然と受け答えしながら、僕の前を歩く。後ろ姿は子供にしか見えないものの、やはり人の前を歩くことに慣れているのか、小さな背中を追う僕の胸には、不思議と無根拠な安心感や使命感が湧き上がってくる。良い上官の背中だ。


 けたたましい駆動音と、黒い排煙を吐き出す蒸気自動車を横目にしながら、彼女は薄い唇を尖らせた。


「最近になってこの国でも開発が始まったけど……この国が機械大国になることはないでしょうね。六大魔女は蒸気機関が嫌いって話だから」

「でも、上下水道は蒸気機関の恩恵ですよね? ガス灯だって石炭の排ガス燃やしてるわけだし」

「まぁ便利だけどねぇ……私も苦手かしらね。臭いし、デカいし、煙出るし……なにより、魔女の国としては情緒がないって言うか……それにしても詳しいのね?」

「元軍人なので多少は……それより、僕に何の用なんですか?」


 アンナ嬢について歩く内、段々と街の様子が変わってくる。裕福層が行き来する、明るく華やかな表通りから、薄暗く、ジメジメとした裏通りだ。どこの町にでもある貧民街や貧民窟と呼ばれる鬱蒼とした景観。さらに細い路地へ入れば、完全に街の裏側へと侵入してしまう。道の脇には新聞紙にくるまって眠る中年男性や、雪をつまむ痩せた子供の姿が見えるようになっていた。


「……実は、このヘンの子を一人雇いたいんだけどね、でも、その子が雇われたくないってダダこねるのよ。だから、アナタにちょっとシメてもらって、言うこと聞くようにして欲しいの」

「物騒な話ですね、お断りします。子供の喧嘩は子供同士で」

「だから子供じゃないっつってんでしょ!? お金なら払うから!」

「蓄えはありますので」


 自慢にもならないけれど、僕は遊びもせず真面目に軍人をやっていたお陰で、貯蓄がかなり有る。除隊してからというもの、この一ヶ月働いていない。暇を持て余した挙句に、ピロシキを作っている有様だ。


「ちなみに、ピロシキのお礼に百ルーブ貰えてるので、このまま働きたくないです」

「働けぇ!」


 唐突にアンナが翻る。鋭く僕の真横へ回り込み、痛烈な蹴りを背中へ打ち込んできた。全く予想しなかった一撃と意外なその重さに、僕は前のめりに体勢を崩し、運悪く……というか狙われていたのだろうか、そこは階段の上で、さらには雪に足を取られ、ツルリと滑ってしまった。

 段差も少なく、さほど高くない階段ではあるけど、転倒すれば顔面直撃コースだ。


「……よっ! っと!」


 グラグラとバランスを保ちながら、僕は危うく段差を踏みしめ階段を下りていく。軍で鍛えた体幹には自信があり、このまま下まで無事に降りることは可能だった。 けど、それは障害物が無かった場合だ。流石に人一人分を避けることは出来ない。


「……危ないどいて!」

「……は?」


 警告も間に合わず、僕はそのまま階段の下にいた赤毛の少年に衝突してしまった。


「……きゃっッ!」


 咄嗟に少年を強く抱きしめ、僕が下になるように身体を捻る。そのまま転倒して激しく右腕を打ち付けたが、幸いにも少し痺れる程度だ。

 それより、巻き込んでしまった少年と、先ほどの少女の声が気にかかる。


「ごめん、大丈夫だった? 怪我は……」


 背中から抱きしめた少年に声をかけ、ふと、右手が柔らかいものを握り締めていることに気づいた。


 ぐにょん、というか、ぷるん、というか……とにかく、とても柔らかい。


「あぁ……ああぁ、ぁあぁ……」

「……あぁ~」


 どうやら、少年ではなく少女だったらしい。

 服の上からわからないほど小ぶりではあるものの、それはしっかりと女性の肉厚と柔らかさを同時に誇り、僕の指を優しく包み込んでいる。男の性か、あるいはその、なんていうか……懐かしい感触に感極まり、思わず右手が勝手にぐにぐにと動いてしまった。


「ぎゃぁぁっぁあ――――ッッ!!」


 甲高い悲鳴とともに、僕の体は火に包まれた。

 比喩ではなく、高熱と赤い光を放つあの火だ。


 ライター程度の火力じゃない。死体処理にも近しい炎に包まれ、僕の視界は瞬く間に赤く染まった。


「なッ! 熱ッ! 熱ッ!」


 咄嗟に少女から離れて地面を転げ回り、壁際の雪塊に突っ込む。何が起こったのか分からないが、とりあえず火は消せたようだ。僕の体も思ったより火傷しなかったらしい。右手に幸せな感触が残っているほどだ。


「な、なんですか今のは!」

「こっちのセリフだヘンタイ! なにしやがる!」


 四方を壁に囲まれた裏街の広場に、僕と少女の声が響き渡る。そこへさらに加えて、アンナ嬢の声が割り入った。


「さぁ連れてきたわよ! 約束通り、そいつが勝ったら私に付いてきてもらいますからね!」

「あぁン?」


 響き渡るアンナ嬢の声に、赤毛の女の子が立ち上がって眉を歪める。


 背丈は僕の肩程度、アンナ嬢より大きいけど小柄には違いない。年齢は、十代半ばそこそこだろう。ナイフで乱雑に切ったのだろうか、雑草みたいに伸びた赤い髪に、薄汚れたシャツと工作服のズボンのみという彼女の出で立ち、折れそうな細腕や肩にいくつもある青あざ、そして、僕が連れてこられたという事実を加えて、僕は二つのことを悟る。


 裏街の住人たる赤毛の少女の職業……。

 そしてどうやら、僕は彼女の客として連れてこられたということ。


「いくらなんでも『喧嘩屋』に挑戦する理由なんて僕にはありません。子供の悪戯にしてはタチが悪すぎますよ!? お小遣いカツアゲされたのか知りませんけど!」

「だから私は子供じゃないってば!」

「言うつもりはありませんでしたが、その容姿と背丈で僕より年上を自称するには無理があります。貴族にして恩人なので敬意を持って接していますが、どう見ても貴方はお子様……」


 僕は雪の上に座り込んだまま、階段の上でふんぞり返るアンナ嬢を見上げた。

 その拍子に偶然にもふわりと冷たい風が吹き、アンナ嬢のスカートが浮き上がる。


 ……スゴいな。


「子供扱いしてすみませんでした、アンナ嬢」

「下着で判断すんな! いいから戦えぇ!」


 スカートを押さえるアンナ嬢に叱られつつ、僕は雪に濡れたお尻を持ち上げた。

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