魔女の国のトータ
坂本わかば
一章 魔女の国のトータ
第1話 アンナ嬢の来訪
アンナ・リュツィア・アクショーノヴァ嬢は、僕の恩人と言える人物だ。
一か月前、除隊して街で暮らすことになった僕は、住む場所に困っていた。
僕が配属されていた『北壁』という国境基地はすこぶる悪名高く、そこの兵士は揃って腕が立つ上に素行が悪い、暴力沙汰の種火となるのが常、というのが街の共通認識らしい。部屋を貸したがる大家が滅多といないのだ。その上僕は身元まで怪しいから、裏通りの軒下にでも居を構えるしかないかと、諦めかけていた。
その時に助けてくれたのが彼女だった。件の諦めを抱えたまま役所で住民登録をした僕は、窓口で紹介されるままに、地元の領主である彼女の元を訪れた。断られることを覚悟していたものの、彼女は快く自分の所有するアパートの一室を僕に貸してくれて、仕事の心配までしてくれた。蓄えもあるから、しばらく働くつもりはないと言うと、彼女は悪戯げな笑みを浮かべ、「私に厄介事を頼まれたくなければ、早めに仕事を決めることね」と言った。
今回のお話はそれから一ヶ月後、雪も溶け始めた春の半ばに彼女が僕の元を訪れ、正しく『厄介事』を持ちかけたことから始まる。
「失礼ですがアンナ嬢、その『パンナトッティ』というのは、お菓子か何かです?」
「あら、知らないの?」
アンナ嬢はコロリと首をかしげ、僕を見上げる。
背中まで靡く髪に、あどけない顔つきとクルリとした瞳、さらに背丈が十歳前後の子供と変わらないという、アンナ嬢は実に愛らしい人だった。年齢的には僕より年上のはずだけど、初対面では、本当に子供と間違えてしまったほどだ。今日はブラウスに膝丈のスカート、コルセットのような硬い生地のベストで腹部を縛る、この国では一般的な外出着を着ている。胸のふくらみや腰のくびれが服で強調されているため、子供に間違われることはなさそうだと、玉ねぎの皮をむきながら思った
「絵本読んだことないかしら? ほら『ヴォーヴァチカとイタズラ魔女』とか……」
「ありますが、あれは作り話でしょう? 今のお話を聞く限り、実在の人物から招待を受けたようにお見受けしますが」
「そのとおりだけど……彼女、貴族にしか浸透してないのかしら」
「パンナトッティ?」
「パンナトッティ」
どうやら、件のヘンテコワードは人名らしい。アンナ嬢はその某からパーティか何かの招待を受けたそうで、僕に護衛として付いてきてほしいとのことだった。
僕は玉ねぎを真っ白に仕上げ、他の食材を確認した。川魚が二匹と、パセリ、キャベツが少々と、馬鈴薯の買い置きや、昨日、牛串焼き(シャシリク)をした残りもあるけど、使うほどじゃない。香辛料が足りないけど、まぁ、婦人方に食わせるわけじゃなし、魚もあまり臭くないので、大丈夫だろう。
「ところでさっきから何してるのかしら?」
「ピロシキの餡を作っています」
「なんでピロシキ?」
「朝に自主訓練した後、やることもないですから」
「いや、アンタに料理番を頼んだ覚えはないんだけど……」
「よければ雇ってあげてください。独身男ばっかりなんで、食生活が乱れまくってるんですよ」
事の経緯を詳細に説明すれば、僕がいつものように……といっても、除隊してから一ヶ月間で身に付いた習慣だけれど、ともかくいつものように早朝自主訓練を終えた後、アパートの厨房で独身仲間向けの朝食を作っている最中、唐突にアンナ嬢が現れ、件の厄介事を僕に言い渡したという成り行きだ。僕が何故ピロシキを作りながら彼女と話しているか、ご理解いただけることだろう。
「話が逸れたけど、まぁ、知らないなら知らないでいいわ。後で説明するから。それより、悪いけど今すぐ来て欲しいのよ。急ぎで頼みたいことがあるの」
アンナ嬢は僕の裾を引っ張り、外へと誘ってくる。子供みたいな手に引かれる感触は心地よかったけど、あいにくと僕はピロシキを作りたかった。自主訓練の後に料理をするのが日課となってしまったから、これを中断してしまうと決まりが悪いのだ。朝起きて顔を洗わない感覚に近い。
「少し待って頂けませんか? 今は手が離せなくて……」
「どれくらい?」
「一時間程度かと……」
「却下、今すぐ」
スッパリと切り捨て、アンナ嬢は背伸びをして僕の襟首を掴んだ。身長差により、僕の首はガクリと後方に倒れ、シャツで首が絞められてしまう。
「はい今すぐ玉ねぎおいてぇ~、テキパキ行きましょ」
「待ってください、息が……何用ですか?」
「同じ件でね、ちょっと急ぎの案件なの。シめて欲しい子がいるのよ」
アンナ嬢は肩ごしに振り返り、キュっと親指で首を切る。物騒この上ない。
「子供の喧嘩なら他所でやって下さい」
「失礼ね! 大人なんですけど!」
「どっちみち私闘に助力するようなことはちょっと……」
「つべこべ言わないの。日当は出してあげるから、せいぜい働きなさい、無職なんでしょ? アンタ無職なんでしょ?」
二回も言うことないのに……
ともあれ僕はそのままアンナ嬢に引っ張られ、朝の街へと駆り出されてしまった。
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