裕翔の過去(2)

 

「健康状態、運動機能に問題無しっと」


 診察室。

 簡易的な診察用のベッドが置かれ、デスクの奥には治療用の器具が綺麗に並べられていた。


 裕翔の目の前に座る女医は、デスクに置かれたノートパソコンと対峙していた。

 どうやら、裕翔の現状を記録しているようだ。


「あのー、先生。この診察いつまでするんですか?」


 裕翔の言葉に気づき、その女医はノートパソコンから指を離すと、裕翔の方へゆっくりと体を向けた。


「あのね、裕翔君。何回も言ってるけど、先生じゃないでしょ!ちゃんと、美咲ちゃんと呼びなさい」


 その女医は、人差し指で裕翔を指差すと膨れっ面をしてみせた。


「あーもう!はいはい、わかったよ、美咲ちゃん。で、いつまで続けんの、この診察。ここ3年間、特に問題なんて無いじゃん」

「問題無くてもするの。亮ちゃんと約束したんだから。裕翔君が18歳になるまでは診察するって」


 そう言うと、その女医は再びノートパソコンに対峙すると、記録作業を再開した。


 その女医の名前は、白坂 美咲。

 整形外科医。

 優秀かつ美人女医ということで、テレビ出演を何度もしている有名人である。

 その影響から、美咲に治療をして欲しいという患者が後を絶たず、忙しい日々を送っている。


 そして、裕翔の叔父、白坂 亮平の妻である。

 いわゆる、美咲は裕翔の義理の叔母にあたる。


 6歳。

 小学校に入学する前日。

 裕翔は、大きな交通事故にあった。

 走っていた裕翔の横から、スピード制限を大幅に超えて駆け抜けてきた大型バイクと衝突し、小さな裕翔は硬いアスファルトの道路に叩きつけられた。

 幸い、一命は取り留めたものの、事故の影響により運動機能は著しく低下し歩く事すら出来ない状態であった。

 美咲の懸命な働きと裕翔が根気良くリハビリを続けた事もあり、体育の授業ぐらいの軽い運動ができるまでには回復したものの、運動系の部活に入る事は禁じられている。

 亮平のカフェでお手伝いをしているのは、リハビリの一環という事と裕翔にとっては部活の代わりになるものであった。


 また、その事故は、裕翔から運動機能の他にもう1つを剥ぎ取っていった。


 それは、事故以前の記憶である。


 裕翔の母いわく、事故にあった時、裕翔は涙を流しながら、いきなり家を飛び出したらしい。

 何が小さな裕翔を、そんな衝動に駆り立てたのだろうか。

 そして……その時、何で涙を流していたのだろうか。


 頭の中をいくら掘り出してもその答えは見つからない。

 月のクレーターのように、裕翔の記憶と心はポッカリと空いたまま……



「18歳までってなんでなの?亮平兄に聞いても全然教えてくれないんだよね」

「まあ、そのうち教えてくれるわよ。それよりも最近、何か変わった事は無い?事故の影響とか出てない?」

「特にないけど……夢の事で……」


 裕翔の言葉を聞いた瞬間、美咲は「またか」と言わんばかりに大きなため息を一つついた。


「何だっけ、砂場の夢?だっけ。確かに、裕翔君の無くした記憶の一部なのかもしれないけど、分からないんでしょ?それに、今は大切な友達が側にいるんだから、いつまでもその夢に縛られないで、今の自分を楽しんで、たくさんの素敵な思い出を作りなさい。それが事故から立ち直るための一歩よ」


 美咲は、真っ直ぐに裕翔の顔を見つめる。

 その表情は真剣そのものであった。


「でも、美咲ちゃん。確かに、朋也や葵と出会って、たくさん楽しい思い出を作れた。今でも作れてる。でもさ、俺にとって、その夢、いや、記憶の一部はとても大切なものかもしれないんだ!それに今はもう1つの夢を見るようになったし……」

「もう1つの夢?」


 それから、裕翔は美咲に校舎裏での出来事で見た光景の話をし始めた。


 そして、その場には全て栞がいたという事も。


 しかし、美咲は、興味無さそうな表情でノートパソコンの画面とにらめっこしながら、裕翔の話を流し聞きしていた。


 だが、ある裕翔の言葉で美咲が走らせていた指がパタリと止まる。


「俺、その子といると心臓がキュッと締め付けられた感覚になるんだよ」


 裕翔がそう言うと、美咲はゆっくりと裕翔の方へと向き直る。

 そして、美咲は裕翔の顔を覗き込むようにグッと距離を詰める。


「ちょっと、近いよ、美咲ちゃん」

「裕翔くん、それって……」

「それって……」


 美咲は、裕翔の顔を無表情のまま見つめ続ける。

 裕翔も、何を言うんだろうと体中に緊張が走る。


 裕翔が、ゴクリと生唾を飲み込んだ瞬間。

 美咲の閉ざした口が開く。


「恋なんじゃない?」

「えっ?」


 美咲は、無表情から一変、目をキラキラと輝かせて、興味津々といった表情をしていた。

 まるで、思春期の中学生女子が恋バナに華を咲かせている時のような表情だ。


「それ、恋だって!裕翔くん、それらしき話、これまで一切なかったから、私心配してたのよ。もう、本当に良かったわ」

「いや、美咲ちゃん。恋とかそんな感覚じゃないような気がするんだ……もっと大切な何かのようで……」

「もっと大切な何か!裕翔くん、そんなにその子の事、大切に思ってるの!いやー、もう甘酸っぱいわねー!私も亮ちゃんとはね……」


 すると、美咲は、亮平との馴れ初めを語り始める。


 もう、こうなったら止められない。


 美咲は、恋愛が絡むと、やたらと亮平との恋物語を話し、自分の世界へと入ってしまう。

 共感する声には耳を傾けるが、話を止めようとする声には耳を傾けない。

 亮平との恋物語は、気の済むまで話し続ける、やっかいな奴なのだ。


 裕翔は、「やれやれ」と言わんばかりに呆れた顔をすると、話が終わるまでゲームでもしようとスマホを取り出した。


 画面をつけた瞬間、裕翔は衝撃を受ける。


 時刻は11時50分を示していた。


 待ち合わせの時間は12時。


 ここから、遊園地までは30分はかかる。


 完全にに遅刻だ。


 そして、画面には病院の待合室で待つ日向からの「遅い!」メッセージが数十個も並んでいた。


「やばい!ごめん、美咲ちゃん!もう帰るわ!」


 自分の世界へ入り込んだ美咲に、「ごめん」と両手を合わせてポーズをすると、急いで診察室から出ていった。


 そして、病院の待合室に着くと、日向が深く眉にシワを寄せて、怒りに満ちた目で裕翔を見ていた。


「ごめん、日向!美咲ちゃんと話長引いちゃって!」

「もう、何やってんのよ!せっかく朋也さんとのデートなのに、お兄ちゃんのせいで遅刻とか最悪だよ!」

「本当にごめん!とにかく早く行こう!」


 裕翔と日向は、急ぎ足で遊園地へと向かったのだった。

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