目に移る景色の先に

 

「ここって……」


 裕翔の目前には、見慣れた建屋とダークブラウンの扉が映し出されていた。


 そう、ここは叔父が経営するカフェの店前であった。


 周囲を確認すると、新築の一軒家がまばらに点在し、建設途中の一軒家が青いシートに覆われていた。


 ずらりと並んだいつもの住宅街の景色ではない。


 裕翔は、首を傾げて再び扉に向き合う。

 すると、店内から誰かの笑い声が聞こえてきた。


 子供の愛らしい笑い声と大人の男の人の渋いが子供達を優しく包み込むような柔らかな笑い声。


 その大人の声色は、裕翔は聞き覚えのあるものであった。


「まさか」


 裕翔は、そう小さく呟くと扉の取っ手に手をかけた。

 そして、ゆっくり扉を引くと、オープンキッチンのスペースに懐かしい人物が見えて、裕翔は思わず言葉を失う。


 そこには、皺くちゃの顔をほころばせた裕翔の祖父がいた。


 何でじいちゃんが……


 裕翔の祖父は、裕翔が中学に入学する直前に他界した。


 そんな祖父が、今、裕翔の目の前にいる。


 嬉しい、悲しい、懐かしい、寂しい……


 裕翔の心の中には、色んな感情が渦巻く。


 裕翔は、子供の頃からおじいちゃん子であった。


 元々、祖父が経営していたこのカフェでは、祖父との大切な思い出が残されている。


 子供ながらにコーヒーの苦味と酸味の調和を思い知った事。

 一口飲んだ後、当時の自分には理解できない味に、舌を出してしかめっ面をしていた事。

 そんな様子を見ていた祖父がケラケラ笑いながら、頑張ったなと頭を優しく撫でてくれた事。

 美味しいコーヒーの淹れ方を教えてくれた事。

 コーヒーのお湯で火傷した時に、やたらと心配して手当てしてくれた事……


 裕翔は、祖父の姿を見た瞬間、走馬灯のようにコーヒーのような温かな祖父との思い出が蘇ってくる。


 じいちゃんと話したい。


 裕翔は、祖父の元へと歩み寄る。


「じいちゃん、久しぶり」


 声をかけるものの裕翔の祖父の反応は全く無い。

 何度も声をかけても、こちらに振り向く事すらなかった。

 ただただ、祖父は優しい笑顔を右隣の方に向けている。


「何で無視すんだよ!なあ、じいちゃん!」


 大声を張り上げても、祖父には裕翔の声が届いていない。


 裕翔は、ふてくされた表情で祖父の視線の先を追った。


 その時。


 裕翔は、自分の目に映った光景に衝撃を受ける。


 そこにいたのは、子供の頃の裕翔の姿。

 そして隣には、いつもの夢で出てくる愛らしい小さな女の子の姿が見えた。

 頬に白い粉がついていて、そんな姿をお互いに確認し合って笑い合っている2人の姿。


 何で、この子がここに……


 裕翔の頭の中はパニックに陥る。

 開いた口が塞がらない。


 "チーン"

 オーブンレンジのの甲高い音が鳴り響く。

 音の合図と同時に、裕翔の祖父はベージュ色のミトンを両手にはめると、オーブンレンジの中から何かを取り出し、裕翔達の目の前に置いた。


 そこには、クッキングシートの上に置かれた、一口サイズのクッキーであった。

 綺麗な丸型のものもあれば、形がいびつなものもちらほら見受けられた。


 いびつなクッキーを指差して、再び笑い合う2人。


 少し冷めるのを待ってから、二人は嬉しそうにクッキーを頬張る。

 二人とも幸せな表情を浮かべている。


 すると、隣の女の子が裕翔に恥ずかしそうに話しかけてきた。


「シロくん、このクッキー食べて」


 女の子が手渡したのは綺麗な丸型のクッキーであった。


  「なんでー?アオちゃんが頑張って作ったクッキーでしょー?アオちゃんが食べなよ」

「違うのー!これはシロくんに食べて欲しくて一生懸命作ったんだよ。だから、食べて」

「うん……分かった」


 小さな裕翔は、クッキーを受け取ると一口で食べた。


「おいしいよ」

「ほんとに?ほんとにおいしい?」

「うん。ほんとにおいしいよ!」

「うれしいー!じゃあ、今度もシロくんのためにクッキー作ってあげるね」


 女の子は、はち切れんばかりの笑顔を小さな裕翔に向けたのだった。


 その瞬間、パッと景色が移り変わった。


 目の前には見慣れた校舎裏の光景。

 どうやら、元の場所に戻ってきたようだ。


 あの光景はいったい……


 裕翔は、遠くの方を見つめ、先ほどの光景を思い出していた。


 すると、ブレザーの裾を上下に揺らされているのを感じ、ふと斜め下を見やった。


 そこには、心配そうにこちらを見つめる栞の姿が見えた。

 そして、栞のもう一方の手には水色のハンカチが握りしめられている。


「これ使ってください」


 栞が、水色のハンカチを裕翔に手渡す。

 裕翔は、ハンカチを渡された意味が分からず、不思議そうに水色のハンカチを見つめる。


「涙、それで拭いてください」


 栞の言葉に、裕翔は耳を疑う。


 涙?そんな訳……


 恐る恐るそっと右手で頬を撫でる。

 すると、右手には濡れた感触が。

 左手でも確認するが同じであった。


 何で涙なんて流してんだろう、俺。


 裕翔は、手渡されたハンカチで目元を拭う。

 水色のハンカチの一部が濡れて、濃い群青色に染まる。


「大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。ハンカチありがとう。洗って返すね」

「これぐらい大丈夫ですよ。それよりも何故泣いているのですか?」

「何でだろう?綾瀬さんのクッキーが飛びっきり美味しかったからかな」


 裕翔は、軽く歯を見せて栞に笑って見せた。

 すると、栞は、照れくさいのか、少し俯きながら

「ほんとに?」

 と尋ねてくる。


「うん。ほんとに!」


 裕翔は、栞の真っ直ぐに見つめて答える。

 裕翔の答えを聞いて数秒後。

 栞は、ゆっくりと顔を上げ裕翔を見つめる。


「うれしい」


 言葉と同時に、はち切れんばかりの笑顔を裕翔に向ける栞。


 その瞬間、さっきの女の子の笑顔と栞の笑顔が合わせ鏡のように裕翔の視界に重なっていく。


 心臓のあたりがキュッと締め付けられる。

 あの時のカフェで感じたものと同じ感覚。


 裕翔は、そっと胸に手を当てると、栞の笑顔に返事をするようにニッコリと笑って返した。


「綾瀬さん、一緒に帰りませんか」

「はい」


 夕日が沈みかかった空は、徐々に濃い群青色へと染まっていく。

 まるで、涙を拭った時のハンカチのように。


 最終下校時間のチャイムが鳴り響く。

 チャイムの音色は、二人の帰り路をそっと包み込んでいく。


 それは、二人のこれからを暗示しているかのようであった。

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