お返し

 

 どうして……綾瀬さんが……?


 裕翔の頭には、シンプルな疑問が浮かんでいた。

 あのカフェでの出来事以来、裕翔と栞は挨拶すら交わしていない。

 何せいきなり栞がカフェから走り去っていくという幕引きであの日は終わったのだ。

 気まずさで話せないのは当然なのに……


 栞からの言葉を待つ裕翔。

 裕翔からの言葉を待つ栞。


 2人の間を沈黙が流れる。


 さっきまで美しく聞こえていたグラウンドと校舎からのハーモニーも、今は、「話しかけろ」と煽っているようにしか聞こえてこない。


 だが、このままの状態では何も始まらない。

 とにかく、ここに呼び出した理由を聞かないと。


 裕翔は、拳をギュッと握りしめる。

 そして、意を決して栞に話しかけた。


「綾瀬さん!」

「はい」


 裕翔の上ずった声を不思議に思ったのか、栞は小首を傾げていた。


 理由をちゃんと聞かないと。聞かないと……

 

 心の中の裕翔が、裕翔の口元を急かす。


 そして、裕翔が再び口を開く。


「空、好きなんですか?」


 意図したものとは全く関係の無い言葉が発せられていた。

 裕翔は、思わず顔が紅潮してしまう。


 裕翔の反応に、栞はクスッと笑い、軽くはにかんだ。

 栞の反応に、余計に顔が紅潮してしまう裕翔。


 栞は、はにかんだまま裕翔の質問に答える。


「ええ、好きですよ、空。青く澄みきった青空と様々な形の雲。雨が降るのを予言させる淀んだ曇空。夕日に照らされて綺麗な茜色に染まる夕空。遥か遠くの星々が点在して、幻想的な世界を作り出してくれる夜空。空って色んな様相を私達に向けてくれて、好きなんですよね。その様相が、私達の一日、いや、一瞬を導いてくれているようで」


 栞は、オレンジ色の空を見上げる。

 夕日に照らされた彼女と花壇に咲く色とりどりの花々。


 美しい光景に裕翔は思わず目を奪われる。


 しかし、栞は空を見つめる目にどこか寂しさを含んでいた。


 栞は、しばらく空を見つめると、再び裕翔の方に顔を向けた。

 

 裕翔は、ハッと我に帰る。


「あのー、俺も好きなんです、空!綾瀬さんみたいに上手く言葉には出来ないけど、綺麗な青空を見るとその日良い気分で乗り越えられるし……淀んだ空は……何て言うかその……」


 裕翔のしどろもどろした話ぶりに栞は、クスクスと再び笑い始める。


「分かりましたよ。白坂さんは、とにかく空が好きって事なんですよね」

「はい、そういう事です……」


 裕翔は、自分の表現力の無さにガックリとうなだれる。

 そんな裕翔の様子に、栞の笑いは止まらない。


「白坂さん、やっぱりおもしろいですね。色んな表情持ってて。まるで空みたいで!」

 

 やっぱり?


 裕翔は、栞の言葉に引っかかる。


「やっぱりって……?」


 裕翔の問いかけに、栞は間違えに気づいた子供のような表情をした後、なぜか焦った声で裕翔に答える。


「あっ、白坂さんをクラスで見ていて、そんな感じの人なのかなーって勝手に思ってて」


 栞は、ぎこちない笑顔を裕翔に向ける。


「そういう事なんですね!何だ、前から俺の事知ってるのかと思いましたよー!」


 裕翔は、照れ臭そうに笑う。

 カフェでの出来事以来、会話すら無かったのに、自分を見ていてくれた事に嬉しくもあり、小っ恥ずかしくもあった。


「あっ、そうだ!」


 何かを思い出したかのように栞が突然大きな声を出す。

 裕翔は何事かと思い、キョトンとした表情で栞を見つめる。


「呼び出したのは訳があって……」


 そう言うと栞は、傍に置いていたカバンの中から何かを探していた。

 そして、探した物を裕翔に手渡した。


 裕翔が、手渡された物に目をやると綺麗に畳まれた水色のタオルであった。


「これって……」


 裕翔が、水色のタオルを見つめながら呟く。


「先日、貸してくださったタオルです。あの時は、本当にありがとうございます。あっ、ちゃんと洗濯もしてありますからね」

「いえいえ。それは良いんだけど、何でここなの?教室で手渡しても良かったんじゃない?」

「なかなかタイミングが無かったというのもあるんですが、みんなから注目集めると何かと面倒な事になるのかもと思って」


 栞の気遣いに、裕翔は、なるほどと言わんばかりに首を小さく縦に振り納得する。


「それに……」


 栞は、再びカバンの中に手を伸ばし、何かを取り出した。

 栞が手にしていたのは、水色の袋で白いリボンでラッピングされた小袋だった。

 

「タオルを貸して頂いたお礼にクッキーを焼いたので。良かったらどうぞ……」


 栞は、右斜め下に顔を向け、恥ずかしそうに裕翔に小袋を手渡した。


「そんな、大したことしてないのに。わるいよ」

「いえ、ぜひ受け取ってください!私がお礼をしたいと思って勝手に作ったんです!」

「いや、でも……」

「いいから受け取ってください!」


 裕翔は、それじゃあと栞に根負けして水色の小袋を受け取る事にした。

 栞は、俯き気味だが、頬がほんのり赤くなり、口角が少し上がっているのが裕翔の視界には映っていた。

 

「水色の袋に、白色のリボン。空色で綺麗だね」


 裕翔の問いかけに、コクリと頷く。

 

「綾瀬さん、せっかくだし今食べてもいい?」

「今……ですか?」

「うん、今」

「今は、ちょっと恥ずかしいというか……」

「そっかー」


 裕翔は、少し残念そうな声色で言うと、肩に掛けていたカバンの中にしまおうとした。

 その時、栞が俯いていた顔を一瞬上げ、裕翔と目が合う。

 そして、再び俯くと、小さな声で

「1つだけなら……お口に合うか分からないですが……」

 と言った。


 裕翔は、その言葉を聞いて、「本当に?」と嬉しそうな表情をして聞き返すと、栞は再びコクリと頷いた。


 裕翔は、クリスマスプレゼントを開ける時のようなワクワク感でリボンを解き、袋の口を開けた。


 開けた瞬間、甘いバターの香りが鼻を刺激し、ますます食べたい衝動が膨らんでいく。

 中のクッキーは、丸い形をした一口サイズのシンプルなものであった。


 裕翔は、袋の中からクッキーを1つ取り出すと、口元へと運ぶ。

 

 そして、クッキーを一口。


 その瞬間、裕翔の目前に何か違う景色がパッと浮かび上がったのだった。

 

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