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皇帝の背に手を入れた影人は前進し、ソファーの背もたれに重なって立っている。


帯電させたミョルニルを振り上げるトールの腕に、司祭の砕けた腕の袖から伸びる 黒蔓が巻き付く。

皇帝に手を伸ばしたが、藍のローブの肘に胸を打たれ、影人は座っている皇帝に重なり立った。


歩を進める影人は、皇帝の膝に上半身を預けるロキも通り抜け、形を変えていく。

フードを被ったローブ姿の影... 司祭ソゾンだ。

胸の位置に、より暗く凝った影が鼓動している。


司祭に重なり立った影人は、すうっと暗色を薄れさせ、司祭に吸収されるように消えた。


やられた...  四層と五層の鍵も...


ルカが赤い雷を喚び、司祭の袖からトールの腕に巻き付く黒蔓が赤く光る。

ミョルニルから発された青白い雷光が弾け 黒蔓は焼き切れたが、司祭がフードの中に光る青銀の眼を向けると、ミョルニルを持つトールの腕に氷が張り始めた。


司祭の腕から 白く揺らめく炎が解け昇り、空中で霧散した。

朋樹が伸ばした赦しの白い蔓がチリチリと燃え落ちる。


司祭は、もう用は済んだ と言わんばかりに

皇帝やロキ、麦酒の瓶にも目をくれず

神殿に向いて歩き出した。


六層の鍵を持つ女を連れて、神殿から夜国へ戻られたら...  今、何とかしねぇと


白い焔を浮かせた右手で、司祭の肩を掴むと

ガラスを掻くような音が身体中に響いた。

腕を伝い、肩まで 骨に電気が走るような抵抗を受ける。


司祭のフードの中の顔が 肩の手に向き、不快な音の中に “ニエ” という言葉が混ざった。

意識がオレに向いた と分かると、戦慄が走り

ドッ と大きく鼓動が鳴った。せながら肩から手を離す。


今のは、ソゾンの声じゃなかった。

夜国の司祭の声なら、四郎を狙ってるのか?


右腕を上げたが、待て という言葉が口から出ず

足も動かない。

歯の根が合わず 膝が震えている。怖い

けど なんで急に、ここまで恐れを感じるんだ... ?


司祭が向かう先には、大いなる鎖を引き、身を起こそうとしている女に剣の先を向ける ミカエルと

シェムハザ。

血肉が燃え尽き、残った骨を抱く四郎。

青銀の眼の人たちが、骨と四郎を見ている 。


地面に両手を着け、半身を起こしたリリトの横を通り過ぎた時に、司祭の足の下に白い助力円が浮き出した。

「助力、ミカエル」と、ボティスの声。

シェムハザが指を鳴らすと、リリトの下に 青い防護円が浮き出す。


「神の光」


助力円から光が立ち上がり、藍のローブの背中に

背骨の輪郭が、火の色に発光して浮いた。

胸の中には、左右対称になった 二つの心臓。

アバドンの背骨と復讐者アラストールの心臓だ。

司祭自身の心臓が光ったのは、審判者ユーデクスの鍵があるからだろう。

一層から三層の鍵も、こいつが持っている。


ミカエルの助力は、罪を犯した悪魔を斬首するが

司祭は何事もなく歩いて行く。

アバドンの骨や地獄ゲエンナの鍵と違い、助力の光が認識しないようだ。


「... 内からだけで無く、外からも」


肋骨や背骨の幾つかを抱く四郎は、目の前に零れた骨に眼をやり「燃えてしまわれた」と言った。


四郎の言葉で外側からも燃えたのなら、影人が融合した夜国の人たちは、人間と見做されていない。

影人という異界のものが融合したというだけではなく、悪意キュベレの影響下にあるからだ。


対して、ミカエルの助力に斬首されなかった司祭は、ヴァン神族の身体と半魂を持っていることで

天使に対抗が出来るのか、御使いであるミカエルの力を凌ぐか だ。 勝ち目は...


「何故、この様な事を?」と、四郎が 歩み寄る司祭に聞く。


「自ら選んで 夜国の民となられたのではない。

何方どなたも ただ灰となる必要など... 」


『そちらが選別したのだろう? 愚かな神々よ』


選別... リリトの印の事だろう。


完全ひとつとなるか、幾度も個として 肉に囚われるせいを繰り返させるか』


骨と四郎を見ていた青銀の眼の人たちが

一斉に湯気や煙を上げ、熱に肌を赤く染めるが

司祭は、この人たちのことではなく

影人と融合しなかった人々の方を憐れんでいる。


地上こちらで肉体が滅ぼうと、完全となった者には

終わりはない』


夜国は、霊的な世界なのか?


ゾロアスター教の善神、アフラ=マズダーが

“時” が 始まってから世界を創造したことがかする。


アフラ=マズダーは、天空と水、大地と植物、動物や人間を創造したが、それらは最初 霊的な存在で

動かず 目に映らず、触れられもしなかったので、物質的なものに変換する。


天空を宇宙殻で覆い、中に水を入れると

平らな大地を浮かべる。

大地に植物と動物、人間をおき、最後に火を造ると、火は すべてに、生命と運動をもたらした。


物質的なものになったから、破壊が出来る。

アフラ=マズダーと対立する雲、悪を選んだアンラ=マンユは、創造された世界を破壊した。


「何を 言うておられる?

個人の意思の剥奪が、永遠である と?」


四郎が呆れた眼で 司祭に問いを重ねると

骨と四郎を見る人たちが「熱い... 」「苦しい... 」と、言葉と共に口から火を吹き出した。

熱気と煙。肉が焼ける匂い。


『繰り返させるか?』


「助けて... 」と 手を伸ばす人々から炎が上がる。

これを言わせているのは、女かキュベレか、司祭だと分かっていても、四郎が言葉を失う。

動かず、互いが目に映らず 触れられもしなくても

霊的な世界でなら、破壊は起こらない。


ヴゥン... と唸るチャクラムが、炎に巻かれる人たちを切断する。

胸の中の何かを打ち払われた気がした。

浅黄に打たれた時のように。


「生きるとは、思うことだ」


神殿の上から、ヴィシュヌが言った。

ハティが、ヴィシュヌの背後で胡座をかいているが、呪力を奪われたせいか 力なく見える。

あんな姿を見るのは初めてだった。


血に塗れ、水銀を流す白い眼で 四郎を見上げていた女が、神殿の上に顔を向けている。


「ただ在る ということが、生きることじゃない。

それを知るための肉体だ。

他者の存在がなければ、何を思うこともない。

肉体のなかで培われる精神や 思いこそが不滅のものだ」


神殿の入口の中、暗がりに立つキュベレの身から 黒骨の大蛇が伸び上がり、ヴィシュヌに牙を剥いた。

エデンの門から飛び降りたザドキエルが 大蛇の額に剣を突き立て、地を蹴るレミエルが 黒くうねる背骨に剣を突き立てて炙る。


『鍵を』


女に手を差し出した司祭の喉を、ミカエルの右手の剣が突いていた。


音を立てて飛ぶチャクラムが、ミカエルの剣に追突し、刃を深く差し込む。


「六層の鍵は、恩寵グラティアの魂と共に

娘に結びついている」


シェムハザが、女を抱き上げ

「鍵を取り出すには、娘を滅するしかない」と

歩き出した。


「娘が滅されれば、六層の鍵は 他の鍵を持つ者に引き寄せられる」


歩く先には、泥濘の防護円の上に 腰を着けたままのリリトが、シェムハザと女を見上げ

「冗談じゃないわ... 」と 声を震わせている。


「この女を、護れ というの?」


六層の鍵を取らせないためには、女を護るしかない。

恩寵グラティアは、母親リリトに これを託そうと...


司祭が、喉に突き立てられた剣の刃を握り

ぐっ と 顔の方へ押している。

後頭部まで突き刺さったように見えた刃は、藍のフードの中から 司祭の顔の前に顕れた。


ミカエルが左手に握る鎖が 神殿から強く引かれ

刃を離した司祭が消える。

リリトの前に女を降ろしたシェムハザが、顕れた司祭に弾き飛ばされ、司祭の袖から伸びる黒蔓が

女の首に巻き付く。


黒蔓を握ったリリトに、司祭は

『必要なのは鍵だけだ。息子の魂は解放する』と

交渉めいたことを言っているが、リリトは黒蔓を引き抜いて千切り、唾まで吐きかけた。


「リリー... 」


ため息混じりに声を掛けた皇帝に

「ええ、反省するわ!」と 返したリリトは

モルダバイトの眼で 憎しみを込めて女を睨む。

「こんなことになるなんて... 」と

乱暴に女の腕を引き、両腕に抱き締めた。


司祭に弾かれ、泉に落ちたシェムハザが 指を鳴らし、リリトと司祭の間に 水の膜を作った。

ボティスが黒いルーシーを吹き、水の膜に助力円を描く。


「助力、パイモン。禍の炎」


水の膜は司祭に倒れ掛かり、敷かれた助力円から

炎の竜巻が巻き上がるが、暴れ狂う大蛇が ヴィシュヌを泉に叩き落とした。

竜巻が解け消え、司祭がリリトを蹴りつける。


女を離さないリリトの首に黒い蔓が巻き付いた。

リリトごと黒蔓で引っ張り起こした女の額を 司祭が掴み『許せ』と言っている。

リリトが、片手で司祭の手首を取ったが

その手の甲から肩まで まっすぐに赤い線が走り

皮膚が切り裂かれた。


赤い雷が、司祭の下から突き上がり

藍のフードの中にソゾンの顔を浮き上がらせる。

青白く光るミョルニルが司祭の腕を打ち、女の額から手を外させた。


トールを振り返ると、凍りついた腕が溶けている。

あわぁ あわぁ というような、独特の泣き声が耳に届き、ソファーまで振り返った。


赤ちゃんだ...  身体が浮いたようになる


ジェイドが立ちはだかっているが、紅葉の赤が散り、桜の花片が ひらりひらりと降る中で

榊が 赤ちゃんを、ロキの胸に抱かせた。

胸に何かが起こる。

赤ちゃんを見たロキの表情かおは、たぶん 一生忘れないだろう。


「良くやった」


皇帝が、腕の中のロキと赤ちゃんに言い

ロキの髪に口づけた。

皇帝の声に反応し、泣き止んだ赤ちゃんが ロキの胸に頬をつけたまま、皇帝を見上げる。


げろ」という、皇帝の声。

ジェイドと榊が、何かに気付いたように

ソファーの両端に分かれて後退った。

赤ちゃんとロキの前に、白い靄が凝っていく。


白い靄はトールの横を通り過ぎ、オレの前も通り過ぎていった。

進むたび、次第に女の形に象られていく。


『ソゾン』と、女のかたちをした靄が声を発した。

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