144


藍のフードの中の顔が、こちらへ向いた。

白い靄の女は、司祭の視線を受けて色づいていく。


青い花と共に編み込まれた白金の長いウェーブの髪。

白い肌の身体を包む薄絹に、完璧な曲線のラインが透ける。その背中の息を飲むような美しさ。

背筋の奥に、拍動する黄金の心臓。


『グルヴェイグ... 』


司祭の意識が、水銀の涙を流す女から離れ

リリトの首に巻かれていた黒蔓が 緩み解けた。


突如、悲鳴のような響きが神殿や地面を揺るがす。

ミカエルが左手に握る鎖も 音を立てて揺れ

神殿の入口から鎌首をもたげていた大蛇が、色づいた女に 牙を剥いて襲い掛かる。


「もう、ムダよ」


大蛇を見上げるリリトが「ハゲニト」と呼ぶ。

神殿の上、ハティの隣には、シェムハザが立っていた。

青い炎の魂を分け与えられ、周囲に畏怖を抱かせるものを発散しているハティは、胡座をかいたまま 右腕を前に出し、手のひらを大蛇に向けた。


大蛇の黒骨全体が 一気に赤黒く燻り、ガゴッと硬い音を立てて白い粉になると、ハティが息を吹き

跡形もなく消しさる。

だが大蛇を造っていた呪力は、神殿の中に跳ね返った。身を打たれる鈍い音に、鎖が引かれ伸びる音が重なる。


グルヴェイグ と、呼んだ女に向いている司祭の身体から、陽炎のように揺らめく ソゾンの半魂が抜け出した。


『あなたに 会いに戻ったわ』


黄金の心臓を持つ女の 胸を潤すような声。

陽炎の腕が女を抱きしめる。

白金の長い髪の中にターコイズの眼、黒いケープコートの肩、黒いパンツやブーツが顕れていく。


ソゾンのブーツの下で、泥濘が霜の音を立てた。

足元から冷気が上がり、黒いブーツに氷がついている。

氷はブーツを包み込みながら膝から腿に上がり

ソゾンの半魂を凍らせていく。


... “ソゾン”


神殿から、咎めるような女の思念が発せられるが

ソゾンは腕の中の女しか見えていない。


『私は、ロキから生まれたから... 』


腕の中の女の 黄金の心臓が燃える。

冥界ニヴルヘルには、行けないようね』


... “ソゾン” と、すがるような思念が木霊する。


『構わないよ』と、胸まで凍ったソゾンが

腕の中の女に口づけた。


背に細い腕を回す女の炎に、ソゾンが溶けていく。ソゾンの腕の中で 女も消えていく。


ひとつの塊のようになると、蒸気となって

二つの魂は消滅した。



「キュベレ... 」


ミカエルの声で、今 居る場所に意識が戻された。


神殿の入口に、女が立っている。

波打つブロンドの長い髪。

リリトと同じ モルダバイトの虹彩の眼。

どこかしら、さっき見たグルヴェイグと似た空気を持っている。

ソゾンが着せたのか、薄絹の天衣のようなものを身に着け、足は裸足。右腕に絡んだ大いなる鎖。


「やっと油断してくれた」


神殿から 男の声がした。

キュベレの首には、ゴールドの 弧を描く鎌のような刃が回り、宛がわれている。


「もう 一歩、前に出て。

じゃないと、俺が見えないからさ。

どうせ 麦酒の瓶 回収しないと、夜国には戻らないんでしょ?」


ヘルメスの声だ。


「出ないよねぇ...

でも 押されたら、首がヤバいのは分かる?」


ミカエルが、一応「ヘルメス?」と聞くと

「そう! 声でわかった? それか三日月鎌ハルパー

いや、ケリュケイオンって十字架の代わりだったでしょ?

ロキと四郎の卵儀式の時には、もう用無しだったから、神殿に放置されちゃってて。

俺も神殿に潜んでたんだけど、奥と両脇の壁から

いきなり、地獄ゲエンナの悪魔とか夜国ニビル人とか、ソゾンに娘と、キュベレまで出たり入ったりで、もう なかなか動けなくってさぁ。っていうか、みんな

俺の事 忘れてなかった?」と、喋りまくった。


「何で、キュベレを捕まえられてるの?」


泉に身を起こしていた ヴィシュヌが聞いた。

大蛇に叩き込まれた割に、ケロっとしている。

「大丈夫なんすか?」と聞いた 朋樹に

「あぁ、俺? うん、大丈夫だよ。

シェムハザに、神殿の上に移動してもらいたかったから、大蛇の気を引いたんだ」と微笑った。


「いや、この人を捕まえてんのは、俺じゃなくて

三日月鎌ハルパーなんだよね。

さっき、誰かに何かあったでしょ?

光の粒が流れ込んできて、三日月鎌ハルパーに溶け込んでさ」


恩寵グラティアほどけた粒だ...

思わず リリトに眼をやると、女の前に 赤く裂けた腕を出し、無言で司祭を見上げていた。


司祭は、フードの中の顔を こちらに向けたままだった。何故か、オレを見ているように感じて ゾッとする。

ソゾンの半魂が抜けてからは 動いていないが

近くに立っている四郎や ミョルニルを握るトール、泉に居るボティスや、神殿の上からはハティも、司祭を注視している。


三日月鎌ハルパーを握ってたから、すぐに分かった。

光の粒の正体は、根源だよ。愛そのものだ」


リリトの唇から 力が抜けた。

恩寵グラティアが遺したもの。

それに、聖父が手ずから造り、いのちを吹き入れ

愛した人間アダムとの子だ。

自分の根にあり、また これまでにリリトや周囲から受けた愛を遺したのだろう。


「何度か、強烈な呪力の跳ね返りや炙りを受けてたせいもあるけど、ソゾンの半魂も滅されたのかな? さっき、ソゾンを神殿に戻そうと呼んでた時に、背後に近付く隙が出来てさ。

三日月鎌ハルパーを首に回すと、呪力を感じなくなったんだ。光の粒に押さえられて... 」


「そのまま」と、ヘルメスの話を遮るように

リリトが声を出した。


「刈ってしまえばいいわ。

首と胴体を離そうが、消滅しやしないわよ。

その女を消滅させられるのは、七層の滅びの焔だけ。でも、出来る事は 今よりずっと減るわ」


「神殿から、出るんだ」


リリトの意見には答えず、ミカエルが キュベレに命じる。

「うーん... 聞かなきゃ、リリトの言う通りにするかな」と、ヘルメスが三日月鎌ハルパーを軽く引いた。


「結局ね、あんたはグルヴェイグの代わりだったのよ。触れる事が出来る 愛した女の似姿。

あぁでも、術でたらし込まなきゃ 代わりにもなってなかったかもね。

ソゾンに限らず、皆そうでしょ? 愛されない。

誰からも 芯から求められることはないのよね。

特に父には。要らないから抜いたんだしね」


「リリト」と ミカエルがたしなめる。

リリトは、女... 妹には、“あなた” って言ってたよな? 母親キュベレには、“あんた” なのか...

何か引っ掛かるけど、何なのかは わからねぇ。


「誑し込んだところで、グルヴェイグが戻れば

ソゾンを取られる って事は分かってたのね。

ソゾンを取られた事で、あんたの計画が狂った って事かしら?

夜国の司祭は もう、あんたの意のままに動かせないんでしょう?」


裸足の足が、神殿の外の泥濘を踏んだ。

背後に 三日月鎌ハルパーを握るヘルメスも見える。

無事で良かったよな... 忘れてたけどさ。


陽光の下に見るキュベレの顔は、リリトとも似ていた。

緩いカーブの眉に整った長い睫毛。

リリトと違い、色は薄いブラウンだが、眼は同じだ。高すぎず通った鼻筋や 柔らかそうな唇。

リリトにあるような棘を感じない。

大人ではあっても、下手するとリリトより幼く見える。

あれだけの呪力を持っているようにも見えない。


ミカエルの左手が握る 大いなる鎖は、キュベレの右腕に巻き付いているが、カチャ カチリ と音を立てて、巻き付いた右腕から鎖の端が伸び、肩から背中にも巻いていく。


キュベレは、ミカエルやリリトには目もくれず

女を見て、唇を動かした。

女は、肌に黒い血管が浮かせ、水銀の涙を流し続けながら 司祭を見上げると、リリトの腕の下から

藍のローブを引いた。


「何をしているの?」


リリトが女の腕を取ったが、司祭のフードの中の顔が 女に向く。


「半魂は失われても... 」と言う 四郎の前に、ヴィシュヌが移動した。司祭と女から離している。


「骨や血肉は、ソゾンのものでは?」


あ... と、四郎が 蘇りだということを思い出す。

四郎の場合は、骨と霊が四郎本人のものだ。

けど、現代の食事や、見たことがないものにも

すぐに慣れるのは、分けられた血肉の持ち主たちの記憶があるからだ。遺伝子の記憶なのだろう。


「此れまでどうりとは いかぬ とあっても、司祭にも、自身の妻や娘である という認識は御座いましょう」


司祭の霊... 影人も、ソゾンの肉体と共にあった。

司祭本人も、自分の妻子と認識していても おかしくない。

夜国の司祭としてだけ動く訳ではなく、キュベレの言うことを聞く... という可能性はある。


待てよ...  影人には、自分の意思がない。

“完全” というヤツの手足か細胞みたいなものだ。

でも司祭は、“完全” ではなく、ソゾンの意思に左右され、ソゾンとして動いていた。

少なくとも オレらが知る限り、地上では。


女に向けている 藍のフードの中の顔は

今、ルカが喚ぶ赤い雷に突き上げられても

影人のように 真っ黒で、中身が何も無いんだろうか?


これまではソゾンとして動いていたのだとしても

どうしてか、司祭は 他の影人とは違うような気がしてならない。“個” という印象が強い。

“完全” という夜国の神とは別の意思を持っているという気がする。


『儀式を』


司祭の声に、ガラスを掻く音が混ざる。

どこかで聞いた声だ。


「何か言ったのか?」と聞かれ、トールを見上げた。司祭と女を見ながら

「破裂音がしただろう?」と また聞いている。

声は 聞こえなかったのか?


「“儀式を” って... 」


そう答えると、ミカエルが

「四郎、エデンへ」と命じたが

オレらの周囲や泉の前、神殿までの炭化した赦しの木々の合間にも、無数の影人が立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る