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なんで、恩寵グラティアが...


神殿から出て来た 青銀の眼の人達が、泉へ向かっている。

獣を... と 頭のどこかで考えながら

女の前に倒れた恩寵グラティアが、光の粒となって

さらさらとくうほどけ消えていくのを見ていた。


「リリーの 最初の息子だ」という 皇帝の声。


“最初” の?  なら、アダムの...


「再度、大蛇キュベレの攻撃を受けていれば

リリーは、消滅する恐れがあった。

大蛇あれは ハゲニトの呪力を吸収していた」


「母親を 庇ったのか?」


ゆらりと立ち上がる リリトの背中を眼に写しながら、ジェイドの声を聞く。

恩寵グラティア” と 名付けたのは、リリトなんだろうか?


皇帝が、ジェイドに頷いたのかどうかは分からない。

「六層の鍵は、女に渡った」と 聞いて

なんで、母親リリトではなく 女に... と、恩寵グラティアの真意も

わからなくなる。

一層から三層の鍵に加え、六層の鍵... 四つの鍵が

向こうへ渡った。


左腕の大いなる鎖を引き、女に剣の先を差し向けている ミカエルの隣に立ったリリトは

もう半分になった恩寵グラティアの光の粒に 見惚れたようになっている。


ほとんどが解けると、突然 激高し

立ち昇る光の向こうに居る女に掴み掛かった。


白く焼けた眼から水銀を流し続ける女は、リリトの両手に首を掴まれ、麦酒の泥濘に腰を着いて倒れた。

黒いドレスの左のスリットから 血泥が付いた腿を剥き出し、女に馬乗りになって泥濘に膝を着けた リリトは、腕に体重を載せ、押し潰すように女の首を絞めつけている。


「リリト」


左腕の肘を引き、鎖を引きつける ミカエルが

「俺が」悪い... と言い掛けると

リリトは 言葉を遮り、自分の下にいる女に

「返しなさい!」と怒鳴った。


「あの子の魂を... 許さないわ!!

返すのよ 私に!」


恩寵グラティアの魂を取ったのは、大蛇キュベレなんじゃないのか?

大蛇に喰らい付かれて倒れた。

けど リリトは、女が恩寵グラティアの魂を飲んだと確信しているようだ。


... 恩寵グラティアは 大蛇にやられる前に、女の頭に手を載せていた。

あの時に、自分の魂を 女に渡したんだろうか?


ジェイドが遠慮がちに「鍵の ことなのか... ?」と

皇帝に聞くと、長い息を吐き出すロキの上半身を

組んだ脚の膝と腕で抱き支えている 皇帝は

「リリーが言っているのは、あくまで息子の魂の事だ」と、ロキのブロンドの髪を指で撫でた。


下になった女は、自分の首を押し潰すリリトの両手の腕を掴み、裂けた腹から幾本かの赤い根を伸ばして リリトの首や背に纏わせている。


右手を女の首から離し、女の鼻を三度 殴り付けたリリトは、左手で首を掴んだまま 血や水銀に塗れた右手で女の額を掴むと、泥濘に嵌るほど女の頭部を地面に押し付けた。

鼻の出血が喉に溜まったのか、女が口を開いている。

リリトが口を開くと、黒い霧のような靄が下へ流れ、開かされた女の口内へ落ちていく。


身をよじらせて藻掻き、首を押し潰す手首から両手を離した女は、リリトの口を塞ごうと腕を上げたが、首や肩、その腕に 黒く細い枝のような模様が浮き出した。地獄ゲエンナの悪魔の黒い血管に似ている。


「ヴァン神族や白妖精リョースアールヴは、外からの闇には強いが

内側からであれば侵される。下級天使と同じだ」


皇帝の隣に座るシェムハザが言い

森の木々の間に立つ青い光の天空霊に

「泉の向こうへ」と 移動を命じた。


泉では、ボティスと朋樹が 麦酒が溢れ続ける瓶を横に倒し、朋樹が緑の呪蔓を巻き付けている。


神殿から出て来た青銀の眼の人々は

泉の前に立つ 天空霊の前に立ち止まった。


天使あんじょも... 」と 呟いた四郎に、シェムハザが

「エデンへ は?」と聞いたが

「危うしとなれば。私が此方こちらります限り

エデンが侵される事は御座いませんので。

また、ロキを囮とする訳にはいきません」と

今は戻らん という意志を示した。


背中を向けたまま答えた四郎に、“まったく... ” というような眼を向けた シェムハザは

「月夜見は、人間の霊の闇により 天使や他のものを侵すが、リリトの闇は キュベレが由来だ」と

説明を添えた。キュベレが由来... 神の悪意だ。

けど 皇帝は、それを喰っちまうんだよな...

何かと恐ろしいぜ。


地獄ゲエンナの悪魔等には、堕天使であろうと キュベレの血統であろうと、リリトの闇が注がれる。

主に統率の為だが。

だが悪魔でない者に注いだ場合、血が凍るような苦しみに襲われ、やがて狂い死ぬ」


リリトの口を塞ごうとしていた女の両腕が 力なく下り、泥濘の地面に肘を着いた。

さっきより色濃く浮き上がった黒く細い枝のような闇が 顔や足までも侵し、リリトの首や背中に回されていた赤い根も 緩んで落ちていく。


「瓶を 渡して欲しい」


天空霊の前に立つ青銀の眼の男の 一人が、ボティスと朋樹に言い、返事を聞く前に 湯気と煙を上げ出した。首や顔が赤く染まる。肉が焦げる匂い。


「瓶を... 」


発火する男の向こう側からも、湯気と煙が上がるのが見える。その後ろに立っている男からも。


泉から見て、後ろの方に立っている男二人が

急激に痩せ衰え、泥濘の地面に膝を着いて倒れた。地中から出た赤い根が足首に巻き付いている。

リリトから離れた女の赤い根が 地中に潜っていた。


女の右腕が上がり、黒い闇を吐くリリトの口に 四本の指を入れ、親指を顎の下に入れて掴んだ。

また 人の血肉と魂で、呪力を得ている。

ミカエルが剣で地中を炙るが、地中に染みた麦酒に遮られ、赤い根は別の男の足首に絡んだ。


体内の火と熱に喘ぎながら「瓶を」と訴えた男の

耳や鼻からも煙が上がり、口から火を覗かせ

倒れて燃える。

また 一人、二人と、湯気や煙を上げている。


「リリト。そいつを炙る」


ミカエルが言うが、リリトは離れようとしない。

顎を掴む女の指をギリギリと噛み切り、女に向けて口から吐き散らすと

「冗談でしょ? あの子の魂まで炙られるわ」と

額を離した手で 女を殴った。


獣を...

倒れて燃え燻る人が「嫌だ」と言った。


「頼む、瓶を渡してくれ」

「死にたくない」


「誰に言わされている?」と、泉に立つ ボティスが聞く。

影人が融合した人は 意思を排除され、キュベレの影響を受ける。自己犠牲を厭わない。

女が言わせているのか、キュベレや司祭が言わせているのかは分からないが、本人たちの言葉じゃない。


瓶は渡せない。燃やされるか 女の呪力となるなら

獣に消させれば...


男たちの背後には、黒く煤けた木々。

燃え尽きた あの木の中では、変形した人たちが

元に...


許されるのか?

獣を使って 同じ人間を消すことが。

自分の手は汚さず、故意に獣を喚ぶことが。

それをすれば、オレは人でなくなる。


けど、苦しんでいる。

生きたまま焼かれるより...


「ええ。あなたは、神じゃない」


口を開きかけた時に、リリトが言った。

左手で女の首を押さえつけたまま、裂けている女の腹から 根を掴んで引きちぎっている。

ヴゥン... と回転するチャクラムが、湯気や煙を上げる人たちの首や胴体を切断した。


胴体や首の断面は、赤く燃え溶解し

泥濘の地面も湯気を上げる。

「泉からこれを引き上げる」と ボティスに促された

朋樹が、天空霊の前に立つ人たちから眼を背け

呪の蔓に瓶を引かせている。


湯気を上げる泥濘の前で、また別の人が煙を吐いた。

「もう、やめられよ!」と 四郎が言い終わる前に

チャクラムが首を刎ね、女の根をむしり尽くしたリリトは、腹の裂け目に右手を突っ込んだ。


正しい事を選ぶべきなのか 何が正しいのか

間違っていても やるべきなのか...

ぐらぐらと 迷ってばかりいる。

迷うだけだ。いつも。


「ロキ... 」


ソファーの背もたれに手を掛けるジェイドに

榊が「頭が見えておる」と言い、注意深く見守っている。


ロキは深く息を吐きながら、胸に回された皇帝の片手を掴み、静かに降る桜の花片を眼に映していた。

赤い紅葉の葉が ひらひらとシーツに落ちる。


... いや 護ることだけは、迷わない。絶対に。


「この程度で死にゃあしないでしょ?

あの女の血も継いでるんだから」


リリトは女の内臓を掻き混ぜ、肋骨の中に腕を差し込んだ。肘の近くまでが女に泥濘ぬかっている。

その手で女の心臓を掴んだのか、身体を硬直させた女が痙攣し始めた。


「あの子の魂は どこ?」


ミカエルの左腕が動いた。

神殿の入口に見える、大いなる鎖に捕らわれた細い腕と ブロンドの波打つ髪。

天空霊と燃えた仲間、干からびて倒れた仲間の間に立っていた青銀の眼の人たちが、ミカエルやリリトの方へ歩き出した。


「ルカ、下がれ」


帯電したトールの身体からミョルニルに込められる雷が

青白に光る。


剣を構えたレミエルが 神殿の上から飛び降りたが

黒骨の蛇に弾き飛ばされた。

ミョルニルが神殿へ投げられ、ミカエルの剣が黒骨の蛇を炙り斬る。真珠の光と ミョルニルの雷に目が眩む。


リリトが吹き飛ばされ、仰向けに転がっている女の頭側に男が立った。藍衣のローブ。司祭ソゾンだ。


神殿から 恐ろしいスピードでミョルニルが投げ飛ばされ

ミカエルが剣で受けた。

ギャリ という硬質の音が耳をつく。

ミョルニルが跳ね返されて 泥濘の地面を抉り、ミカエルの踵も半歩 後退した。

続いて走り来る 黒骨が透ける大蛇を、地に刺した剣で炙っている。


青銀の眼の人の ひとりが ミカエルと女の間に立ち、ミカエルの剣の腕を両手で取ると

「助けて」と、湯気と煙を上げはじめた。


司祭は女を見下ろし、手を差し伸べたが

『渡せ』と言っている。鍵か... ?


ヴィシュヌがチャクラムを飛ばす。

司祭は、ゆるゆると上がった女の手を握る前に

消えた。

女の頭側、司祭が立った地面に 黒い足跡は無い。

神殿から出て来ている。なら、触れられる ということだ。


神殿から、再び 黒骨の大蛇が地を走る。

ミカエルの剣の腕を握る人は、赤い肌の全身から煙を上げ、口を動かし、炎を覗かせている。


「四郎!」


シェムハザが呼び、ソファーを立った。

四郎は消えて、ミカエルの隣に移動し

炎に巻かれる人を背中から抱き止めた。


「私が、共にりましょう」


「止せ、四郎!」と、シェムハザが四郎の背後に立ち、手を伸ばしたが、四郎は

「私共には、天主でうす様やゼズ様が共に居られる。

例え この身が滅びようとも」と

神殿に向いて言った。


「貴方に、助けが必要ならば

孤独を感じるのならば、私が共に居りましょう」


四郎の腕の中で燃える人が、ミカエルの腕を離した。女の顔が四郎に向いている。

ミカエルの目前に迫っていた大蛇が、黒く並ぶ牙を剥き出した。


「... “天地の創造主、

全能の父である神を信じます”... 」


四郎が使徒信条を読み、ミカエルの剣が大蛇の口内を貫き炙ると、黒い骨を砕く真珠の光が 神殿まで走る。


真隣に、藍衣のローブの男が立った。

ソファーに向き、片腕を前に伸ばしている。

とっさにローブを掴んだが、前に伸ばしたローブの袖の中から 司祭の腕に沿うように黒蔓が伸び

「ルシファー!」と、皇帝を両腕で庇おうとした

ジェイドを突き飛ばした。


「地!」と ルカが拘束を試み、オレは何とか

胸ぐらを掴んだが、額を掴まれた。

万力のような力で締められ、思わず ローブから手を離し、司祭の腕を握る。

バキリと乾いた音と共に、ルカが腰を着く。


朋樹の炎の尾長鳥の式鬼が、司祭の肩に追突し

額から手が外れた。

けど、ロキや皇帝だけは... と、もう一度 ローブを掴む。


トールが 手に戻ったミョルニルを帯電させ、司祭に殴り掛かった。

頭を庇おうと前に出した司祭の腕に、ローブの袖の中から伸びる黒蔓が瞬時に巻き付いたが、ミョルニルが蔓ごと腕を砕く。


「二度、同じ手に掛かろうとは」


朋樹が 泉から伸ばす赦しの白蔓が、司祭の砕かれた腕に巻き付き、皇帝が手のひらに出した 白く揺らめく炎を吹いた。

白蔓に 白い炎... 人間の魂が纏われる。


「影人とやらは知らんが、元々こちら側のものである お前の半魂は、消滅した半魂と同じに... 」


眠気を誘う声が止まった。

ソファーの背後に立つマッシュショートの影が

皇帝の形になり、皇帝の背中に手を差し込んだ。

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