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「地上に、逃れた?」


ミカエルが問い返す。

ブロンド睫毛に縁取られた碧眼で、改めて見つめられた ヴェッラは、首を竦めるようにして

「障壁が取り除かれて すぐに、内側からも爆発が起こって... 」と、中途半端に答えた。


「まず、どうやって障壁を取り除いた?」と

ボティスが聞く。

ミカエルにビビっちまうんだから、黙っててもらった方がいいよな。


地獄ゲエンナがあるはずの場所をパイモンが燃やしていて... 」


ヴェッラが言うには、パイモンが燃やす範囲を狭める度に 地獄ゲエンナの悪魔の遺体が出て、そこに地獄ゲエンナがあることは間違いないので、ウリエルが天の炎を

地獄ゲエンナ全体に直下させた。


パイモンの地界の炎とぶつかって大爆発を起こし

巨大な火柱の中に地獄ゲエンナが顕現したが、周囲を固めていた天使や悪魔にも 怪我人は多数。

地界から遮断するために 障壁にされていた地獄ゲエンナの悪魔たちを、緑のルーシーに食わせながら

ベルゼの虫に数えさせると、二万五千だった と...

地獄そのもの みてぇに なってるんだろうな...


「火柱の中で 幾つかの爆発が起こって

流星が二つ 打ち上がったように見えた」


その流星が、四層と六層の支配者だったようだ。


「ミカエル」


指輪にしたチャクラムを外しながら ヴィシュヌが立ち上がった時に、向き合って座るオレらの間に

何かが落ちた。

長テーブルから 紙コップが床に散乱する。


「天使だ... 」


長テーブルの上には、胸当てや脛当てを付けた天使が倒れている。力なく 肩や腕に沿う翼。

グリーンブラウンの眼には 何も映していない。


また何かが落ちる音。

ロキとトールの前に、天使の遺体。

どちらの天使の額からも 白い液体の煙のような

恩寵が立ち昇っていく。


初めて ハティや皇帝に会った時のような畏れが

足の下から うなじまで ビリビリと突き上がる。

振り向きざまに つるぎを握ったミカエルが

切っ先を誰かの喉に当てた。


「グラティア... 」


腰に届くブロンドの髪は、緩くウェイブがかかり

グレーがかった水色の長い天衣の肩には、トーガのように白い薄絹の天衣を重ねている。

黒水晶のような虹彩の眼。

白い翼の風切り羽の先は、艶消しのゴールドだ。

天使じゃないのか... ?


「“グラティア”?」と、ジェイドが聞く。

Gratia... ラテン語で “恩寵” という意味のようだ。


地獄ゲエンナ、六層の支配者だ」


天使のような男を見て言った ボティスに

「こっちは?」と、ヴィシュヌが聞く。

座っているトールとロキの背後にも 男が立っていた。


ラベンダーベージュ、マッシュショートの髪には癖があり、虹彩の色はブラウン。

顎の下には、ヴィシュヌのチャクラムが浮く。

白く長い天衣の上に 赤いフード付きのローブ。

縁や袖口には ゴールドの刺繍が入っている。

銀白色の翼は、風切り羽の先が黒い。


「ユーデクス。四層支配」


「ボティス、随分 愛想がない」と

チャクラムの上で、男... ユーデクスが言った。


「Judex... 審判者だ」と、ジェイドが男を振り返る。


「ヴィシュヌ、トール。

洞窟に居るはずの悪神までが居る。

ヘルメスの話は、本当らしいな」


「ヘルメスに会ったのか?」と聞く ボティスに

「まず これを」と、下から チャクラムを指し示した。


「あっては 話せない?

天使の遺体を落としたのに?」


ヴィシュヌは まだ、チャクラムを引く気はないようだ。

「アリエルの配下だ」と、ミカエルも言う。

恩寵が抜けた天使の遺体は、光の粒を立ち昇らせながら、輪郭を失わせていく。


「捕われに来た」


ブロンドの男、グラティアが言った。


地獄ゲエンナを遮断した障壁が焼き落とされた時に

弾き出された が、正しいが... 」と、ユーデクスが

チャクラムに息を吹く。


「自分で脱出してきたんじゃないの?」


立てた人差し指を回し、ユーデクスの周囲に

チャクラムを旋回させながら ヴィシュヌが聞くと

「ヘルメス以外にも侵入している者がいるだろう? 爆発は そいつが起こした」と

チャクラムを眼で追う ユーデクスが答えた。


「遮断された地獄ゲエンナの内部でも、三層までの者等と

俺等 四層から下の者等で争っていた。

ヘルメスは、俺等と居たんだ」


ヘルメスは、いきなり 四層の広間に顕れ

三層に攻め上がろうとしていた ユーデクスに

『マレドに話を聞いて、ミカエルの使者として来た。アラストールの解放を... 』と 話し始めたらしい。


「五層からアラストールを囚えたアバドンは

アラストールの配下の猛攻を受け 三層へ上がっていたが、外の障壁が崩れた時に、突然 見えない何かに吹き飛ばされて壁を破った。

姿の見えない そいつは、ところ構わず爆破しながら 俺に近づき、“身を隠せ” と 地獄ゲエンナから弾き出した。すぐに グラティアも弾き出されてきた」


「ハーデスだろう」と、ボティスが言うと

「ギリシアの冥界神か?」と

グラティアが 黒水晶のような眼を向ける。


「姿が見えない って、秘禁 掛かってんのに... 」と 朋樹が口を挟むと

「隠す術や避ける術が効かん」と

ボティスが返した。

ハーデスは、隠れ兜で姿を消しているようだ。

しかし 朋樹、よく 口挟めるよな...


「どおりで。悪霊を味方につけていた」と

黒水晶の眼をミカエルに戻した グラティアは

「三層までの支配者は、アバドンに囚われた。

アラストールは、抵抗を続けている」と

話を進めた。


「層の鍵は?」


剣を差し向けたままのミカエルに

「解錠されているだろう。今 言ったように

囚人だった悪霊共は 姿を隠したハーデスについているが、地獄ゲエンナの三層までの者等は 妙な蝗を憑けられ、配下ごと アバドンの手先となった」と

あっさりと答えている。


「だが、七層の鍵は まだ奪われていない」と

グラティアは、自分の胸に 手を置いた。


「七層を開く 六つの鍵は、支配者の霊に結びついている。

父の力でなく 七層が開く時は、支配者等が滅される時だ。

各層の支配者の誰かが滅されれば、俺等には分かる。囚われた支配者等も生きている」


「四層と六層の鍵は?」


「ある」

「父か 俺等の声でないと、牢獄の扉は開かない」


チャクラムから眼を離さないまま ユーデクスも

自分の胸を親指で指し示す。

「知っているだろう? 必要な説明なのか?」と

ミカエルに宛てて言い、グラティアが

「天使殺しの罪で捕えろ。天で審判を」と

剣の刃に触れた。


支配者で鍵である グラティアや ユーデクスを囚えておくことで、四層や六層、七層を開かないためか...


「待て」


剣を下げる ミカエルに、ボティスが言った。

剣を下げたことではなく

「天に連行し、審判を待つ間に幽閉されるのは... 」と、つり上がった眉をしかめている。


第五天マティだ」


第五天... 幽閉天の支配者は、サンダルフォンだ。


「何か問題が?」


グラティアが聞く。

サンダルフォンが 獣を狙っていたことや

キュベレを起こそうとしていたこと... キュベレに

使われていた恐れもある けど

ヘルメスも、そこまでは話せなかったようだ。


「キュベレは、サンダルフォンの手を離れた。

まだ問題があるのか?」


トールが、ミカエルやボティスに聞いているが

「離れてても、影響を及ぼすことは出来るぞ」と

ロキが 自分の腹に手を宛てた。

サンダルフォンが キュベレに使われて、グラティアや ユーデクスを 地獄ゲエンナに渡すことがあったら...


「天には 連行出来ない」


ミカエルが言うと、グラティアが

「では、どうする?」と

肩から掛かる白いトーガの腕を組む。


「ウリエルや ゾフィエルを見掛けた。

地界からは、ベルゼブブや パイモンの軍が出ているな?

だが、アバドンや 三層までの支配者を 地界で押さえることが出来たとしても、キュベレには太刀打ち出来んだろう」


ようやく チャクラムから眼を離した ユーデクスも

「地獄だけでなく、地界の悪魔も使われる恐れもある。もし本当に サンダルフォンが使われたのなら、ベリアルクラスの上級悪魔が使われることなど 何も不思議ではない。

俺等が使われることも考えられる」と

ミカエルに顔を向けた。


「サンダルフォンには、“統一” という目的があった と考えている。

異教神を潰すために、キュベレを起こそうとしていた と。

キュベレを利用するつもりで、サンダルフォンの方が 目覚めのために使われた」


ボティスが説明している。

サンダルフォンは、その後 獣を使って

キュベレを押さえる気でいた。


キュベレの でかさを ぼんやりと知った今

サンダルフォンは、どう考えたら勝算があったのか は 知らねぇが、もし獣に それが出来るとしても

オレには無理だ。


「そうした目的もなければ、眠っているキュベレに 隙を突かれることはなかっただろう。

サンダルフォンは、自ら キュベレを呼び込んでいた」


「そうであったとしても、使われる要素が多い

欲まみれの悪魔しかいない 地界に居るより

父の息が掛かる天に居る方が、リスクは低い」


言い切った ユーデクスに

「地界にあっては、身を隠したことにはならん」と、グラティアも同意する。


ミカエルが 奈落の石扉を顕現させ、ゲートを開く。

奈落の管轄は天だし、審判の後は 奈落に繋がれるもんな。

ゲートの向こうに、天狗アポルオンが立った。


「新しい支配者か」

「恩寵はあるが、天の者ではないな?」


やっとチャクラムを解除された ユーデクスと

グラティアに「天狗アポルオン。この国の神だ」と

ボティスが紹介し、天狗には ミカエルが

地獄ゲエンナの支配者達だ。アバドンに狙われている」と 説明した。

天狗を挟んで、奈落に軍ごと入っている ミカエルの配下のアシュエルと、ノジェラが立つ。


グラティアやユーデクスに、アシュエルとノジェラは驚いているが

天狗は「牢の深層部に?」と 普通に聞き

「城のように 黒い根が伸びてきたら... 」と

ミカエルやボティスを見た。


「奈落の木の枝を持っておけば?」と

朋樹が言ってみているが

「牢獄に影蝗を送り込まれた場合、他の囚人にも累が及ぶんじゃないか?」と ジェイドが言い

ミカエルとボティスに振り返られている。

考えたくはないが、考えられることだ。


「いっそ 森に居たら?」


ルカの提案だが、奈落のカラフルな森の中に

グラティアとユーデクスを... ?

「ベルゼの方が似合いそうだな」と

ロキが言っているが、“地獄ゲエンナの支配者” って大物を

そんな扱いでいいのか?


「森 とは?」と、グラティアが聞く。

「奈落に そんな場所は」と、ユーデクスも疑問顔だが、門の向こうで 天狗が森の方向を指差した。

カラフルな大木の枝葉が 根のひしめく天井についている。

闘技場の向こうに見える城にも 森の木々が絡んだままだった。


「テーブルとワインを」


グラティアが言い「カードも頼む」と

ユーデクスと門に入る。

城にも木は絡んでるのに、森でいいのか...

ボティスに呼ばれた ノジェラが頷くと

ミカエルが 奈落のゲートを閉じた。

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