94 泰河


羽ばたいた師匠の手に、ゴールドの剣が握られた。柄の先には 金剛杵ヴァジュラが付いている。

煩悩を断ち切る剣のようだ。


羅刹天は、空から斬り掛かった師匠の剣を受け

ドヴェーシャ!」と 叫んだ。


弾かれそうになった師匠は

一度 空中で体勢を整えようと、少し高く上がる。


「あいつ、強いな」


ミカエルが剣を握り、差し出した秤の片方を

ボティスが降ろした。

見えない翼を広げ、地面を蹴って宙に浮くと

「ファシエルを」と、ハティに言い

ブロンドの 眉をしかめた。

明るい碧眼で、オレらの後方を見ている。


「何だ?」と、振り返ったイゲルが

オレとルカの前に、広げた片腕を出して 下がらせた。

寝ている人たちの寝息から、黒い靄が出て

凝って行く。


『... くい』『にくい... 』と

それが 口々に喋り出した。


『... 孫に遺したかったのに』

『... やっと入れた 会社だった。続けたかった』


「こいつ等の被害者か? なんで?!」と

イゲルが聞くが、オレらにも分からない。

ただ、亡くなってないのなら 念だ。


『理不尽よ』『許せない... 』『憎い... 』と

靄たちは、いろいろな顔になって

どの顔も目尻をつり上げると、額に角、口に牙を生やし、青毛猿のように 胴は無く、腕だけを伸ばした。


念の人たちは、寝ている人たちに襲い掛かる。

「止せ!」と イゲルが掴んで剥がすと

隣に立ったミカエルが、剣で両断した。


両断されると靄に戻り、また『憎い... 』と

凝り固まっていく。

寝ているヤツの口からも 新たな靄が出てくる。


心経を読もうとした時に、玄翁と真白爺が

「どれ。念であろうかの」と

オレらの隣に 胡座をかいた。


「ナウマク サラバダタ ギャーテイビヤク サラバ ボッケイビヤク サラバタラタ センダマカロ... 」


手に印を結ぶと、玄翁が不動明王呪を始め

真白爺が「臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 前」と

九字切りをしている。


「オン キリキリ... 」と 呪が変わった。

不動金縛りの術だ。

霊を縛り、人の動きを遅くするものだが

念にも効くのか... ?


「あっ!」「黒風が!」


ジェイドと朋樹が声を上げ、シェムハザとアコが消えた。

黒風を支えて戻って来たが、背中を突き抜かれている。


「ちょっと... 」と、ルカがギョッとした顔になった。悪魔の 一人が 腕を引き抜かれ、他の悪魔が連れて戻って来た。


黒風には、シェムハザが 自分の魂を飲ませ

悪魔は、月夜見が幽世の扉に 肩を入れさせ

「柚葉、縫合を」と、抜かれた腕を 榊に支え持たせ、柚葉ちゃんが縫い付ける。


首の肉を喰いちぎられた悪魔や、殴られて肋骨を折られた鬼が 運ばれてきた。


朱緒や白尾が、運ぶ手伝いに行き

自分の魂を分け与える シェムハザのことを

「キリがないわ」と 心配しているが

皇帝が「シェミー」と、手のひらに出した

白い炎の魂を飲ませている。


「何かあったら、すぐ呼べよ」と

ミカエルが 飛び立ち、スサさんも向かう。


「... 押されてるよな?」


ルカが 心配そうに言った。

「けどさ、悪魔と鬼なんだぜ?」


羅刹天の元に飛んだミカエルは、もちろん

浅黄や史月、スサさんや、酒呑、茨木も

今のところ 怪我は無さそうだが

また、斬られた鬼や 突かれた悪魔が 連れられて来た。


入り乱れて戦っているので、黒炎弾は使えない。

朋樹の式鬼も無理だ。

オレらが行っても、邪魔になるだけだろう。


ゾイも椅子を立って、そわそわとしているが

今は出来ることもなく、ハティに 座るよう促されている。


『ギャッ!』と、姫様が悲鳴を上げ

「ルシファー!」と、四郎が ソファーを立った。


皇帝が、鎖を絞めたようだ。

姫様を巻いている鎖は 直立し、座っていた姫様も立たされ 宙に浮く。


赤黒い鎖は、キリキリと姫様を締め上げ

姫様が「キィ キィ」と 喉から音を立てる。


「シロウ」と、ボティスが座らせた。


「こうすれば、喚ばんでも来るだろう。

羅刹天ラーヴァナとやらが有利になることはない。

ミカエルがいるからな。

とは言え、シェミーの魂は 俺のものだ。

やたらに分けられても困る。

天狗むすこに支払って貰おう」


姫様が「クハッ」と 口を開けた。

鎖に締められ、息を吸うことが出来ていない。


逆毎ザコ、天狗を喚べ」と 月夜見が勧めるが

もう 声は出せないだろう。

片足を前に出すと、イゲルに無言で止められた。

朋樹やジェイドも 口は出さずに耐えている。


「... 姫様、アバドンに

“友になる” って 言われたみてーだな」


灰黒の獣毛に被われた顔を 痙攣させ始めた姫様を、痛々しい という眼で見ながら、ルカが小声で言った。


「猛気として生まれてるし、嫌われるヤツ産んじまうから、スサさんとも上手くいかねーし。

息子の天魔雄神アマノサカヲノカミの方が、恐れられたり 慕われたりしてるし、嬉しいけど 寂しいみてーだ」


鼻の奥に 急激に何かが上ってきて

瞼が熱くなる。

姫様、アバドンを信じてるのか?

寂しいから、騙されててもいいのか?


姫様の開いた口から、だらりと 舌が出た。


「あの... もう、止めましょう」


鎖の近くに顕れたゾイが

宙に浮いた姫様の着物の脚を 両腕に包む。


「姫様を人質にしていれば、いつか顕れます。

姫様が亡くなってしまったら、もう顕れないですよね?」


ゾイの腕の中から、煙が上がり出す。

気付いたゾイが「あ... 」と、悲しそうに腕を離した。ミカエルのトーガに 焼かれるようだ。


「ルシファー... 」


四郎が呼ぶが、皇帝は黙って 姫様を見ている。


ゾイは 鎖に触れたが、どうすることも出来ない。

下手に引けば、余計に締めてしまうことになるからだろう。


ソファーを立った四郎が、姫様の前に出て 見上げ

「もう、意識は失われております。

術など 使えますまい」と、鎖を掴み

「きよくなれ」と 一気に引くと

鎖が 地面に落ちた。


「ふん... 」と 鼻を鳴らした皇帝を

四郎が 振り向いて見る。

今の、四郎が 鎖を解いたんじゃなくて

皇帝が 解いたのか... ?


「姫様」


ゾイが姫様の手を握り、四郎も姫様に向き直る。


「おい... 」と、イゲルの声。

急に 暗くなった。


「... オン キリウン キャクウン」


玄翁と真白爺の 不動金縛りの術が完成した。

青毛猿のように、顔と腕だけだった念たちは

黒い 一つの塊になって、顔だらけの小山になり

『にくい』『にく い... 』と 膨らみ蠢いていた。

暗くなったのは、狐火を隠した その影のせいだ。


口惜くやしかろうのう」

「しかし、この者等を憎み続けても 晴れぬ」


玄翁と真白爺が 心経を始めると、

念の顔は、小山となった自らの中に 沈んだり

また表れたりしながら、涙を流し出した。


オレも 合掌し

「... “舎利子しゃりし 色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき”... 」と、一緒に読み出した時に

朋樹が「ミカエル!」と 呼び、突風が吹いた。


ゾイを吹き飛ばした四郎の隣に、天狗が立っている。

ハティが、ゾイと 天狗の間に立ち

戻ったミカエルが、ゾイの背中を抱き止めた。


皇帝の鎖が立ち上がり、天狗に巻き付く。


心経を止めてしまい「どこから... ?」と 聞くと

「影から出たように見えた」と、ルカが答えた。


「消えられると困る。また退屈になるからな」


シェムハザが 手のひらに載せた青い炎を

姫様の口元に寄せ、呼吸で吸わせると

月夜見キミサマが 割れた封鏡で、姫様を挟み映して 封じる。


「シロウ」


ボティスが 四郎を天狗から離し

ハティが「影穴を」と、オレに言う。


そうだ。影穴を閉じねぇと...

影穴の前には、ハティが もう黒いルーシーで

魔法円を敷いていた。


観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみつたじ

照見五蘊皆空しょうけんごおんかいくう 度一切苦厄どいっさいくやく... 」


「ジェイド、朋樹」


ミカエルに呼ばれて、二人が

ミカエルとゾイの近くに移動する。


螺旋のウェーブの黒髪。

鴉の濡羽のような艶を持つ 赤黒い翼。

顔の右側や 左胸、腕にも 黒く縦に走る漢字のような文字が、ところどころランダムに 赤く光っては、緩く消える。


黒い裳や 白い天衣のドレープに絡んだ 赤黒い鎖が

柘榴から奪った ルビー色の鱗の腕を巻き込みながら 這い上っていく。 天狗は黒い眼で

トーガを頭からかけ、顔を隠した ゾイを見ていた。


「... 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい

無無明亦無無明尽むむみょうやくむむみょうじん 乃至無老死ないしむろうし 亦無老死尽やくむろうじん

無苦集滅道むくしゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく... 」


榊が オレに合わせて、一緒に心経を読むと

四郎も読み始めた。


阿修羅アスラ!」


師匠が 阿修羅を喚ぶ声がし

アコが、腹を裂かれた鬼を連れて戻った。

助かるのか... ? 羅刹たちの笑い声が響く。


虚空に強い光が顕れた。

それは すぐに消え、阿修羅が立った。

サーモンピンクの肌に 条帛じょうはく

ゴールドに翡翠やルビーの胸飾り。

ゴールドの地に、黒と緑の刺繍の

両手首のバングルや サンダルもゴールド。


「天狗か? 魔像は?」


「アスラ」


皇帝が呼ぶと、阿修羅は「ルシファー?」と

くっきりとした二重の眼を見開いたが

大刀を振り回している 羅刹天を指差した。

すぐに阿修羅が消え、羅刹天の前に立つ。


次々に強い光が顕れ、黒髪に褐色の肌

くっきりとした目鼻立ちの男たちが顕れた。


両手首にゴールドのバングル、青や緑地の裳。

阿修羅の配下のようで、皇帝が

「ラークシャサとラクシャシー」と指差すと

腰に提げた 曲刀を抜き、猛然と走って行く。


「天空精霊で囲っているのに... 」と

ジェイドの声がしたが

「天道から来たんだと思うぜ。天部も六道だけど、重なった別界だからな」と 朋樹が説明し

「印は?」と、ルカに聞いた。


「... 三世諸仏さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみつたこ

得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼたい... 」


首まで鎖が這い上がった天狗に、ルカが少し近付く。皇帝の鎖は、術も封じるんだったよな... ?

ルカの すぐ近くに、シェムハザが立つ。


玄翁たちの方は、もう心経を読み終えていたが

人の顔の塊は、半分程にはなっても まだ無くならず、また最初から読み始めている。


「印、あるけどさぁ、文字が 赤く光るみたいに

浮いたり消えたりしてるんだけど... 」


筆を出したルカが、天狗の額をなぞると

ドヴェーシャ』と 天狗が言った。


黒い人の顔だらけの小山が 伸び上がり

腕や脚が分かれ、全身に顔がある 人のかたちを造っていく。


「... 何、ここ?!」

「はぁ?! どういうこと?!」


影穴から、また 人が出て来た。

「こっちに来い! 走れ!」と、アコが命じ

イゲルと 向かう。

「あれ、何?」と 羅刹たちの方を見て

一気にパニックになった。

羅刹たちのことは 見えるようだ。


「黙って走れ!」


影穴から出た 六人の人たちが

アコとイゲルに 急かされて走るが

足が縺れて転んだり、腰を抜かしてしまい

棍棒を持った羅刹が近付いて行く。

追ってきた阿修羅の配下が、羅刹の首を落とし

イゲルの隣にいたヤツが 失神した。


「... 即説呪曰そくせつじゅわつ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若波羅蜜多心経はんにゃはらみつたしんぎょう


ハティが、開いた赤い手を 影穴に向け

「claudere」と 魔法円を作動させる。

浮き上がった文字が高速回転し、二重円の中に収まると、どろどろと文字が溶けて 黒い水たまりのようになり、パン! と 音を立てて 魔法円ごと

影穴が消える。

これで しばらくは、影穴は開かない。


河川敷の外の 炙りの光を ミカエルが強めた。

影があるのは、この河川敷だけだ。

また どこかに開く前に、天狗を何とか出来れば...


『憎い... 憎い... 』


沈み込んでは浮き上がる 黒い身体中の顔が

口々に言う。見上げる程の 背の高さ。

額には、ねじ曲がった 二本のつのが生えてきた。

痴... 愚痴の鬼だ。


「あれ、何なんだよ?!」

「さっき 何かの首が... 」


失神したヤツを イゲルが抱き上げ

震えているヤツを アコが支えながら

河辺へ連れて行く途中で、

とにかく喋るタイプらしい 眼鏡をかけた男と

髪を 一つに纏めた女が

黒い鬼を見て、また悲鳴を上げる。

その口から 闇靄が流れ出ていた。


「い、家に 帰らせてよ... 」

「何で 人が寝てるんだ?

あんな、刀なんか 持ってるヤツ等がいるのに... 」


「他の人間が入って来たら 困るから、

もう少し待ってくれ。必ず帰すから」


「どうして待たなきゃいけないの? イヤよ!」

「勝手に来るヤツのことなんか、どうでもいいだろう?!」


「黙って 歩け」


アコが命じると、口を閉じて 歩き出したが

「... イヤ。こんなのおかしい」と

女が 口を開き、ボティスが眉をしかめた。


「アコ」


「いや、命じてる。普通の人間だ。

効かないはずは... 」


「 “この女、騙しやがったんだ。

妊娠した と 嘘をついて、金を”... 」


何だ? 女が 男の声で言った。

口から 闇靄が溢れ出ている。


「“あの損害を出したのは お前だろう?

俺 一人に、責任を押し付けたな。

おかげで信用を失った。結婚までダメに”... 」


男の口からは、別の男の声が言う。


溢れ出た闇靄は、そいつらの影に凝って伸び上がり、1メートル程の背丈の 黒い餓鬼となった。

女と男は、自分の罪が口から吐かれると

急に話せなくなったようで「... っ」と、喉が詰まったような 素振りを見せた。


『罪だ』『責苦を』と、女や男の腕を掴み

顔だらけの黒い大鬼の元へ引き摺って行く。

アコとイゲルが 餓鬼を掴もうとしたが

触れられず、女や男の方を引き止めようと

背中から 羽交い締めにすると、男の肩が外れる音がした。


螺曲がった角を持つ大鬼は、頭が牛になっていた。地獄卒の牛頭鬼ごずきだ。


「ジェイド」


ゾイを ジェイドの方に押して預け

ミカエルが 移動し、餓鬼の手首を取った。


「アコ、イゲル。離せ。腕が千切れる」


餓鬼の手首は千切れ、先が溶け消えたが

溶けた先から 滲み出た靄が、骨ばった黒い手を

再生していく。


「加護」と、ミカエルが 女や男の方に 加護を与えたが、餓鬼たちは 触れることが出来た。


式鬼札を飛ばそうとした朋樹を

ハティが「様子を見る」と 言って止める。


近くに連れて来られた男を 見下ろす牛頭鬼と

男の眼が合うと、男は ガッ と 口を開け

赤黄に煮えたぎる湯を 煙と一緒に吐き出した。

男を連れて来た 餓鬼が消える。


「おい... 」


牛頭鬼と眼が合った女は、身体中から湯気を吹いた。熱風が届く。耳鳴りが始まった。


シェムハザが、煮え湯を吐き続ける男の口内を確認し、ミカエルが、湯気を吹き 転げ回る女の背中に触れる。

肉が煮える匂い。釜茹で地獄ってやつか... ?


「幻覚だ」


今のが... ? けど、熱は ここまで届いた。

あまりのことに 何かが麻痺していたが

急に 指が震え、身体中が汗ばんだ。


煮え湯を吐き終わった男と 湯気が消えた女は失神したが、火傷も何も見当たらない。


「朋樹。おまえ、視るなよ」と

ルカが 男の肩に触れ

「感覚は本物だ」と 牛頭鬼を見上げる。


男と女が眼を開けると、また煮え湯と煙を吐き

身体が湯気を吹いた。


「やめろ」


ミカエルの剣が 牛頭鬼を擦り抜ける。


『救い無き者等よ』


牛頭鬼が 静かな声で言う。


『罪だ』『責苦を』


座り込んでしまっていた人たちの影から

黒い餓鬼が顕れ、

眠らされていた人たちが 目を覚ました。

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