89 泰河


「奈落の天使だ」


頭に載せていたアンバーを、琉地の背中に降ろしながら、イゲルが言った。

灰の下から出た、鴉天狗だったヤツらのことのようだ。

背中の翼骨の先が、左右とも五本の骨に分かれ

蝙蝠の翼骨のような形に 変形している。


「奈落の天使が、なんで... ?」


ルカが聞くと「憑依しておったのだろう」と

師匠が答えた。


天使が、鴉天狗に?


憑依する理由が分からねぇ。

そのまま出て来ても、同じなんじゃねぇのか?


「あの人... 」と

ゾイが、一人の天使に眼を止めた。

ブラウンの髪の男だ。オレも 見たことがある...


「四郎の時に、奈落の扉に立った天使だ」


朋樹が言って、ゾイを見た。


「黒い十字架を立てて、ユリイナの魂を 奈落から出したヤツだ。

あの時、空気の層の中にいた お前のことを見てる」


四郎やエマ、ニナが居た 白い十字架の下には

過去の空気の層があって

エマが許可するヤツしか 入れなかったが、

ゾイは 入れていた。ルカの精霊の風も。


ゾイが入れたのは、悪魔の身体を持つ天使で

人間の朋樹の血が入った 未知のものになったからだろう。

空気の層を使っていた エマや、エマと魔女契約を結んだアバドンが 知らないものだ。

立ち入りを制約することが出来なかった。


それに 朋樹は、式鬼を使役する能力が高い。

陰陽神だけでなく、月夜見キミサマの加護があるからだ。

朋樹の “入れ” という命や、ゾイ自身の呪力が

エマの呪力を上回ったと思われる。


「あの天使が、ゾイのことを

アバドンに報告したんだったら... 」と

ジェイドが言うと

「天狗や天逆毎の蝗を通じ、歓喜仏のことに

思い至ったのであろう」と 師匠が頷いた。


じゃあ、鴉天狗に 天使たちが憑依したのは

ゾイのように 悪魔... 天狗の身体を手に入れるか、歓喜仏のシャクティ... 新たな能力を手に入れるために

鴉天狗に憑依して、鴉天狗の魂を滅させた って

いうことか... ?


「ゾイが アバドンに狙われるということは?」


ジェイドが 誰とも無しに聞くと

近くに史月がいるせいか、大人しくしていた榊が

ゾイの手を握る。


師匠が、ゾイや榊に眼をやり

「手首にミカエルの十字が付いておろう?」と

ジェイドに答えた。


所有の印が付いたゾイに 手を出したヤツは

所有物の侵害として、ミカエルに

正当に争う理由を渡す ということになるようだ。

簡単に言えば、ミカエルにケンカを売る。


「アバドンとやらも、天での立場があろう?

わざわざ、そのような危険を冒すより

量産すれば良い... と、考えたのであろうな。

そう上手くはいかぬで あったようだが」


「けど... 」


ルカは、翼骨を開く天使たちを見て

「何かには なってるしさぁ... 」と

めずらしく 大人しい声を出す。

天使たちの額に、縦の眼が開いていた。


腰に 黒く長い巻衣を巻いた鬼たちは

手に錫杖を握り、オレらの方に向き直ると

地面を突き、シャクと音を響かせ

ドヴェーシャ』と 声を上げた。


口からは、呼気と共に 闇靄が吐き出されているが

闇靄は地面に落ちず、鬼たちの身体を包むように

纏わっていく。


ミカエルが 河に投げたつるぎが、河から飛び出し

また ミカエルの手に収まった。


剣を握ったミカエルが、椅子を立つと

鬼たちが錫杖を突き鳴らし、心経を始めた。


観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみつたじ

照見五蘊皆空しょうけんごおんかいくう 度一切苦厄どいっさいくやく... 』


錫... と、地面を突いた錫杖が鳴ると

青白く光る 地面の防護円の光が、少し弱まった。


「円を消せるのか?」

「嘘だろ?」


『... 舎利子しゃりし

色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき

受想行識亦復如是あいそうぎょうしきやくぶにょぜ... 』


錫... と 鳴ると、また円が薄れる。

防護円が無ければ、ミカエルの炙りは使えない。

皇帝たち悪魔や、榊たち霊獣も炙ってしまう。


『... 舎利子しゃりし

是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不減ふぞうふげん... 』


錫... と、錫杖が鳴る。

防護円が薄れ、ミカエルとウリエルの助力円が

一度 強く光って消えた。


「泰河」と、ミカエルに呼ばれる。

多分、天空精霊テウルギアだ。


ソファーの方へ向かおうとすると

影穴から、リン... と 鈴の音が聞こえた。

「待って」と、朱緒が鼻を鳴らす。


「... え?」と、影穴を出たヤツが 周囲を見回した。ティーシャツにジーパンの男だ。


「何、ここ? 何で?」


ワンピースにサンダルの女。


「居酒屋に入ったのに!」

「はぁ?! 外? 河?!」


ワイシャツにスーツ下の男が二人


部屋着のようなシャツとハーフパンツの男、

サマーニットを着た女... 続々と出て来た。


「人間だ」と、史月が言った。


「影穴から?」


普通の人たちだろう、とは 思う。

ただ、鬼たちと同じように 呼気に靄が見える。


天使たちや 鬼たちのことは、見えていないようだが、オレらには気付き

「人がいるけど... 」と、指を差し

近付こうか どうしようか、迷っている。


「悪意や闇を持つ者等だ」


皇帝が言った。


「中身は、下級悪魔と変わらん。

放っておけば 掃除になるが... 」


「止せ」と、ミカエルが 皇帝の口を止める。


「どうする?」

「道路に出せば、炙りの光がある」

「でも、天空精霊テウルギアが... 」


「キッ!キッ!」と、アンバーが

何かを訴える。


「どうした?」


ジェイドが聞くと、琉地と消え

すぐに戻り、鉤爪の手で 藍色蝗を差し出した。


「影穴から、蝗が出てる」と

眼を凝らしたイゲルが言う。

人間に付いているなら、天空精霊も使えない。


『... 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか

般若波羅蜜多心経はんにゃはらみつたしんぎょう


錫... と、錫杖が鳴る。防護円が消えた。


翼骨の天使たちが、人の方に近付くと

ミカエルが消え、影穴の前にいる人たちと

近付く天使たちの間に立った。


「えっ、何?」「この人、いつ来たの?」と

のんきに話しているが、一人がミカエルの剣に気付く。


「ちょっと... 」

「いや、レプリカでしょ?」

「やばくない?」


鬼たちが錫杖を鳴らすと、影穴の近くにいた男が

何かに弾き飛ばされた。

シェムハザとアコが向かい、男を助け起こすと

アコが「下がれ」と命じ、影穴から人を離した。


「今の、術か?」

「いや... 」


ヒュー... という、下手な長い口笛のような

高音の鳥の鳴き声。


影穴から、動物の影が のそりと出て来た。


でかい猿かと思ったが、いやに人っぽい。

額には 縦に開いた眼。

前に出す足は太く、黄の地に黒い縞の虎模様。

模様のない薄茶の身体。尾は蛇。


ぬえだ... 」


シェムハザが助け起こした男は、シャツの背中が裂け、二本の爪跡のような傷があった。

青い炎を飲ませ、アコが下がらせた人たちの方へ連れて行っている。


アコは、ミカエルが左手に出した秤の片方を下げ

上向きの手のひらを少し上げて、地の鎖で鵺を巻く。だが影穴からは また、鵺が出て来た。

鎖に巻かれた鵺は 暴れ狂い、前足に掛かった鎖を引きちぎった。


ミカエルが、向かって来た天使の首を刎ねると

ソファーで脚を組む皇帝が「開戦」と 言い

鬼たちの間に、ドッと木の根が生えた。

白尾だ。

集められている人たちから 悲鳴が上がる。


「取り込めは しないようですが... 」


鬼を取り込もうとした根は、錫杖に払われている。

だが 二体の鬼に根が突き刺さり、腹や胸から

突き出した根が、鬼に巻き付いていく。


狼姿の史月が跳躍し、鵺に飛び掛かる。

人化けを解いた朱緒も走り、鎖に巻かれた鵺の喉笛に 喰らい付いた。


錫杖で地面を突いた鬼たちが、白尾の根を枯れさせ、どろどろと溶かし始めた。

朋樹が呪の蔓を伸ばし、一人二人を足止めするが

また錫杖を鳴らされ、蔓が解ける。


「マジかよ」と、炎の尾長鳥の式鬼を

鬼の 一人に追突させ、ルカが風で巻くが

炎に巻かれて倒れた鬼は、立ち上がると錫杖を鳴らし、式鬼の炎を消した。


「イゲル」と 呼んだ ボティスが

ミカエルの方を 眼で示す。


ミカエルは、天使たちに囲まれながら

一体一体を斬首しているが、

天使たちは、自分を包むように 翼骨を前に出し

ガードしているので、斬首に時間が掛かる。

イゲルが指笛を吹くと、軍の悪魔たちが 背に皮膜の翼を広げ、ミカエルの補佐に向かう。


空から翼骨を握り、折り取ろうとしているが

翼骨でも 刺し殺せるくらいの強度があるようで

右の翼骨を握った悪魔の 一人が、左の翼骨から

太ももを突き抜かれてしまった。


鬼たちは、こちらへ向かって来るが

十人程が アコやシェムハザと居る人たちの方へ

足を向ける。

白尾が また地中から根を伸ばし、鬼たちを足止めするが、根は もちろん人にも見える。

「何が起こってるんだ?」

「あんたたちがやってるのか?」と

シェムハザやアコに突っかかり始めた。


「人間じゃあねェ奴も 居やがるなァ」


テーブルに身を起こした フランキーが言うと

「人数、増えてないか?」と

朋樹が眉をしかめる。


... 本当だ。鵺の後に入って来たようだが

フランキーが、猫頭術を掛けると

シェムハザに突っかかっている 一人と

「怖い怖い」と 騒ぎ出してる女二人は、頭が猫になっていない。


「我等の種の者等よ」

「収めに行くかの」と、向かう 玄翁と真白爺に

アンバーと琉地が着いて行った。


「で、オレら、どうするんだよ... ?」


ルカの地の精霊は効かず、錫杖を鳴らす鬼が迫る。ハティが吹いた錬金の息が、闇色の靄に吹き返された。 嘘だろ? 信じられん...

「ハティの息が... 」と 言ったジェイドも

後の言葉は続かない。

朋樹は、飛ばそうとしていた 式鬼札の手を

そのまま降ろした。


白尾が 地中から根を突き上げて妨害するが

手が届く距離に来るのも、時間の問題だろう。


「でも、何も指示は出てない ってことは

待機して 身を護れ... って ことだと思うよ。

泰河は、囮の仕事もあるから」


ゾイが言い

「何も出来まいよ」と 師匠も頷く。


けど、この状況は...


皇帝の方を見ると、膝に露を載せ

四郎に 何か話している。


自分の膝の上に 拳を握る四郎は、状況を見て

どう打破するか考えているようだが、

皇帝は、フローズンシェイクを片手に

もう片腕は、四郎の背後の背凭れに回し

世間話でも聞かせてる風に見えた。


ボティスは、月夜見キミサマと話しているが

オレが見ていたのに気付き、“お手上げ” 風に

両腕を軽く開いて見せる。やめてくれ...


「師匠は “シューニャ” しないんすか?」


「もう した」


してたけどさ... と、師匠を見ると

「元の聖鳥の姿を取り、炎を撒けば

お前達や、あの人間達まで焼き尽くすことになろうが... それでも、鬼だけ残るやもしれん」と

言うので、首を横に振る。


モレクの時に 奈落の牢で見た、皇帝の術攻撃も

無差別だった。

でかい神とかって、能力も でかいもんな...


「ぬう... しかしのう... 」


人化けしている榊の 艷やかな黒い毛先が

ざわ っと 逆立ってきた。おう、怖ぇよな...

狐の姿なら、背中の毛が逆立っているのだろう。


白尾の根に貫かれ、巻き付かれている二体の鬼は

他の鬼に、錫杖で頭を潰されていた。


ヒュー... という、高い鳴き声がした。

史月は 二体仕留めていたが、鵺が増えている。


ミカエルは無傷だ。

目の前にいる天使の 翼骨を蹴り折って

斬首しているが、悪魔たちに負傷者が目立つ。


アコが、影穴から出た人たちが騒がないように

命じて まとめ、シェムハザは負傷した悪魔を診ている。

玄翁と真白爺が、結界張りと幻惑を繰り返し

なんとか 鬼を人々から避けているようだ。


まだ 天狗が 現れてもねぇのに

押されている気がする...


白尾の根を、鬼たちが 錫杖で払い

どろどろと溶かしながら 近付くのを見て

「もうちょい、下がる... ?」と ルカが言うと

「うん。その方がいいね」と

ゾイが オレの前に出た。


皇帝ルシファー、軍を?」


フローズンシェイクのグラスを

ゴールドのサイドテーブルに置いた皇帝は

「軍? お前の?」と、ハティに問い返す。


「この辺り一帯が 消し飛ぶだろう?

ミカエルが居ようと、俺の元に 天の軍が降りる」


では どうするのだ?... というような眼のハティを見て、「ふん... 」と 眼を逸らした皇帝は

ボティスに 視線を向けた。


オレらは、二メートル程 後退したが

錫... という音に、また 白尾の根が払われた。

鬼の額の眼は、どれも オレに向いていた。

消し飛ぶ以外なら 何でもいい。早くしてくれ。


月夜見が椅子を立ち、右腕を伸ばすと

扉の境に刺さっていた 三ツ又の矛が

その右手に収まった。ボティスも椅子を立つ。


「スサ」


扉の中から、浅黄が顔を見せた。

外の状況を 一目見ると、扉から出て

月夜見にお辞儀し、小声で 何か言っている。


「... 構わん。扉を使え」


月夜見が浅黄に言うと、浅黄はまた お辞儀して

扉の中へ消えた。


「スサさんは?」「来ねぇな... 」


ドッ と、目の前に 木の根の壁が伸びて

「うお... 」と、また 何歩か下がる。


「スサ!」


月夜見が もう一度喚ぶと、やっと

片手に持った 羽々斬の刃を肩に載せたスサさんが

扉から出て来た。







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