88 泰河


顔中に怒りの皺を刻んだ 老婆が、ナタの柄を握る手に 力を込め、四郎に向かって走る。

椅子を立ったが、老婆はもう 四郎のすぐ前だ。


「伴天連めが!」と、老婆が振り上げた鉈を

四郎は、天鵞絨ビロードのマントで払い落とし

老婆の額に 按手した。


『キイイーーッ』と、老婆の喉が音を立て

四郎の手の下から、黒い煙が上がる。


闇靄が そのまま人のかたちになったような虚霧うつきり

二面顔の障涯。

ぬるりとした水生生物の肌をした 人型のものや

ばかでかく黒い蚯蚓ミミズたち、般若面に白装束や赤襦袢の鬼女たち... 河川敷にいる闇たちが 押し寄せて来たが、防護円に入る前に、助力や錬金の息

シェムハザの術で崩れ、青い炎に燃やされる。


四郎から 額に按手された老婆は

顔の半分程までが 煙になり、消失していた。


「... “へびよ、まむしの子らよ、

どうして地獄の刑罰を のがれることができようか”... 」と、マタイ 23章33節を読むと

老婆は 四郎の手の下で、全身が 黒い煙となった。


四郎が天鵞絨ビロードのマントを ひるがえすように振ると

老婆の煙と 一緒に、灰となった 他の妖しの塵も

跡形無く消える。


「泰河、座れ」


ハティに呼ばれて、呆気に取られていたことに

気付いた。 こんな 簡単に...


黒くしっとりとした つややかな天鵞絨ビロードのマントの

背中の向こうに残るのは、闇影の何体か だけだ。


「さて。下手に 心経を唱えれば、影穴が消える」


師匠が言うと、月夜見キミサマが 朋樹に

「祓詞」と 命じた。


「... “けまくもしこき 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

筑紫つくし日向ひゅうがたちばな小戸おど阿波岐原あわぎはら

御禊みそぎはらたまひしときせる祓戸はらへど大神等おおかみたち”... 」


残っていた 弱々しい闇影が消えると

高い位置に括った 長い黒髪を揺らして 四郎が振り返り、「まずは上々でしょうか?」と 笑った。


「シロウ」


ハティに呼ばれて、四郎もテーブルに着いた。

四郎の前にも グラスが顕れたので、オレが注ぐ。


「見事だった」


ハティが言うと、四郎は「何を... 」と

グラスから眼を上げ

「すべて、ゼズ様の お力です。

錬金というものを、初めて 拝見致しました」と

感動の眼を ハティに向ける。


ハティが、四郎のグラスに視線を落とすと

グラスの中身は、グレープジュースに変わっていた。


「おお!」と 驚いた四郎が、一口飲み

「葡萄酒も よろしいですが、こちらも美味しゅう御座います」と、何か 恥ずかしそうに言う。

実は ワインより、美味かったんだろうな...


少し 気が緩んで、オレもワインを飲むと

「ここに来る前にさ... 」と、ハティに

コスプレショウのことを 話してみた。


ハティは「“モンストゥルム” とは... 」と

笑っていたが、輝く白い霧が 辺りを包んで

マタイを読む声が 聞こえたことを話すと

「父か?」と、顔付きを変えた。


「いや。ミカエルは、“聖子イース” って言ってたぜ」


「そうか... 」


ハティは、グラスを開けると 椅子を立ち

ワインボトルに触れ、中身を グレープジュースに変えると、ミカエルがいる河辺りへ消えた。


「どうしたのでしょう?」と

四郎が 首を傾げるが、オレにも分からない。


「もし、知らなきゃならないこととか

必要なことなら、後で話してくれると思うぜ」


四郎は まだ、不安そうな顔をしていたが

「四郎、すげーじゃん」

「聖句で 祓っちまったな」と

朋樹とルカが来た。ジェイドの方を見てみると

やっぱり 皇帝に捕まったままだ。


「つい、式鬼札 飛ばそうとしたら

ボティスに 止められてさ」

「そ。“祓いを見る” とかって言っててさぁ。

まぁ、危なかったら やらせないだろうけどー」


ルカたちも、シェムハザやボティスに

聖子の声のことを 話したようだ。

ハティと、露を抱いたミカエルと ゾイは

何か 真面目な雰囲気で話している。


「ふむ。相手は 鉈など持っておったものを。

恐れず、また 見事であった」


霊獣たちを送ってきた榊も、扉の近くで見ていたらしい。


「姿を成した老女を、元の念に戻したであろう?

あのように集合し、姿を成した念は

もう煩悩ではない。それから成った 闇の者よ。

滅するよりないのだが... 」と

オレのグラスを取って、ワインの残りを飲んだ。


「闇靄が老女になった ってこと?」と

聞くルカに、榊が頷く。

残った念から生まれた... ということみたいだ。

念... 闇靄の状態なら、師匠が解けるしな。


「ですが 私は、祓い といったものは

実のところ、初めてのことで御座いまして... 」


「えっ!」「マジで?!」

「今までも、余裕で対処してきたじゃねぇか!」


「今生ではなく、過去の世では 無経験なのです」


「だが、過去の世でも “奇術師である” と... 」と

榊もビビっているが

「それは、“奇術” で 御座います。

海上を歩き、幾人かの盲目や足萎えを癒やしましたが」と、余計に ビビらせる。

ほとんど イエスか、その直接の弟子並だ。

奇術じゃなくて、奇跡だよな...


「兄様方の 見様 見真似 で御座います。

先に生きた世では、妖しの者等の噂は聞けど

近寄られたことがないのです。

また、憑かれた者に 私が近付くと

憑いた者が、奥に 鳴りを潜めてしまいますので

悪霊などは、法師様や 神父パードレたちが 祓われておられました」


それは多分、霊や妖したちの方が

四郎を怖がってたんだろう。


「なぁ、“字を習ってないのに 経文が読めた” っていう 逸話があるんだけど... 」


朋樹が聞くと

「はい。南蛮の文字であっても その意味が

すう っと 入って参りまして。

どのようなことが書いてあるのかは 理解出来ましたので、人々に説いておりました」と 答え

また ビビらせた。

過去、四郎を 一揆勢の総大将に立たせたのは

周囲なのか、神なのか... って 疑っちまう。


リン... と、れいの音がした。


「さて、第二陣だな」


狼姿の史月が、玄翁や真白爺の隣に座り

いつの間にか戻った琉地と、アンバーを頭に載せた イゲルも、影穴を見ている。

河の畔で休憩をしていた悪魔たちも、河を背にし

イゲルのめいを待つ。


影穴からは、修験者の格好をした天狗僧たちが

地面を錫杖で突き歩き、杖の上の遊環が音を立てる。さっきのヤツらとは違い、統率が取れている印象だ。

影穴を出た天狗僧は、オレらと向き合うように

後列から 整列し出した。

横 一列に二十人程が並ぶと、その前に また同じように、二十人程が並ぶ。


シャク という、遊環が鳴る音も 数を増し

河川敷に響く程 大きくなっていく。

前列が、防護円の すぐ前まで迫り並ぶと

影穴からは、背に黒い翼を持つ天狗僧たちが 飛び立ち、空を覆い出した。

黒翼の天狗僧には、くちばしがある。鴉天狗の集団。


「飛ぶヤツか... 」と、朋樹が眉を しかめる。

降りるまで、助力円は使えねぇもんな。


「シロウ」


皇帝の声だ。四郎が ソファーへ向かう。

代わりにジェイドと師匠が、ソファーを立ち

オレらの近くに向かって来ている。


「えー、四郎... 」

「皇帝に呼ばれたな」


四郎は 大丈夫なのか? と、気になって見てみると

ミカエルも 皇帝の方へ向かい

ソファーの前にある、テーブルセットの方の 椅子に座った。オレの隣には ゾイが立つ。


「さっきと違って、警戒してないか?」


ハティが、皇帝と四郎が座るソファーの背後に立ち、シェムハザとボティス、月夜見も

じっと 様子を伺っている。


アコが、ミカエルと同じテーブルに着いた。

イゲルへの 軍を動かすめいは、まだ出ない。


「あれ等は、何であろうかのう?」と

黒い翼を広げ、空を より暗く染める天狗たちを見上げながら、玄翁が言った。

鴉天狗じゃないのか... ?


地を突く錫杖が、シャク... 錫... と

一定の間隔を置いて 一斉に音を立てる。


リン... と、影穴から れいの音がすると

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみつたじ

照見五蘊皆空しょうけんごおんかいくう 度一切苦厄どいっさいくやく... 』と

僧たちが 心経を読み出した。

それなら、心経は効かない ということだ。

今まで見た天狗僧とは違う。


「ジェイド、天空精霊テウルギア 四方 第四皇帝配下を」と

シェムハザが言い、近くに来たジェイドが

「アステリエル、マセリエル、ガバリエル、バルカス」と 精霊たちの名を呼ぶ。


シェムハザが敷いておいたらしい

河岸や 道路際の召喚円に、白い光の人影が降り

影穴ごと囲み込んだ。


シューニャ


師匠が、天狗僧たちを ゴールドの炎に巻いた。

経は読めても 煩悩はある... ということになるが

今までの天狗僧たちとの違いは 何なんだ?


空の天狗たちは、翼を炎に巻かれたが

まだ 飛び続けている。

羽ばたく度に、ゴールドの炎に焼かれた羽根が

翼を離れ、天に昇りながら 解け消えていく。


「... なんかさぁ、すげぇ怨んでるよな」と

錫杖を鳴らし、心経を読み続ける天狗僧たちを見ながら ルカが言い、霊視をしていた朋樹が

「廃仏毀釈とかで、迫害された僧たちだ。

自分たちのことじゃなくて、経巻や仏像の破壊、

教えを排除された時の念だ」と ルカに頷いた。


野槌や、手足や眼がない天狗僧たちのように

怠けて魔道に堕ちたのではなく、

瞋恚... 怒りによって堕ちた僧のようだ。


僧たちが被っている編笠や 衣類が燃え

ゴールドの火の粉となって散り、錫杖の音に揺れる。


天狗僧たちは、両眼は閉じているが

額に、縦に開いた眼が 開いていた。


『... 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか

般若波羅蜜多心経はんにゃはらみつたしんぎょう


心経が終わると、前列の中央から

一人の僧が 錫杖で地面を突きながら歩き出し

防護円の外円に重なるように敷かれた 天使助力円の 一つ、ミカエルの助力円の上に立った。


羽ばたいていた天狗僧の 一人も

もう 一つの助力円の上に降りる。

ウリエルの助力円。


自ら、何で... ? 瞋恚のためか?


「ボティス」


皇帝に名を呼ばれた ボティスが

「助力、ミカエル。神の光。

ウリエル、神の炎」と、助力を円に降ろすと

天狗僧の円から 無数の光の線が走り、立ち上がる。火の粉を散らす天狗僧たちの首が落ちた。


羽ばたく天狗僧たちは、身体ごと 聖火に焼かれながら、ゆるゆると降下し

羽根が燃え尽き、骨になった翼を付けたまま

首の無い僧たちの 周囲に落ちていく。


聖火の赤い火と ゴールドの迦楼羅炎が燃え尽きると、錫杖が 一斉に地を突いて鳴る。

立ったままだった身体が、どろどろと黒く溶け始めた。


周囲に落ちた 天狗僧の身体が

腕骨のような 骨の翼の下で、灰になる。


どろどろと溶けた 黒い液体の面には

溶けずに残っていた首が 顔を起こした。

顔の下から 黒い液体が隆起し、次々に首を持ち上げていく。


骨の翼の下の灰が 光り始め、中に何かが居るように動き、バラバラと 灰が落ちた。

翼骨の付け根に見えるのは、人の 白い背中だ。


首を載せ、黒く隆起した液体は

首の下に肩を造り、両腕を造り、胸や腹を造る。


翼骨の背中が、白い腕で起き上がり

肩の先には、灰を落とす ブロンドやブラウンの髪の頭が付いている。腰に白い布が巻かれた姿は、灰から生まれた 天使のように見える。


黒い液体が、腰や脚を造ると

腰には 黒く長い巻衣が巻かれ、

頭部には それぞれ、一本や二本の角が 伸びていく。額の 縦の眼が開いた。

溶けた天狗僧たちは、鬼と化した。


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