10 泰河


『尊勝陀羅尼を完成させる。

だがこれは、お前の精神を ということだ』


陀羅尼は長い。

こないだみたいに、恐怖にされて

途切れちまっても困る。


『無意識下にでも 陀羅尼は吐け。

お前が発するのではない。お前に集約し 浸透した

霊気が発するのだ。

相手に、ただ苦しみを与えるな。無に帰せ』


そして その度、オレも ゼロに戻る。


阿修羅アスラを従えたのだ。信じろ』


息... 生命であり、善神にあらず。

昼であり、夜であり、どちらでもない。

阿修羅が、オレを 陀羅尼や真言... 真実の言葉を

支える守護を 信じる。もう オレのなかに在る。


本堂で、阿修羅像に合掌すると

壁を向き、胡座をかいて 姿勢を正し

呼吸を整える。


不浄が遠退いて 不浄でなくなり

霊気が満ちるごとに 壁も床も なくなる。

自然と蓮華座が開き、月に すべてが浮かぶと

オレは解け、宙に拡がる。


『ノウボバキャバテイ タレイロキャ ハラチビシシュダヤ ボウダヤ バキャバテイ タニヤタ オン ビシュダヤ... 』


『いつか お前が必要な時に、記憶に... 』


『... サンソジテイ サラバタタァギャタ キリダヤ ジシュタナウ ジシュチタ マカボダレイ バザラキャヤ... 』


霊気が 陀羅尼を浸透させた。


『... ビボウダヤ ビボウダヤ サンマンダ ハリシュデイ サラバタタァギャタ キリダヤ ジシュタノウ

ジシュチタ マカボダレイ ソワカ』


オレが、オレに戻ると もう 朝で

本堂には オレひとりだった。



「... え? オカッパ師匠さんは?」


「いなかった」



家に戻ったのか? と、思って

阿修羅像に合掌し、本堂を出て

家に戻ってみると

土間の向こうの畳の上には、オカッパの徳利と

オレがここに来た時に 着ていた服が

畳んで置いてあった。


ああ、終わったんだ...


そう悟って、作務衣から 自分の服に着替えてると

『ありがとうございました』と

徳利に合掌する。


山門を出ると、車を停めた場所まで歩き

蝉時雨の中、脇道から 舗装された道路へ出た。



「本当は、徳利 持って帰りたかったんだけどさ

無いと、オカッパが困るかもな... って 思って

そのまま置いて来たんだよな」


「そっかぁ...

でも本当は、泰河くんに くれたんだろうね...

オカッパ師匠さん、名前は何ていうのー?」


「... あ」


「えっ?! 知らないの?!」


そういや、聞いたことがない。

脳内では “オカッパ” だったしさ。


朱里は、カーキの瞼の眼を 軽く見開いてみせたが

また オレの口にグミを入れると

「徳利、まだあるのかなぁ?」と

フロントガラスの向こうに 視線を向けて言った。


オレ、なんで オカッパのこと

あんまり気にしてなかったんだ?

あの寺に戻ってみよう とかも、一度も考えたことがない。

朱里が言うように、オレの師匠なのに...


「見に行ってみてぇんだけど、いいか?」


「うん、行ってみよーよ!!

オカッパ師匠さん、お寺に いるかもよ!

あっ、虫除けスプレーとかいるよね?」


と いう訳で、ドラッグストアで虫除けを買い

コンビニで 飲み物とロリポップも買う。


一の山を越えると、あの夏にしたように

バーガーのセットを買って、食いながら あの山へ向かった。


「ドライブだね。楽しい」

「まあ、行くのは 山だけどな」


けど、朱里は ゴキゲンだ。

「泰河くんの思い出がある場所」に

オレが 連れて行くのが、嬉しいらしい。


「あっ、トンネル。昼間でも暗いよね?」

「地中だしな」


トンネルを抜けて、トイレと自動販売機がある駐車場で休憩をする。トイレは新しくなっていた。


朱里と車を降りて、どちらもトイレを済まし

虫除けスプレーをふっておく。

そろそろ蚊も出てくるし、山の虫って強いしさ。


「本当、全然 他の車がいないね」

「だろ? まあ、通勤時間とかじゃねぇし

平日だしな... 」


麓の景色が見えるベンチに座って、ちょっと話しをする。一の山の こっち側に来たし

「あれが、オレが通ってた大学」とか

指差して 教えたりしながら。


「泰河くん、ちゃんと

パパとママに 顔見せたりしてるぅ?」


「いや、あんまり...

正月、朋樹ん家には帰るんだけどな。

朱里は 実家とか帰ったりしてんのか?」


「ううんー。大学出てから帰ってないー。

まだ二年だけどぉ」


えぇ...  オレ、娘とか居たら

しょっちゅう帰って来い。って 思いそうだけどな...

オレには、兄ちゃんと姉ちゃんがいるけど、

兄ちゃんや オレは良くても

姉ちゃんが “一人暮らしする” って 言った時は

両親だけでなく、家族全員が反対気味だったしさ。


実家うちさぁ、音楽家 家庭なんだよね」


朱里ん家は、両親とも 実演家で

チェリストとピアニストらしい。


「弟はバイオリン。まだ大学生なんだけどぉ。

うちのママって、出来た人で

仕事もしながら 家事も育児も手を抜かないし、

あたしたちの学校とか、音楽の教室まで

送り迎えもしてくれて... 」


両親とも、すげぇ優しいらしい。

「とっても愛されてるし」と、本気で言える程。


朱里が、演奏会なんかで失敗しても、

“朱里ちゃん、大丈夫。次は、必ず出来るよ”... と

責められたこともないようだ。


「でも、あたしは ママみたいに

出来ないんだよね。

それで、オーケストラの楽団の試験に落ちた時に

どうしても、ママと居られなくなっちゃって... 」


“大丈夫よ、他の楽団の試験は きっと...

それに もし、朱里ちゃんが 他にしたいことが あるなら、ママ達に遠慮しないで... ”


「あたし、ママもパパも大好きで、

ママが望むあたし に、なりたかったんだよね」


オレは、期待されたこととか ねぇけど

朱里が どうつらかったか、なんとなく想像出来た。 優しくて 息苦しい。


「おう」と、眼を見ると

「聞いてくれて、ありがとう」って 笑うしさ。

ベンチから肩に抱え上げて、きゃあきゃあ言わせてやった。


車に戻って また山を登り、動物霊園を通り過ぎる。


「空気 きれいだよねー」

「おう。だいぶ登ってるしな」


よく晴れていて、のんびり走ってるので

どちらも窓は全開。涼しくて澄んだ風が入る。

周囲中、新緑と若草。初夏って感じだ。


「おっ」

「あっ、道が変わったよね?」


舗装が セメントに変わった。


「この 少し先くらいに、脇道があるはずなんだよ」

「うん! 見逃さないように しなくちゃね!」


来たくて来たのに、いざ近くまで来ると

多少 緊張する。


「泰河くん、これって 道じゃない?」


外を見ながら朱里が言ったので、車を停め

そろそろバックする。 ... これだ。


舗装の無い道は、あの時のままだった。

タイヤが跳ねた小石が車体に当たる。


けど、不思議だよな。

草の生え方まで変わりなく見える。

何十年も経った訳じゃねぇから、そんなもんか?


すぐに 道幅が狭くなってきた。

前に来た時は、軽自動車だったから

もう少し先まで行けたけど、普通車だと

ここで限界だな。


「本当に、音がないね... 」

「な? そうだろ?」


鳥の声とか しねぇんだよな。

風もないから、草もなびかねぇしさ。


車を停めて降りると、朱里が背中のシャツを掴んできたので「伸びるじゃねぇか」って 腕を貸す。

昼間でも、山ん中って 不安だろうし。


「あ... 見えて来たよ」


山門だ。また少し 緊張する。


近付いて 扉を叩いてみたけど、返事はない。

押してみると、簡単に開いたので

朱里と眼を合わせて、中に入る。


「どうする? お家から?」

「いや、まず本尊に... 」


本堂の引き戸を開け、中を確認する。

静かにたたずむ 三面六臂の阿修羅像。

あの時のままだ。

入口に立ったまま、朱里と合掌する。


「あたし、阿修羅さんって 初めて見た。

怖いんだね...

他のお寺で、たぶん お釈迦様? と

千手観音さんは 見たことあるけど」


朱里と 一緒に、しばらく阿修羅像を見つめる。

何か違和感がある。あの時の阿修羅像だよな... ?


それに、なんで今まで 忘れてたんだ?

... ここを出て すぐ、阿修羅やオカッパのことは

記憶が あやふやになった。

心経とか陀羅尼が言えるようになって

朋樹にも 自慢げに話したのに、どう話した?


本堂を出ると、朱里を連れて 裏に回ってみる。

荷物置き場の小屋も そのままだ。

入口の傍には、木桶が置いてあって

絞った雑巾が掛けてある。そんなことあるか?


「泰河くんみたいに

誰かが 修行してるのかな?」


「あ、そうか... 」


その恐れもあるよな。

オレが居た時のまま... だとか、考えちまったぜ。


それから先に、墓の方も見に行く。


「古い お墓ばかりだね」

「おう... 」


雑草は、刈り取られていた。

妙だ。雑草って、今から茂るんじゃねぇのか?

梅雨の雨と、夏の日差しで。


「どうしたのー?」と 聞くので

今 考えたことを話してみると、朱里も頷き

「うん。今の時期なら 雑草って、刈るくらいは

ないかも。

梅雨の前に、庭の花壇の お手入れを手伝ったことあるけど、まだ小さい雑草を抜いてたよ」と

首を傾げる。


「ううん...  帰る?」


腕を掴む指に、若干 力を込めて朱里が言ったが

せっかくここまで来た。

緊張して後回しにしたけど、家を覗いて行こうと思う。


小屋のような家の 引き戸の前に来ると

軽く深呼吸をして、戸を引いた。


「あっ。泰河くん、ノックしないと... 」と

朱里に言われて「すまん」と 謝りながら

土間の向こうに 視線を移すと、畳の上には

あの日と同じに、徳利が置いてあるだけだった。




********




「お留守だったね?」


車に戻ると、助手席で朱里が言う。

オレの手には、オカッパの徳利がある。

白く 厚い、ずんぐりした形のやつだ。


「でも... 」


家は、誰も住んでいない風だった。


あったはずの、鍋や膳もなく

寝ていたはずの座敷は、部屋ごとなかった。


「オカッパに、化かされたのかもな」


じゃあ、オレが

祓っちまったんじゃねぇのか? 陀羅尼で。


徳利を見ながら言うと

「でも、修行してくれたんだよね?」と

朱里も徳利を見る。


「“化かす” って、あたしは良く知らないけど

それなら、“この お寺の状態も” ってこと?」


「ん?」


「だって、お部屋が無くなったり

泰河くんが、何年か前に 出た時のままだったり... 」


「そうだな... 」


何か おかしい。


「オレさ、もう 一回見て来るから

朱里、車にいるか?」


「えっ! やだ! 一人ってムリ!!

あたしも行きたい!!」


朱里は 車にいた方が... と 考えたが

女の子と老婆の二面頭を思い出した。

何か出ても困るしな...


再び 二人で車を降りて、山門から本堂に入る。


違和感を感じたのは、阿修羅像なんだよな。

朱里を、本堂の入口近くに居させて

板張りの床に上がると、阿修羅像に近付く。


合掌し、胡座を組む。

阿息観で呼吸を整えだした時

修行してた夏に 戻った気がした。


下腹から不浄を吐き出すと、清浄な霊気を吸う。

白い八葉の蓮華座が開き、視線が上に向いた。


阿修羅像の中から、何かがオレを見る。


「オン ラタンラタト バラン タン」


オレと阿修羅像の間に、白い焔が降りた。

焔は、髪を逆立て揺らめかせる

白い男のかたちになった。


こいつ 阿修羅だ


一度、一の山の駐車場で見たのも...

獣が 取り込んでたんだ


オレに背を向けた白い阿修羅は、阿修羅像に向かい、像の額に 右の手のひらを当てた。


阿修羅の像は、合掌した両手を開いた。

その下にあった 心臓の位置に、光る靄が見える。


白い焔の髪を揺らめかせる 阿修羅の左腕に

白い焔が浮いた。下ろした右腕の 手首の内側にも。オレの模様と 逆の位置だ。


白い阿修羅は、女に、また男に 姿を変える。

振り返った顔は、ギリシャ鼻の男だった。


肩の位置に切り揃えた髪の 片眼の女になると

五つ尾の狐になり、狼、虎、鹿、鰐、大蛇、鳥...


首の長い犬か鹿のようなかたちで、

たてがみと尾、ひずめの上にも 白い焔をまとわせた獣は

オレの頭を飛び越えて、影に消える。


阿修羅像があった位置には

オカッパが倒れていた。




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