9 泰河


それからも、朝は本堂の掃除と写経。

読経に阿字観。また写経。風呂沸かして 飯。

オレは、全部になった気がして

やっぱりオレはオレ を 繰り返していた。


『今夜から、食後の 写経の後

眠る前にも 瞑想を行う』


『阿字観?』と 聞くと『真言マントラだ』と 言う。


真言というのは、サンスクリット語を そのまま音写したもので、“仏の真実の言葉” と いわれる。

短いものは、真言や神呪、密呪などと呼ばれ

仏尊によっても違い、仏や菩薩の本質を表す。

長いものは陀羅尼。


『まず 一応、大日如来の真言についてだが

慈悲を表す 胎蔵界たいぞうかいのものは

オン バザラ ダト バン

智慧を表す 金剛界こんごうかいのものは

オン アビラ ウン ケン』


『どっちを言えばいいんだ?』


『いや、どっちも言わん』


何なんだ...


飯を食い終わると、オカッパは徳利を指に ぶら下げ『本堂へ行く』と、外に出た。


裸電球がぶら下がるだけの 本堂は暗い。


『誰か分かるか?』


オカッパは、本尊を指差した。


阿修羅あしゅら


『そうだ』


そりゃあな。分かりやすいしさ。


『真言は、“オン ラタンラタト バラン タン”』


『よくあるさ、“ノウマク... ” とかは?』


『それは、“帰命きみょうする” という意味だ。

“南無” と同じ意味になる。

頭を下げて従う、というような』


へぇ...  オレは、仏弟子になるんじゃないから

いらんってことなのか?

弟子に認められねぇとかさ...


そういうことを聞いてみると、オカッパは頷いて

『従わせてみよ』と 言った。


『ええっ?! 阿修羅を?!』


オカッパは頷いて、胡座を組み

徳利から酒を飲む。


『取り込めるはずだ』


何言ってんだ、このオカッパ。


けど と、阿修羅像に向き合う。


出来る気がする...


オレは、阿修羅像に合掌し 胡座をかくと

阿息観で呼吸を整え始めた。


ゆっくりと下腹から 不浄を吐き出し

鼻から、全身から 霊気を取り入れる。


どのくらい経ったかは分からない。


あの感覚になった時に

“オン ラタンラタト バラン タン”... と

阿修羅真言を唱える。一体となるために。


気付いたら、本堂で目を覚ました。


『... あれっ?!』


オカッパもいない。

裸電球は消えていて、開け放った引き戸から

朝日が入ってくる。


『飯だ』


あっ いた。


オカッパは、家の方から 普通に歩いて来た。


『あのさ、昨日ってさ... 』


『打たれたな』


どうやらオレは、阿修羅に やられたらしかったが

何も覚えていない。


『本堂を掃除したら、家に戻れ』


『おう... 』


その日も写経と読経、阿字観に風呂炊き。

夕飯食って 写経したら

また本堂で、阿修羅に向かい合う。


そして朝、本堂で目を覚まし

また掃除をして 朝飯を食う... を 繰り返した。



「毎日 倒れちゃってたの?」


朱里は、カーキのアイシャドウの眼をオレに向け

助手席から、小さい粒のグミを オレの口にも入れながら、少し心配そうな顔をして聞く。


グミやら ロリポップやらを

バッグに だいたい常備してるんだよな。


「おう。倒れた っていうか

気付いたら いつも寝ちまってたんだよな... 」



本堂で 阿修羅に向かい合って

何日目かは 分からないが

呼吸を正し、霊気を取り入れる 阿息観の途中で

半眼にしていた眼が、自然と上に向いた。


三面の顔の オレを見下ろす正面の顔の眼と

眼が合った。


“オン ラタンラタト バラン タン”


阿修羅の足下から 白い焔が立ち上っていく。


心臓の前に 合掌する両手や

弓と矢、太陽と月を失った 四つの手のひら

高く纏め上げた宝髻ほうけい... 髪がほど

白い焔に包まれ 逆立った時、喰える と覚った。


焔が消えると、阿修羅の眼も 遠くに戻る。


『よし。やったな』


オカッパが、オレの背中に言って 笑った。



... 待てよ


逆立った 白い焔の髪の毛先を思い出す。


どこかで、見てる気がする


「えー!阿修羅さんと

一体化しちゃったってこと?!」


「いや、オレにも良く分からねぇんだけど

とりあえず勝った気はしたんだよな。

オカッパも そんなようなこと言ってたしさ」


「そうなんだぁ。でも、すごいよね?

それで、修行は終わったの?」


「その後も まだ少し続いたぜ。

“仏頂尊勝陀羅尼” っていって、釈迦如来の頭の光で、百鬼夜行まで遠ざける っていうの習ってさ」


「アタマ?」


「そう。仏陀... 釈迦如来は すげぇから

もう、頭のポコっとしてる部分に 尊格を与えて

一尊みたいにしてさ... 」



修行が終わってから、いろいろ調べたんだけど

オレが習ってたのは、密教系のやつなんだよな。


般若心経は、まあ どこでも唱えると思う。

それだけ大切な教えだしさ。


けど、大日経や金剛頂経も 密教系だし

阿字観や阿息観もそうだ。


それなら、長い陀羅尼じゃなくて

光明真言でいいんじゃねぇか?... って 思った。


“オン アボキャ ベイロシャナウ マカボダラ

マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン”


進む道を無量の光で あまねく照らし出し、

成就するよう 導いてください... と

大日如来に 帰命して祈る。


阿字観とかして、感得はさせようとするのに、

“大日如来の真言もいい” って言うし

光明真言も教えなかった。


大日如来と 一体化... 即身成仏はさせようとしても

オレの方が “従う” って位置には 置こうとしてなかった印象がある。

尊勝陀羅尼は、釈迦如来の “頭” だし、

阿修羅は “従わせろ” なのにさ。

オレ、どこにいるんだよ?



「そっかぁ。ずいぶん長く修行したんだね。

大学は休学したのー?」


「いや、それがさ... 」


家に戻ったら、二週間しか経ってなかったんだよな...  まだ全然 夏だったし。


でも絶対に、そんなはず ねぇんだよ。

体感では、半年や 一年は経ってた。

いや、もっとかもしれん。


尊勝陀羅尼は、音写を言えるだけ だけど

何せ、般若心経、大日経、金剛頂経も

読経出来るだけでなく、手本無しで全部書けるくらい 覚えちまってたしさ。


その後に、華厳経とか法華経の 一部を抜粋した経典も読んで勉強したけど、一応の概要を知るだけのことを、大学卒業しても まだやってたくらいだしな。触りしか覚えてねぇしさ。



まあ けど、とにかく

本堂の掃除と風呂炊きを含む 一日の修行は、

写経と読経は 三種の経典。阿字観。

真言は阿修羅と陀羅尼... って 増えたから

寝る前の修行は、尊勝陀羅尼だけに絞られた。


『これは、実践となる』


そうなんだよな。

オレ、祓い屋になるために 修行してたんだったしさ。何のための修行か っていう重要なとこは

修行する内に 忘れてたぜ。


『実践って、どうするんだよ?

寺の中って 何も出ねぇんだろ?

しかもオレ、そういう感 ほぼ無いぜ』


『見えぬのなら、何故 祓いをやろうと?』


『え?... 面白そうだし、見てみたいから』


オカッパは、聞かなかったことにしたようで

『寺の裏の森へ行く』と、徳利を ぶら下げ

さっさと歩いて 山門を出た。


久々に 外に出たな... と 思った。

考えてみたら、この寺に入ってから

一度も外に出ていない。


けど この時は、それをおかしいと思ってなかった。修行中だしな って くらいしか。


今 思い出してみても、蝉の声とか鳥の声も

聞いてない気がする。ほぼ無音の中にいた。

オカッパが どんな声だったのかも、忘れてしまっている。


眼は、奥二重だった。それは覚えてる。

鼻と口って、どうだったっけ?

思い出せないってことは、特徴が乏しくて

印象が薄かったんだろうな...


オカッパは、寺の裏側に出ると

寺の塀に沿って生えた木の下に 胡座をかいて

『祓う対象を探して来い』って 言うしさ。


『真っ暗じゃねぇかよ』って 文句言いながら

森の中に入ってみる。

夜の森って、闇が濃厚なんだよな。


確か、川があるって言ってたよな?

畑もある って言ってなかったっけ?

いや あっても、森の奥じゃねぇんだろうけど。


カブトムシとかクワガタいねーかな? って

木を見上げながら歩いてたら

少し先の木の幹の裏から、女の子の顔が覗いてて

ドキッとする。身体が浮いたみたいになった。


... けど、オレに見えてる。

実際の子供なのか? 迷子?


違う。


女の子の顔が180度回ると、老婆の顔があった。

何だよ あれは...


また女の子の顔に回転すると

『ケヒ』って言った。ゾワッとする。

これ、笑ったのか... ?


ここで、尊勝陀羅尼を やるべきだよな...


『... ノウボバキャバテイ タレイロキャ ハラチビシシュダヤ ボウダヤ バキャバテイ タニヤタ オン ビシュダヤ... 』


『ケヒ』って 言いやがる...

いや、負けん。


『... ビシュダヤ サマサマサンマンサババシャソハランダギャチギャガノウ ソハハンバ ビシュデイ アビシンシャトマン ソギャタバラバシャノウ... 』


老婆の顔に回転すると、皺だらけの顔が怒った。

ってことは、効いてるってことだ。


『... アミリタ ビセイケイマカマンダラハダイ アカラアカラ アユサンダラニ シュダヤシュダヤ ギャギャノウビシュデイ... 』


また回転すると『ケヒケヒケヒケヒ... 』って

機械的に声を鳴らす。

ここで、オレの陀羅尼も つい途切れちまった。


『ケヒケヒケヒケヒ... 』


笑いやがった...  クソ...

けど、ビビって ど忘れだ。

朋樹は いつも、こんなの見えてんのか?


女の子は、ケヒケヒ言いながら

顔を ぐるぐる回転させた。


『... “オン ラタンラタト バラン タン”』


つい 出たのは、阿修羅真言だった。


女の子は 回転を止め、老婆の顔が オレに向く。

何か やばい...


地面に這いつくばった老婆... 後頭部の女の子は

匍匐ほふく前進するように木の間を這って 向かって来る。


『ケヒケヒケヒケヒケヒケヒケヒケヒ... 』

『おい、ちょっ... 』


オレと老婆の間に、白い焔のような霧が

揺らめいたように見えた。もう一回 陀羅尼だ。


『... ノウボバキャバテイ タレイロキャ ハラチビシシュダヤ ボウダヤ バキャバテイ タニヤタ... 』


地面に這う 老婆と女の子から

黒い靄が立ち昇る。

ぼと っと 首が落ち、白い焔も首も身体も消えた。


かなり疲弊して、オカッパのところに戻ると

『陀羅尼を忘れたな?』と 眉間にシワを寄せる。


『おう... 』


『あの程度に怖じけるなど』


『あの程度って言ってもさ、ケヒケヒ言うんだぜ? あれ、何なんだよ?』


障涯ショウガイだ。祟り神。

様々な形のものがいる』


なんか やべぇヤツっぽいじゃねぇか...


『だが、執着は解けた。心経を』


ああ、供養か...


『“観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色”... 』


般若心経を読み終わると、夜気の中に

阿息観の時の 清い霊気が充満するのを感じた。


『良いか、泰河』


初めて名前を呼ばれて、眼だけじゃなく

精神ごと オカッパに向く。


『人間に都合の悪いものが 相手であっても

それは、“そういったもの” なのだ。

人を惑わすものも、心身を喰らうものも、

人間の敵として生まれたものではない。

邪神、悪鬼というものは、“人間から見て” ということ。すべては等しい』


阿字観の あの感覚を思い出した。

オレであって、オレじゃない。

良いも悪いもなく、全部があって 何もない。


『無に帰すも 帰されるも等しい。

お前が相手を帰すことは、お前が帰されることなのだ。だが、“情け” を忘れるな。

すべて であり、そして 人であれ』


そうか。それが向き合い方なんだ。

相手との。オレ自身との。


この時は、それが解った。しっかりと。

こうして 朱里に話してて、思い出したけどさ。

オレは、罪に囚われてたんじゃない。

オレ自身に囚われ、罪すら 遠ざけていた。


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