2 祝福 ゾイ (第八日)


海で、私がおとりを申し出た時

ミカエルが ずっと傍に居てくれた。


海に入る前に、気分を害させてしまったのに

手を引かれただけで、私は元の姿に戻ってしまった。


ミカエルが エデンから取り寄せた天衣の姿になると、片腕に抱えられて 海上を飛び、夜の暗い海に潜る。 こんなこと... と、指先が震える。


なのに そのまま、ミカエルは背後から

私の胸の下に 片腕を回してた。


リラと その血族と、契約を結んだともくされる

シュガールをおびき寄せるために、私が志願した

囮という任務中なのに

どうしても、心が浮き立ってしまう。


背中に、ミカエルの胸があって

絶対に 振り向けずにいた。


月夜の 冷たい海の中。

夏も冬も、こうして海面を見上げたリラを思うと

少し落ち着いてきて

その時のリラを知ろうと、群れで泳ぐ小魚や

海底に揺れる海藻に眼を移す。


四年の間、ひとりで いたなんて...

リラは まだ天で眠っているけれど、ザドキエルが見つけてくれて 良かったのかもしれない。


預言者としてでも、死後 愛されたいと願った

ルカに会えた。


リラは、幼い親戚の子のために 犠牲を選んだ。

その尊さに、聖霊が注がれたんじゃないかと思う。

聖霊の導きにあって、終わったはずの時間を過ごし、ルカと心を通わせた。


ルカは海にいる間、ずっと どこか遠慮がちだった。

きっと 皆が、リラの目覚めのために 一生懸命になっていることへの 遠慮だったのだろうと思う。


そのためにリラの家系のことを調べたり

私が囮になったりという、行動は仕事なのだけど

心は いつもと違う。リラを、ルカを 想ってた。


このことに携われて、私は しあわせだった。

与えられた使命を、理由も解らずにこなすのではなく、望んで向かうということ。

大切な人たちの解放や、温もりのために。


地上では きっと、皆 こうして生きている。

皆が誰かのために。人も 動物たちも。

家族のために働いたり、友人が悩んだら話を聞いたり。誰かのことを慰めたり、一緒に喜んだり。


地上の大地が、草木や花が、朝日や夕日や

こんな風に海底までもが 美しいのは

誰かが 誰かを想っているからだって思う。


触れることや 触れられることで、体内では実際に

愛情ホルモンが 分泌されるけれど

それは、心に触れても同じなんじゃないかと思う。

そうして、心に触れた 何かで、心が満ちて

その何かは、外界に降り注いで

世界を美しく染めていく。地上の魂の実り。


ミカエルの 真珠の翼に照らされて

私が身に着けた、海中に揺らめく 白い天衣は

天では見たことがないものだった。


戦闘用ではない、脚が隠れる長い丈なのだけど

袖なくて、ホールターのシンプルなドレスのような形。幅広のゴールドのベルト。

白い革のサンダル。地上のドレスみたい。


はじめて見るのに、どこかで見たことがある気もする。

天でも立ち入ったことがない、第六天ゼブル第七天アラボトの天衣なのかもしれない。


海に入って、ずっと黙っていたミカエルが 口を開いた。『掴まれよ。流されるぜ?』って...


背中を伝わる声に、ドキドキしたけれど

暗く穏やかな海中には、もちろん流れはないし

退屈なのかな? と、私は 少し笑ってしまいながら

『はい』と、回された腕に 自分の手を重ねた。


その後『来た』と 言ったミカエルの声は

その時とは 全く違って、硬質な感じ。


『掴まれ』と 命じて

私に回していた右腕に抱え上げて、海上に出ると

左腕に巻いていた 大いなる鎖を海に伸ばして

シュガールを捉えた。


ゴールドの肩当ての 片方を外すと

赤いトーガを私の頭から掛けて、肩に巻き付かせ

赤いフードを被ったようになった私を 左腕に抱え直して、つるぎを握る。


海上に翼を羽ばたかせる ミカエルの顔が

すぐ隣にあって...

私は しばらくの間、呼吸すら忘れてしまってた。


ミカエルが、シュガールの腕を落した時は

添えた指に力が入ってしまったし

海から 透明な鱗の顔を出したレヴィアタンを見た時は、おそれに 芯から震えてしまったけれど

ミカエルは、全くの平常心だった。


あのレヴィアタンを、まるで畏れていない。

もし、手に 大いなる剣があって

父が許可を出せば、

ミカエルは レヴィアタンを斬れるのだと分かる。


だけど、ミカエル本人に余裕があるから... というだけでなく、周囲にも余裕を持たせるために

“なんでもない相手” というような態度を取っている気がした。ミカエルは、天の軍の上に立つ人。


一度 十字の砂地に降りた時、私は このまま砂の上にいることになるだろうと 掴まっていた指を緩めたのだけど、ミカエルは私を抱えて海へ戻った。


“おい!” “ミカエル!” と、朋樹たちが騒ぐと

ずっと 私の方を見なかったミカエルが

赤いトーガの中の私に、ブロンドの睫毛の碧眼の眼を向けて『護る』なんて 言う。


返事なんて 出来なかった。

どうしていいかも分からなくて、ただ掴まっていて、時々 ミカエルの横顔に見惚れて。


レヴィアタンが倒れても、私は砂の上で

赤いトーガに包まれて、ミカエルの隣にいた。


『大丈夫だったか?』と 聞かれて

『はい』と 頷くけど、本当は

別の意味では とても、大丈夫じゃなかった。


ミカエルは、いつも 明るく元気なのだけれど

周囲に和やかさを与えるような雰囲気がある。

戦闘の時は、少し違って

周囲の気を落ち着かせるけれど、炎のようなものが 内在しているようで、

なんというか なんて素敵 だと いうか

素晴らしく かっこよかった...


私が天にいた千年の間は、天でも地上でも

大きな戦闘はなくて、

異教神と揉めた時や、地界と揉めた時に

ミカエルが出ることがあっても

甲冑までは身に着けることはなく

赤いトーガと 脛当てを着けるみたいだった。

そういう時、下級天使は 各持ち場の警備に当たる。だから 私たちは、戦っているミカエルを見ることはない。


だけど、ルシフェルが反逆した時のことや

天に乗り込んで来た時のこと、

父の命による 異教徒の殲滅、異教神の制圧。

何度も話しには聞いてるし、

その時の絵画や、書も残ってる。


ミカエルと共に戦う 天の軍の上級天使たちでも

ミカエルに憧れる って聞く。

そのミカエルを、間近で見れてしまった という興奮と、赤いトーガに包まれたということ。

ミカエルの腕や胸の感覚が残っていて

とても 大丈夫じゃない。

感極まってしまって、泣きそうになってた。


何が何か分からない内に、ミカエルは

『ルシフェルが来る』と 私を連れて

レヴィアタンがいない方の 海に入った。


長い足を優雅になびかせる海月が 浮遊する中で

『似合ってる』と、私に言うけど

やっぱり私は、何も答えられない。

お礼を言いたいのに、それすら言えなくて。


この時は、もうとにかく胸が いっぱいで

海に入る前に、ミカエルの気分を害してしまったことは 忘れてしまっていて

ミカエルに手を引かれて、海底を少し歩く。


膝に巻く革紐のサンダルや、ゴールドの脛当て。

海中に揺らぐ天衣や、くせのあるブロンドの髪。

真珠色の翼と、男の人の 肩や腕の形。


夢見心地のままに歩いていると

『怒ったみたいになって、ごめんな』と

私に言った。


一瞬、何のことだろう と思ったけれど

海に入る前のことだと気付いて

『そんなこと!』と、首を横に振る。


ミカエルが、私に謝るだなんて...

私は 焦ってしまって、すごく狼狽えた。

ミカエルは 天でも、偉ぶらない人だってことも

有名だけれど、まさか...


私が話さないから、気を使わせてしまったのかもしれない。ミカエルは優し過ぎる。


『地上で、寂しくなることはないか?』とか

『困っていることは?』と 聞いてくれるけど

『大丈夫です。お店のお仕事も出来るし

沙耶夏がいてくれるので... 』と 答えながら

何か話そうと考えたのだけど、

緊張してきてしまって、何も思い付けなかった。


『ルシフェル、まだ居やがんのかな... 』と

十字に割った海の向こうに、一度 顔を向けて

『最後の始末も気になるし、そろそろ戻ってみる。ファシエルは、浜の方に歩いて

落ち着いて イシュに戻ってから着替えること。

ひとりで海中を うろうろしない』と

私の頭にトーガを掛け直す。


『はい』って 頷くと、ミカエルは笑って

『じゃあ、後で』と、十字の砂地へ向かった。


ミカエルが言ったように、浜の方に向かって歩きながら、海面の月を見上げる。

水の中に揺らぐ私の髪は、まだ ブロンドのまま。


なんて夜なんだろう。

さっきまでのことを、思い返してばかりいる。


天にいる頃から、ずっと憧れてる。

だけどこれは、恋 なんだろうか?


ハティは、“恋をすれば” 身体が準じる と言ったけれど、私は、憧れを恋だと 勘違いしてしまっているんじゃないかな... と、半ば 願うように思う。


“ミカエルが見れた” とか

“声が聞けた” と、言っている間は

それで満足だった。


こうして、手が届く場所で会えてしまうばかりか

ミカエルが 私のことを

“地上にいる下級天使” だと、認識してくれてる。

ファシエルって 名前まで...


もし、もっと 欲するようになってしまったら... と

考えると、底知れぬ不安に捕われる。

こころを知ってしまうのは こわい。


歩くたびに、海面が 頭の上に近づく。


ふと、リラは こうして

夜のたびに歩いたのかな?... と 考えた。

ルカに会いたくて。恋しく 思いながら。


胸が、ぎゅうっとする。

私、どうしてそれに 気づかなかったんだろう?

今なら 気づけた気がするのに。


どうか リラが目覚めますように と、父に祈る。

ルカの恋人を。榊の人魚を。


胸に波を感じる頃には、ゾイの姿に戻っていて

海には嵐が訪れた。



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