35


まだ夕方でも、森はもう暗く寒い。

奈落のヒビから少し離れた場所に、シェムハザが

焚き火缶を取り寄せて、火を点けてくれた。

月夜見キミサマが 周囲が見える程度に、月明かりを強める。


「まずは、黒蝗クロイナゴだな」


ボティスが言うと、ハティが手のひらに

赤く小さな鳥籠を出した。中に黒蝗が入っているようだが、オレらには見えない。


「今、パイモンが黒蝗を調べている」らしいが

オレらが黒蝗を見えるようにする、ってことは

クスリか何か作るってことか?... と

ちょっと不安だ。それを服用とか 接種とかさ。


ベルゼには、黒蝗が うっすら見えるようで

白い手袋の手首の下から蝿を出し、鳥籠の細い網の間から潜り込ませた。

蝿は何かにとまって、溶け込むように消えた。

黒蝗に融合したようだ。


「よし、蝗を離してみよう」


鳥籠だけをハティが消すと、見えない黒蝗を

ベルゼがワイン色の眼で追う。

朋樹が黒蝗を追えるよう、半式鬼の蝶を付けた。


奈落のヒビに入って行ったところを見守ると

ベルゼは「モレクに辿り着くまで 暫く待つことになるが、ミカエルは 着替えてきたら?

オシャレだが、緊迫感に欠ける」と 勧め

ミカエルが 何かわからない言葉... 天の言葉で

エデンのゲートを 森に移動し、天衣に着替えに戻った。


蝿を仕込んだ黒蝗がモレクに辿り着くのを待つ間

オレらは、ちょっと緊張気味に

シェムハザお取り寄せのコーヒーを飲んでいたが

皇帝は「ジェイド。森を散歩しないか?」と

多少濃厚じゃなくなっても 相変わらずだ。


「面はどうする?」

「その頭蓋で、地上ここまで モレクとやらの

身体をおびき寄せるのだろう?」


「貸してみろ」と、月夜見が頭蓋を受け取り

持った片腕を前に伸ばし、呪を掛けると

地面から木の芽が するすると伸び、頭蓋を取り込みながら生長し、若い楠となった。

月夜見が自分の手だけを抜く。


二本角の黒い牛の頭蓋が埋め込まれた楠を

眼鏡を外した 大人顔のベルゼが観察し

「これ、半樹なかぎですよね?

オレ、木檻きおりまでしか出来ないんすけど... 」と

朋樹が月夜見に やり方を聞いている。


「数本伸ばすからだろう?」

「一本だけ伸ばすと、巻き付くだけで

対象を取り込めないので... 」


術の話って、術使い同士しか わからねぇよな。

ボティスは シェムハザやハティと難しそうな話してるし、オレとルカは退屈になってきたが

ベルゼが渡した眼鏡を 月夜見が掛けるのを

見ていると、エデンからミカエルが戻って来た。


「おおっ、すげー!!」

「ミカエル、カッコいいじゃねぇか!」


ミカエルは、天衣の肩当てから 赤いマントを着けていた。背中の部分は、両翼の下に緩やかな弧を描いて巻いている。凛として神々しい。


トーガというもので、戦闘の時も 勝手に

両翼の下に背を取り巻くように出るらしい。

甲冑は着けていないが、膝の下にもゴールドの脛当すねあてが着いている。腰にはつるぎ


「絵画の布って、それなんだ」


「そう。色も決まってる。父は金、聖母は青。

俺は赤だけど、太陽や血の赤じゃなくて 炎の色だ。ついでに悪魔は黒。寄るなよ ルシフェル」


なんかいる、と 感じて振り向くと

皇帝がルカを「聖ルカ」と 後ろから抱き締めた。


「ミカエルは、あれに 孔雀の尾羽の紋様の翼で降り、俺の胸を あの剣で貫いた」と

ルカの耳元で、一騎打ち時の説明をし始めた。

思い出して興奮しているらしい。

「ん、そうなんすか」と、ルカが前を向いたまま震える。やりたい放題だよな。


皇帝は、聖父に近い天使や聖職者がいると

どうしようもなくなるっぽく

視線は、正装のミカエルから離さない。


やっと解放されたジェイドに、シェムハザが

コーヒーを渡しながら

「ゾッとするな」「まったくだ」と

ハティやボティスが、ため息混じりにぼやいて

ミカエルを見ていた。


「あの... 息、荒くないっすか... ?」と 震えながら

ルカが聞いた時に

「辿り着いたようだ」と、眼鏡無しベルゼが

朋樹の髪の毛先を触りながら言った。

この人も要注意なんだよな。


「ミカエル」


ベルゼが呼ぶと、ミカエルは 天の言葉で

短い呪文のような言葉を唱え、左手からゴールドの蔓を伸ばし、ベルゼの合わせた両手首と

上半身に巻き付けた。


蔓の先を握り、奈落のヒビの上の虚空を見つめ

また天の言葉で呪文を唱えると

ヒビの上に、巨大な石の門が顕れた。

月明かりの下、閉じた両開きの石の扉には

一面に文字で 模様が彫られている。


「ミカエルだ! 罪人、バアル・ゼブルを捕らえた!

アバドンの元へ通せ!」


ミカエルが扉に手のひらを付けると

手の下から彫られた文字か放射状に光り出した。


「扉が ミカエルだと認識した」と

皇帝が後ろから回した腕の指で、ルカの頬を撫でながら 囁いて説明する。


「そうか。面倒で、引き渡しに来てやったが

正当な手順を踏むか? 天で審判にかける。

こいつは、幽閉天マティ第三天シェハキムの牢には入れない。

アバドン、お前が天に 罪人を迎えに上がれよ」


扉の文字の模様に、隅まで光が行き渡ると

ミカエルの手ひらの下から扉が消失した。


「歩け」と、ミカエルがベルゼに命じ

「持っていてくれ」と、ベルゼが月夜見を見て言い、二人は門をくぐる。眼鏡か...


二人が門を越えると、文字の模様の光が

隅から中心へ集中して描かれ、扉が顕現し

光が消えると同時に 門ごと消えた。


ミカエルは アバドンに、ベルゼを引き渡すため

奈落の審判の場へ向かった。


シェムハザが 奈落のヒビに向かい

「朋樹、黒蝗に付けた半式鬼の片割れを」と

一度受け取ると、呪文を唱えて また朋樹に返し

白い片羽の蝶を飛ばさせる。


片羽の蝶は、ひらひらと

ぎこちなく羽ばたきながら 奈落へ潜り

途中で壁にとまると、燐光を緩く点滅させた。


「あそこが別口の位置だな」


月夜見がヒビの内壁に手のひらを付け

呪を唱えると、内壁から木の根が突き出して伸び

蝶の位置まで降りる。


ハティが息を吹いて練金すると、木の根は

支柱のない きんの螺旋の階段になった。


「これ、純金?」と、ビビりながら聞くと

「そうだ。誰が降りると思っている?」と

皇帝がオレの顎ヒゲの先に 薬指で触れたあげくに

人差し指で くちびるをなぞる。

オレも震えて「すいません」と 謝った。


「行くか」と、ボティスが階段を降り始めたので

オレと、皇帝の腕を逃れたルカも後に続く。


「ハゲニト、シェミー。キミ。留守を頼む」


「キミって、月夜見キミサマ?」

小声でルカが聞くと、ボティスが背を向けたまま

「なかなか名は覚えんからな」と 答えた。

そうか...  眼鏡をかけた月夜見も、大して

疑問はなさそうだ。眼鏡で優しく見えるしな。


ハティとシェムハザ、月夜見は残り

奈落で何かあれば、皇帝が合図を送るらしく

それに応じて、軍や天空霊、闇靄で支援するようだ。


「ジェイド。トモキ」


おっ、朋樹が “シキ使い” から名前に変わった。

二人は、皇帝の後ろに着いて 階段を降りる。


ヒビの中は、無音に近い程 静かだ。

深い土の匂い。


螺旋に降りる度に、暗さが増すと予想していたが

月明かりを純金の階段が反射し、周囲の内壁まで見えた。


最初は 土の壁だった裂け目に、文字のような模様が見え始めた。奈落の石の扉に似ている。

白く緩い燐光を点滅させる 片羽の蝶は

もう すぐそこだ。


「着くぞ」


片羽の蝶を、胸の位置に望む位置で

唐突に階段は途切れていた。


最終段まで降りたボティスが、左手の手のひらを

模様の壁に付け、右手を胸のクロスに当てて

リュとジュの間や、ダとラの間のような

奇妙な発音で呪文を唱える。天の言葉だ。


ボティスの手のひらの下から、周囲を巻くように

文字で描く模様が光って浮き出し、取り巻くと

それが消えると同時に、ボティスの手の先に

ぽっかりと大穴が空いた。奈落内部だ。


「良し」


ボティスの足の下の最終段が 大穴まで伸び

純金の橋が架けられた。

白い片羽の蝶が ぎこちなく羽ばたいて先導する。


何の躊躇ためらいもなく先へ進むボティスの後に

オレらも続く。

今ばっかりは、後ろに皇帝がいるのが心強いぜ...


大穴の中は、土なのか石なのか わからない材質の

洞窟のようになっていて

ところどころの 壁や天井、地面にも

模様の用な文字が浮かんでは消える。


全員、皇帝ですら 黙ったまま

片羽の蝶を追って歩いたが

しばらく進むと、先は拓けているように見えた。


洞窟を抜けるという時に、ボティスが立ち止まり

前を向いたまま 後ろ手に、オレらに 開いた手のひらを向けた。“止まれ” ということだろう。


何かいる。甲冑を着ているようだが

頭が蟷螂カマキリだ。わらわらいる。


「アバドンの配下だ。待ってろ」


別口の門番たちのようだ。


ボティスだけが洞窟の出口近くまで行き

しゃがんで、地面に手のひらを着け

天使の助力円を敷く。


少し下がると「侵入者だ!」と叫んだ。


甲冑を着た蟷螂頭が洞窟に走り込むと

「助力、ウリエル」と、それを炎で焼く。

洞窟の向こうでも、甲冑の中から焼かれる

蟷螂頭たちが見えた。


「良し」と、焼け落ちた蟷螂頭を踏み越えて

ボティスは洞窟から出た。

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