18 琉加


オレンジの空気の中を、ジェイドと

壁の残骸の向こうへ向かう。


男は、オレらに気づいた。


「何をしている?」


ジェイドが男に聞く。


『これを、踏んでくれ』


男とオレらの間には、金属の板があった。

絵踏みだ。

磨耗しているが、磔のキリストが彫ってある。


『信仰を捨て去る必要はない。これは ただの板だ。足裏が触れるだけでもいい。

頼むから、踏んで助かってくれ。頼む... 』


オレが踏もうかと前に出ると、ジェイドがオレを止めた。


男の足元に 黒い枷が浮き出る。

そこから鎖が伸びていく。


でも、十字架は出現しない。


鎖は 草の中に沈んだ。

草の中を蛇のように伸び進んでいく。


もうすぐ夕日は この山の向こう側に沈む。


『踏めぬなら、十字架を立てなければならない。

磔になどしたくない。

穴を掘らねばならない。吊る前に、ただ

棄教する と言ってくれればいい』


こいつが 立ててるのか?

河原の十字架や、海に立ったというものも。


穴を...?

いずれにしても棄教を迫る拷問のためのものだ。

あるいは処刑のためのもの。


「僕は、神父パードレだ」


ジェイドが 男に言うと、男の眼が潤んだ。


「信徒だな」


「マジかよ?!」


この役人の霊が?


「死なずに信仰を守れ と、逃がしたのか?」


男は 涙を流した。

空気はもう、青い薄闇の色。


『... 生きなければと』


正しい。オレは そう思う。

きっと たくさんの命が救われたんだ。


だけど、ならなんで

この男は出るんだろう?


「誘惑したか」


誘惑だって?

なんで そうなるんだよ?


オレは そう聞こうとして、ジェイドの眼を見た。


背後に離れて、竈の緩い灯り。

ますます夜に近づいた薄闇の中で

ジェイドは慈悲の眼差しを 男に向けていた。


『生き延びて尚、信仰を守った者は

自ら命を絶つことも叶わず... 』


生きて、苦しんだ


そうか。


もし、母さんが その時代に

踏み絵を踏んだとしたら

その後、自分を許せないだろう。


けれど 自殺は罪だ。

それも許されない。


砂を噛んで生きるか

死んだように生きるか。


神が赦しても、自分で自分を許せない。


だけど


「だけど、救ったんだよ。

だって、どうしろって言うんだよ?

こんなこと 人が勝手にやったことじゃねーかよ。

だから、そんな... 」


言葉が続かない。


そんな風に考えることはない

オレが それを言うには、あまりに無責任だ。


オレは、幼い頃に洗礼を受けている。

クリスチャンネームは 本名と同じ。


信仰は、ないに等しい。



『毎夜、おこがましくも祈っていた。

棄教せず逝った者のために。

だが、生き延びた者には 顔向けすら...

いつしか、祈ることも

主の名を口にすることも出来なくなっていた』


男は、夜の闇に白くぼんやりと浮く。


『この場から身動きが出来なくなった。

死しても、どこにも。

ただ虚ろに眠っては目覚める。

目覚めては、記憶もまた目を覚ます』


「眠るのは、祈りによるものか?」


歴史の記憶。

男が目覚めた時に、それは起こるのか...


『目覚めると、神父パードレが来る。

あの教会の神父が。

生き延びた者は、穴の先の地の下で祈った。

その地の先から神父が来る。それは光だ。

神父が祈ると 眠りの闇に落ちるが

神父が召されると、また目覚めてしまう

記憶と共に』


男は、それを呪いだという。

目覚めては待ち続けること。

自分で自分にかけた呪いなのだと。


『今も、どこかに十字架が立っている。

この枷の鎖の先に』


「どうしたい?」


静かな声でジェイドが男に聞く。


「今 僕が祈っても、いつか僕が召されたら

あなたは また目を覚ます」


『枷を...  もう、目覚めるのは... 』


「わかった。

ルカ、僕のザックに聖油が入っている。

取ってくれないか?」


「聖油? なんで... 」


言いながら オレは、教会でのリンを思い出していた。


「悪魔として祓う」


何 言ってんだよ?


「おまえ、自分が言ってること... 」


「聖水では効かない。それは おまえにも わかるはずだ。ただのゴーストじゃない。

彼は枷そのものなんだ。元を祓わないと」


つい ジェイドの胸ぐらを掴む。


「ふざけんなよ。他に何かあるだろ?」


悪魔だと? そんな訳ないだろ。

彼は 人の命を救っただけだ。


『いや。どうか終わらせてくれ。

地獄インヘルノに堕ちるものだと思っていた。

地獄にすら行けず、目覚めると地獄を見る。

どうか... 』


ジェイドは 胸ぐらのオレの手を外すと

「琉地、僕のザックを頼む」と、背後に呼びかける。


琉地が ザックをくわえて運んでくると

本当に聖油を取り出した。

サバイバルツールからはマッチも取り出す。


「名前を」と、男に聞く。


『田口 恵志郎』


「聖父と聖子と聖霊のみ名のもと 汝に告ぐ。

田口恵志郎。速やかに立ち去れるよう」


ジェイドは 彼の頭から聖油をかけた。

聖油は 彼の頭から身体を通過して足元に落ちる。


マジで やるのかよ... ?



「天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように」


彼は眼を閉じた。まるで、祈るように。


彼のおかげで、たくさんの命が救われたんだ。

こんなこと おかしいんじゃないか?


「みこころが天に行われるとおり

地にも行われますように」


今、この国に教会があるのも

彼みたいな人がいたからだろ? 繋がってるんだ。


でも 教えに背いた 心は...


ジェイドはマッチを擦り、彼の足元に投げると

聖油が赤く燃え立ち、彼を包む。

思わず 足元に視線を落としそうになる。


いや 眼を、背ける訳にはいかない。


「わたしたちの日ごとの糧を

今日もお与えください

わたしたちの罪をおゆるしください

わたしたちも人をゆるします」


“主よ” と彼のくちびるが動いた。

足の枷が燃え尽きた。塵が空気にほどける。


「わたしたちを誘惑におちいらせず

悪からお救いください アーメン」


聖油の炎が 地に沈んで消える。

残った煙と共に、眼を閉じた彼も解けて消えた。

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