ローズの涙

 それは思春期だからですよ、という言葉が、クリスの喉まで出かかった。が、それを実際に発することはなかった。思春期には、誰もが通る道で、別に悩むことはないのだと。けれどもその言葉は、ローズが欲しているものではないだろうと思われた。


「私は――」ローズは話を続けている。「先生のところにもっとちゃんと通うべきで……でも恐ろしかったの。上手く使えない自分の力が。というよりも、己の力をきちんと制御できなくなってしまったということが。恐ろしかったの。だから逃げていたのね。時折思うわ、こんな力なくなってしまえばいい、と。実際にあるんでしょ。長じるにつれて魔力がなくなるということが。そんなことがあればいいな、と。でも――」


 ローズはさらに俯いた。柔らかな髪が顔の横で揺れた。クリスの位置からは表情がよく見えなくなった。


「でも……それは怖い。それはもっと怖いの。魔力がなくなってしまうことが。だって――せっかくみんなに期待されて……それがなくなってしまったりなんかしたら、私は、……私……」


 ローズの声が途切れた。泣いているのだ、とわかった。クリスは動揺し、途方に暮れた。泣かれるのは辛い。どうにかして慰めたいと思う。けれども慰め方がわからない。


 よい言葉など、何一つ思い浮かばなかった。ベルベットは、と見ると、テーブルの下でローズを見上げていた。ベルベットもまた困惑しているようだった。クリスは立ち上がり、ローズの側にいって、その丸まった背を撫でてあげたい気持ちになった。けれどもそれはできなかった。ローズに触れることは躊躇いがあって、こんな時間に部屋の中に二人きりで異性に触れるのもどうなのかと思われるのだった。それにローズが嫌がるかもしれない。


 静寂の中に、ローズの押し殺した泣き声だけが聞こえていた。クリスは黙ったままで、ただ、テーブルの下の自身の包帯に触れたのだった。




――――




 ローズが屋敷に戻ると、そこにはヴェインがいた。ちょうど玄関を入ったところで、彼女に遭遇した。玄関ホールに、壁の灯りの下に、ヴェインは立っていたのだった。


 長身を伸ばし、ローズを見ていた。顔にあまり感情は表れていない。怒ってはいないようだったが、にこやかでもなかった。この先生はいつもこうだわ、とローズは思った。


「どこへ行っていたのですか?」


 ヴェインが尋ねた。


「少し……庭を散歩していました」


 ローズは答える。クリスの家で感情を吐露して、その後少し落ち着いてから戻ってきたのだ。うっかり泣いてしまった。泣くことによってすっきりとしたような気持ちはある。けれどもクリスの前で泣いたことが今はとても恥ずかしかった。なるべく考えないようにしたいことだった。


 そのことはもちろん、ヴェインに言うつもりはなかった。ヴェインは詳しく聞く様子はないようだった。「そうですか」と素っ気なく言って、その場を離れようとした。それをローズが引き留めた。


「先生」


 ローズの声に、ヴェインが足を止めた。ローズはヴェインに言った。


「先生。すみません。これからはちゃんと授業に出ます。でも、先生。教えてほしいことがあるんです」

「なんでしょう」


 真面目な、何を考えているのかわからない顔でヴェインがローズを見ている。ローズは意を決して言った。


「大叔母さまの魔力のことです。魔力の気配があるって、私は言いましたよね。先生は否定されましたが……。でも、やっぱり私のほうが正しいんじゃないかと思うんです」

「どうしてそう思うんですか?」

「それは……」


 ローズは黙った。大叔母の部屋であったことを言うべきだと思った。が、何故かやはり気が進まなかった。ローズは黙り、視線を逸らした。迷いがあった。姉やクリスの言葉が思い出される。話したほうがいいのだろう、が――。とりあえず、ローズは再び視線を上げた。ヴェインと目が合った。ヴェインは身体をこちらに向けている。電灯の下でやたらに大きく、その姿が見える。


「この家には何かがありますよね。何が隠されているんですか?」


 結局、大叔母の部屋でのことは言わず、ローズは尋ねた。ヴェインの表情は動かなかった。「隠されている?」小さな声でヴェインは言った。そして、ローズに向かってきっぱりと言葉を発した。


「いいえ、何も隠されていませんよ。私は最初からそう言っているでしょう」


 ローズはまた黙った。話したいという気持ちは今やなくなっていた。




――――




 翌日は雨だった。クリスはジェンキンズじいさんとともに庭の作業小屋にいた。仕事道具の手入れをする。ベルベットも一緒だ。


 雨はそんなに強くはないが、しつこく振り続けている。雨音が響く小屋の中、二人は無言で作業を進めていた。と、ジェンキンズが口を開いた。無口な老人であまり喋ることはない。話し方もいささか不器用だ。


「ローズお嬢さんと喧嘩でもしたのかね」


 クリスははっとした。昨日の出来事が、使用人経由でジェンキンズにも伝わったのだろう。クリスは手首の包帯を見た。そして苦笑いを浮かべた。


「えっと、ちょっとした事故がありまして……」

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