2. 夜の庭

夜の庭

 ジャスパー家に来て、最初の夜を迎えた。初めてのベッドで、クリスは少し寝付かれなかった。環境にまだ慣れず、興奮しているせいもある。けれどもやがて、少しずつ睡魔がやってきた。ことんと眠りに落ち、そしてふいに覚めた。


 何故目覚めたのかよくわからなかった。月明りの夜で、カーテン越しにも光が入り、辺りはそんなに暗くはない。がたがたと小さな物音がした。これで目が覚めたのかも、とクリスは思い、音のする方向を見た。寝室のドアの辺りから聞こえる。


 そこにはベルベットがいた。ベルベットはいつも、ベッドの上でクリスの足元で、くるりと丸くなって尻尾に顔を埋めて眠る。一度眠れば朝まで起きない。けれども今夜は違っていた。ドアをひっかいてみたり、うろうろしてみたり、何やら落ち着きがない。外に出たいのだろうか、とクリスは思った。


 試しに寝室のドアを開けてみる。ベルベットはするりと出て、今度は玄関に向かった。そしてまた同じような行動をとる。外、つまり戸外に出たいのだなとクリスは思った。理由はわからない。今までこんなことはなかった。気になるのでとりあえず出してやろうと思う。ベルベット一匹では不安なので、自分もついていくことにする。


 一端、寝室に戻り、着替えて懐中電灯を持って、ベルベットと一緒に外に出た。大きな月が照っていた。闇夜ではない。むしろ明るい。白く明るい世界だった。月光が影を作り、地面をまだらに染めていた。こんな夜更けに外に出ることはあまりない。クリスは多少、愉快な気持ちになった。


 足元を、ベルベットが駆けていく。慌ててクリスもそれを追った。昼間は普通の庭も、夜だと奇妙に見えるものだ。木々は大きく、高さを増したように思える。草花たちは頭を垂れて眠っている。ベルベットを追ううちに、クリスは前方に光と人影が見えることに気付いた。白っぽい服を着ている。長い髪をたなびかせ……クリスはぎょっとした。一体こんな時間に何者なのか。


 思わず立ち止まったが、ベルベットは止まらず、そちらに駆けていく。謎の人影もまたこっちに気付いたのか、止まった。クリスはまじまじとその人影を見た。小柄な身体。おそらく少女だ。自分よりわずかに年下くらいの……。


 クリスは歩き出し、少女に近づいていった。輪郭がさらにはっきりしていく。向こうもまた、こちらを見て驚いていた。大きな目が警戒心を持ってこちらを見ている。気の強そうな、けれども美しい顔――。昼間に会った少女だった。ジャスパー家の末娘、ローズだ。




――――




「あの……」


 クリスはローズに声をかけた。しかし何といえばいいのだろう。今は夜だから、「こんばんは」かな。けれどもそれはなんだか違う気がした。けれどもさりとて、他に言葉が見つからない。


「こんばんは」


 なので、とりあえず、言ってみることにした。ローズも警戒を解かぬままに、それでも少し頭を下げて言う。「こんばんは」


「……どうしてこんなところにいるんですか?」


 クリスの言葉に、ローズは身構えながら答えた。


「それはこちらの台詞よ」


 確かにそうであろう。今日入った新人の使用人が、真夜中に一人で庭をうろうろしている。怪しいことこの上ない。


「えっと、ベルベットが外に出たがっていて、それで出したんです、ベルベットだけじゃ不安だからついでに僕も……」


 ローズは足元を歩いているベルベットを見た。興味を持ったように、じっと見ている。


「竜って、夜の散歩が好きなものなの?」

「いえ、そういうわけではないんですが、今日はなんだか特別で……」


 ローズはしゃがみ込み、じっとベルベットを見た。ベルベットも立ち止まってローズを見ている。


「噛む?」


 ローズが尋ねた。もちろんベルベットのことを言っているのであろう。クリスは答えた。


「大丈夫ですよ」


 おずおずとローズが片手をベルベットに差し出した。掌を上に向けて、こちらには敵意はありませんよと示すように。ベルベットがそっと近づいて、匂いを嗅ぐように掌に顔を近づけた。


 ローズの手がそっとベルベットの頬から、そして首筋へと触れた。優しくゆっくりと撫でている。ベルベットも大人しく、撫でられるままになっている。ローズの声がした。


「かわいい」


 和やかな、笑みを含む声だった。夜で暗いのと、ローズがしゃがんでいることもあって、表情はよく見えない。けれどもローズがベルベットを気に入ったのであろうことはわかった。少しして、ローズが立ち上がった。その表情はまた硬いものだった。月明りのせいか、白い頬がさらに白く見える。


「それで、あの、あなたはどうしてここに……」


 それが気になっているのだ。けれどもローズは口を噤んだままだ。クリスを見ていたが、すっと視線を逸らした。言いたくないのだろう。けれどもこんな少女がこんな夜中に、ふらふらと外を歩いているなど、あまり尋常ではない。


 ローズの恰好は普段着だった。つまり寝間着ではない。着替えて何かしらの意図をもって外に出てきたのであろう。クリスはローズの言葉を待った。無理に聞き出すのは難しいかもと思われたからだ。

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