第6話 一杯千円以上の酒たちを安いと感じるそれまでに(鹿児島県鹿児島市 Cocktail処ゆらぎ)



 幸か不孝か、俺は酒が飲めるようになってすぐにバーという文化の真髄を見た。

 それ以来、バーという場所と洋酒にいくらほどの金をつぎ込むことになったかは推して知るべしだが、有意義な時間と投資だと信じている。


 生まれて初めて行ったバーには、今でもよく足を運んでいる。 

 鹿児島の繁華街・天文館にほど近い場所にある『ゆらぎ』という名前のバーだ。


 当時、鹿児島の大学で気ままな学生生活を過ごすかたわら、ある居酒屋でアルバイトをしていた俺は、店のメニュー表に書いてある『山崎』だの『白州』だの『響』だのいう単語がどうにも気になっていた。ウイスキーというやつだ。当時は製法も文化も何も知らなかったが、カシスオレンジだのペシェウーロンだの見知ったカクテルが並ぶメニュー表の端の方に、独特の存在感を持って鎮座しているそいつらが、当時今よりも青かった俺には無性に格好よく見えた。


 俺は早速に酒屋で角のベビーボトルを買い求め飲んでみたが、四〇度のそいつはとても飲めたものではない。ウイスキーを好き好んで飲むやつの気が知れなかった。


 だが、先述の『ゆらぎ』でウイスキーをベースに作るカクテルを飲んでから、俺はウイスキーの沼にどっぷりと嵌っていくことになる。


 『ゆらぎ』で初めて飲んだ酒は今でも鮮明に覚えている。ジム・ビームというアメリカのバーボン・ウイスキーを使って作るカクテル『ジョン・コリンズ』だ。

 今でも時折、俺はジョン・コリンズを作るためだけにジム・ビームを買うことがある程だ。


 バイト先の先輩は、生まれも育ちも天文館という生粋の天文館人だった。

 天文館の飲食業者はだいたい友達、みたいな具合で、夜の街で稼いだ金を夜の街で使うという究極のエコシステムを担う人材の一人だった。


 俺は先輩に、天文館で一番良いバーは何処かと尋ねた。

 その時に先輩が教えてくれた店が『ゆらぎ』だった。バイト先からは、そう遠くない場所だった。

 遠くはないが入るのには勇気が要った。薄暗いビルの奥のぽつんと暖色の明かりが灯っていて、店の看板と重厚な木の扉があるその前で、もうちょっとマシな服を着てくれば良かったな、と、後悔した。

 そんな数分間の立ち往生の末、俺はようやく『ゆらぎ』の扉を開いた次第だ。


 店の中は、蝋燭と小さな間接照明のみで薄暗い。十席ほどのカウンターとテーブル席がひとつで、人で賑わってはいるが喧しくはない。カウンターの向こうにはライトアップされたグラスと数百本の洋酒の瓶が宝石の様に輝いていて(クサい表現だが本当にそんな感じだ)、その間の空間を数人のバーテンダーが動いていた。

 まるで映画の中に入り込んだ様な雰囲気に気圧されながら、俺は促されるまま席に着き、バーテンダー(良い男だなと思った)に良い香りのお絞りとメニューを貰った。

 「お酒はあまり詳しくないので、何か教えて頂けますか?」という内容を彼に話すと、好きなお酒の種類や、炭酸は使っても大丈夫か、といった幾つかの質問をした後、「ジョン・コリンズというカクテルをお作りしますね」と言って、作業を始めた。


 メニュー表には、スタンダードカクテルと著名な数点のウイスキーの銘柄しか書かれていなかった。

 『ゆらぎ』で作れないカクテルは殆ど無いのだろう。

 その時の客の気分や好きな酒、旬の果物などで、その都度おすすめのカクテルを出す、といった風だ。


 クリスタルのタンブラーグラスに入って出て来た『ジョン・コリンズ』を飲みながら、俺はバーテンダーといくつかの会話をした。言うまでもないがその『ジョン・コリンズ』は格別に美味かった。

 俺の中では若干恥ずかしい思い出だ。こんなドイヒーなエッセイを人様にさらしておいて今更恥もなにもあったものではないが、その時の俺は、酒と雰囲気にすっかり酔ってしまい『ジャズが好きで、Bill Evansというピアニストの大ファンだ』という類いの話を、バーテンダーに話してしまったのだった。ジャズファンの会合でもあるまいに、そんな話を振られても困るだろうと、言ってしまった後悔で俺は内心焦ったのだが、そのバーテンダーはなんとBill Evansを知っており、アルバムもこの店にいくつかあると教えてくれた後、店のBGMをEvansのアルバムに変えてくれたのだった。


 『ゆらぎ』での感動の全ては到底文章には起こせないけれど、それ以来俺はすっかり『ゆらぎ』の、そしてそのバーテンダーの虜になってしまっていた。


 __そんな話を、先日、天文館での飲み会の席で部活の後輩に話していた俺は、話しているうちにすっかり気分が盛り上がってしまい、ぜひとも今夜『ゆらぎ』にもう一度行ってみようという事になった。バイトを辞め、就活や卒論に追われて、夜の天文館を歩くのはほんとうに久しぶりだった。今から『ゆらぎ』に行くと思うと心が躍った。


 オーセンティックなバーというのは大学生にとって決して安い店ではない。

 金銭的な都合もあって『ゆらぎ』に行くのは一年半振りくらいだった。


 店の前で緊張しつつも、俺は重厚な木の扉を開け、まるで扉の外とは別の世界であるような、輝く洋酒の瓶の数々や、薄暗い店内を見渡して、数度来た場所であるにも関わらずため息を吐きほうけてしまう。

 カウンターの真ん中辺りの席に座ると、ようやっと店のBGMが耳に入った。

 Bill Evansのアルバム『Explorations』だ。

 それは全くの偶然だったが、俺にはなにかの巡り合わせのように思えた。

 まるで映画のワンシーンの様な出来事じゃないか__そう思って、例によっていい香りのお絞りで手を拭きつつ、俺はカウンターの向こうに目を向けた。

 俺に一番近い場所で、見知った顔のバーテンダーが作業をしていた。

 彼だった。当時よりも更に良い男になっている。


 今日、店が慌ただしくなければ、二年前と同じ内容でも良いから、彼とEvansの話をしたいな、と思った。

 そのバーテンダーがこちらを見た。目が合う。会釈をすると、彼はにこやかに笑って「お久し振りで御座います」と言った。

 そして、唖然とする俺に向かい、事もなげに「今、丁度Evansの『Explorations』が流れてございますよ」と言った。


 俺の事を、二年前に話した内容まで覚えてくれていたのだった。

 俺が抱かれて良いと思った男は、未だもってそのバーテンダーだけである。

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