第7話 魔女と俺の十年(鹿児島市荒田町)



「私の死に場所はヴェニスと決めているの」


『魔女』はそう言って、カップの紅茶を一口飲み、ゆっくりとソーサーに置いた。


 館の前の大通では、もう秋が終わろうとしていた。

 南へと急ぐ木枯らしが、甲突川の並木道から枯葉を攫い、路面電車の鈍色のレイルの上に落としていた。他に客の居ない館にはクラシックのレコードが流れていたが、それが誰の曲だったかは、もう覚えていない。磨き込まれた硝子のテーブルには、『魔女』の物憂げな表情が映り込んでいた。そこに置かれたボーン・チャイナのカップの中で、エディアールのダージリンの凛々しい赤色が揺らめいていた。


 俺が、鹿児島市の荒田という地に住む『魔女』と出会ってから、もうすぐ十年になる。

 魔女の館は、鹿児島市内を檸檬の形に切り取る路面電車の線路沿い、とある大通の一角の、時代から取り残されたような古いビルディングの中にあった。その一階で、魔女は娘達と共に、生花と西洋骨董を取り扱う店を営んでいた。


 木枠の硝子扉を開けた先にある店内には、幾つかのテーブル席とカウンターがあり、その席席を囲むように、折々の時代と場所から集められてきた西洋骨董達が静かな眠りについていた。天井に設えられたシャンデリアと洋燈がそれらを飴色に照らすので、館の中はまるで、永遠の夕焼けを宿命づけられていたようだった。


 日々無機的な色を纏いつつあった当時の鹿児島の市街地で、まるでそこだけ、時の流れから置いていかれたような――館はそういう店だった。



 店主の老婦人は、自身をメイルと名乗った。その名は昔、異国の知人に付けて貰ったものなのだと、ずっと後になってから知った。うねるような長い黒髪、十六年物のラガヴーリンを思わせる蠱惑的に枯れた声、子どものようにつぶらな瞳――そうした、彼女を構成する物語然としたパーツ達の中で、鹿児島人特有のイントネーションだけが、どこかお茶目に浮いていた。

 俺はメイルを、心のなかで『魔女』と呼んでいた。


 来客を持て成すとき以外は、いつも魔女はそんな骨董品店の片隅で、紅茶のカップを片手に何か思索に耽っていた。それが彼女の仕事の流儀だった。

 驚く事に、魔女の副職は(本職が魔女であるのは言うまでもない)花屋でも古物商でもなく、建築士だった。彼女の手掛ける作品達はいずれも、やはり彼女の館のように、どこか異界じみた雰囲気を持つ、独特の空間に成長した。少しずつ周囲と同化してゆく日本の地方都市に、ひとつひとつ、そうした秘密の小宇宙メゾンを作る彼女の姿は、さながら啓蒙に勤しむ敬虔な修道者のようにも見えた。


 俺は時折に魔女の館を訪れた。館はいつだって俺を受け入れてくれた。それは大概、講義が午前中に終わり、部室に行くにはまだ早く、少し心持ちに余裕のある午後の事だ。館に入り、一杯の紅茶(もしくは珈琲)を頼む。魔女の娘はカウンターの向こう側でケトルに火を掛け湯を沸かし、白磁のポットでじっくりと茶葉を蒸らす。そうして、俺に一杯の紅茶を出し終えると、カウンターを立ち去ってゆく。


 西洋骨董と飴色の光だけが支配するその部屋で、俺はコートに忍ばせていた読みかけの文庫本を開き、ダージリンの豊かな香りを楽しむ――


 四回生の秋の事である。

 当時大学の写真部に在籍していた俺は、新作の撮影場所にかの館を使わせて欲しいと『魔女』に持ちかけた。『魔女』はそれを快く受け入れてくれた。それを期に、彼女と俺の間柄は、客と店主というものから少しだけ近まったように思えた。

 その年の冬、出来上がった写真を持って館を訪れた俺に『魔女』は言った。


「人を一人、雇おうと思っているの。そろそろ大学の掲示板に、求人を張りに行かないといけないわ」


 ――魔女のしもべ

 それはなんとエキゾティックな仕事だろうと、俺は思った。

 そして同時に、そんな仕事が、地方大学の生協の、食堂脇の掲示板に細々と貼られた一枚のポスターを介して求められているというその事実に、衝撃を受けた。

 俺は、自分が四回生であることを、強く悔やんだ。当時もう就職活動が終わっていて、来年の春には卒業だったので、今俺が魔女の僕になったとしても、その魅惑的な仕事は半年も経たずに辞めざるを得なくなる。


 俺は自分が留年しなかった事を後悔したが、今となっては後の祭り。

 俺は第二の手を打つ事にした。


「その手間は不要ですよ、メイル」


 俺は言った。


「数日戴きたい。きっとここへ、新しい従業員しもべをお連れしましょう」


✳︎✳︎✳︎


 数日と約束をしたが、実際は数時間も掛からなかった。

 魔女の館を出た俺がその足で写真部の部室に行きその話をすると、いつも暇そうにしていた後輩がすぐに名乗りを上げたからだ。後日、後輩は魔女の館に赴き、面接ののち、かの店の従業員しもべとなった。彼は魔女から『マイケル』の名を賜った。マイケルはその後、約二年半に渡り魔女の館で働いた。


 それ以来、約十年に渡って、我が栄光の写真部の部員達は、入れ替わり立ち代り、魔女の館で働くことになった。魔女メイルは館で働く一人ひとりに名前を付けた。部員達はそれぞれ『キャサリン』『パスカル』『ジェローム』などと名付けられた。


 時折、マイケルは俺に、魔女の館での出来事を話してくれた。

 その中でも俺のお気に入りのエピソードが二つある。

 一つ目は、ある夏の盛りに、魔女が館の前に氷旗を掲げようとして娘さんに叱られたという話。

 二つ目は、マイケルが魔女に連れられて、鹿児島中央駅裏のビッグカメラに魔女の新しいiPadを買いに行った時の話。


 大学を卒業しても、俺は年に数回、館を訪れた。俺は魔女に近況を伝え、魔女もまた、日々の雑感を語ってくれた。マイケルはもう大学を卒業して帝都に旅立った後だった。俺は魔女に会う度に「『マイケル』が最近連絡を寄越さない」という苦情のような何かを聞いた。俺はその度、マイケルにその旨をラインで伝えた。


✳︎✳︎✳︎


 魔女と出会って九年後の冬。

 俺は手慰みで書いていた長編小説『魔王とカリラ』の取材のため、スコットランドの幻獣の事を調べていた。タイトル名とスコットランドという地を聞いてはたと気づいた方がいらっしゃるかも知れないが、ウィスキーを主題にした話である。俺の著作はえっちな話ばかりがPV数を稼ぐので、読者の皆様方には出来ればその小説の方も併せてご覧頂きたいと思う次第だが、まあそれは今どうでもよろしい。

 取材の中で、ひとつ気になる記事を見つけた。

 水辺に住む馬の幻獣、ケルピーの事である。


 ケルピーは手綱をつけた若い馬の格好で道端に佇み、歩き疲れた旅人を待ち受けているという。旅人が背中に乗ると、そのまま川をめがけて疾走し、水深が一番深いところまで潜ってしまうため、泳げない人間には大変な災難となる。

 また、時には人に化ける事もあるという。


 人に化ける幻獣というのはいかにも物語的で素敵だと思い、俺はそのケルピーなるファタスティック・ビーストの事をもっと詳しく調べてみる事にした。

 そうして文献を読み進めていく中で、ある一文を読んだ瞬間、俺は言葉を失った。



 ――この幻獣について、イギリスの本『ケルピークリュエイター』にはこう記述されている。

「大きな水色の魚のような尾を持つ馬がいる。種はケルピー、名はメイル。彼の主はジョナサン・クリックという」――



✳︎✳︎✳︎


 後日、俺は鹿児島にいた。

 友人の結婚式出席のための訪問であったが、折角の三連休だったので、小説の取材を兼ね、鹿児島の南端にある本坊酒造の津貫蒸留所に行ってウィスキーの蒸留工程を見学しようという事になった。


 朝八時半。ホテルを出て鹿児島中央駅のスターバックスで朝食を済ませたのち、バス停前にて連れと落ち合う。連れは当時写真部に在籍していて、魔女の館で働いていた事もある男、パスカルであった。

 俺はパスカルとともに十六番のバス停に向かい、津貫に至る加世田行きのバスに乗り込んだ。


 雨ともみぞれともつかぬものが降る、曇天の寒い日だった。

 揺れる車内は閑散としていて、南に向かうにつれ他の客は降りていった。しばらくもしないうちに、山道を蛇行する車内にいるのは俺とパスカルだけとなった。


「パスカル」

「なんだい、nyone(俺の名前だ)」

「もしかしたら、なんだけど」

「うん」


 パスカルにこの話をして良いものか――俺は逡巡したが、やがて意を決して、口を開いた。


「魔女は……メイルは、水辺の生き物かも知れない」


 俺はパスカルに、事の顛末を説明した。そうしないでは居られなかった。彼もまた、魔女に魅了された一人だったから、俺は彼にもそれを知る権利があると思った。


 更に言うと、俺は魔女の隠された秘密を、ひた隠しにする事が出来なかったのだ。パスカルになら打ち明けても良いと思ったし、何より、魔女の館で働いていたパスカルならば、俺のその発見を裏付ける、なんらかの秘密を持っているかも知れない――そうした打算があった事は、否定しようもなかった。


「nyone(俺の名前だ)」


 話を聞いてしばらく、パスカルは何かを思い悩むように口を閉ざしたあと、恐る恐るといった口調で、その事実を俺に教えてくれた。


「メイルは、ところてんが好きだ」

「……っ!」


 バスは加世田に着こうとしていた。いつの間にか車内には人の気配が多くなり、バスの向こうには大きなニシムタ(※)が見えていた。運転手は赤信号にさしかかるたびクラッチを踏み、俺とパスカルの間に横たわる空気を断絶した。


「彼女はところてんが――大好きだ」


 パスカルは窓の外に顔を向け、鹿児島に降り積もる雪を見ていた。


「よく、食べているんだ」


 ――ああ。

 まるでジグソーパズルを解き終える直前の一瞬のような、ある種の全能感と寂寞が、俺とパスカルの座る後部座席に漂っていた。

 俺は、九年前に、魔女メイルが言ったあの一言を、思い返していた。


 ――私の死に場所はヴェニスと決めているの。


 揺れるバスの中、俺はシートにもたれ、目を閉じた。

 あの時の魔女の言葉の裏側には、いかような歴史が、物語が、覚悟があったのだろう――未だ若造の年を抜けぬ俺にとって、彼女の生き様を想像するのは、カフェ・フロリアンの弦楽を止めるよりも難しい事だった。


 やがてバスは、乗り換え地点である大きなニシムタの前のロータリーに辿り着いた。

 バスを降りた俺は自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを開け、甘く安っぽいその香りに顔を埋め、津貫に至るバスを、ただひたすらに待っていた。

 そうしながら、極東の片隅の美しき骨董品店で、古く美しい品々に囲まれ、一人郷里に想いを馳せながら、ところてんを食す魔女の姿を想像していた。

 …………



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