第2話 おはぎに挫折(熊本県八代市 日奈久温泉)
社会人になって三年目くらいの頃、狂ったように温泉地に足を運んでいた。
丁度、父が愛車を手放し、勿体無いのでそれを引き取った頃だった。
車は今でも使っている。廃車の時は泣くだろう。
それはさておき。
父から譲り受けた車で、地元九州のほうぼうを巡り湯に浸かり、その土地を歩いていた時期がある。
その徒然なる旅の中で最も気に入ったのが南熊本である。
湯布院や別府や阿蘇などに代表される九州の温泉強者とはどうにも水をあけられている感が否めない、ひなびた温泉街が、南熊本の至る所に点在している。
客から金を取る術をあまり知らぬ風で、その朴訥な感じが自分の不器用な性分とかみ合うところがあり一方的に気に入っていた。
その中で特に『激シブ』と言わしめる温泉郷が、熊本県八代にある
ちなみに日奈久と漢字で書いてもその読み方は九州人でさえ分からないと返されるのが日常茶飯事な程、地元においてもマイナーな土地である。
穏やかな
街中にある宿は全て大正時代の木造建築という具合だ。
別に意図したわけではなく、ただ単に時代に取り残されただけであるというのがなんとも心地よい。
その証拠という訳ではないが、土産物を買おうにも街中にある商店が竹細工屋と竹輪屋しかないという徹底振りだ。
そんな日奈久温泉の、
荷物を置いて人心地ついた俺が「ちょっと外に出てきます」と仲居さんに告げると、仲居さんが心底不思議そうな顔で「どちらへ行かれるのですか?」と聞いてくる。
仲居さんの危惧の通り、日奈久は自分のような軟弱なにわか温泉旅行者が足を踏み入れるのはいささかレベルの高い場所で……という訳ではないが、日奈久はただ温泉が湧いているだけの普通の住宅街なのだと認識いただきたい。ほんとうに、なにもないのだ。
三十分ほどをかけ街中のほとんどを巡り、地元の酒屋でにごり酒を購入して宿に戻る。その折、酒屋の御主人の粋な計らいでさやえんどうのスナックを頂いた。観光客が珍しかったに違いない。
その後宿にて、シャワーも蛇口もない風呂場の温泉で至福のひと時を過ごし、あてがわれた部屋で決して豪華とは言えぬ夕食をとり、パソコンを開いて何くれとテキストを打ちながらにごり酒を飲む。
温泉は貸切だった。客は自分しか居ないようである。大丈夫だろうか。
作業にひと段落ついて酒を一口、テレビ横のラックを見ると、カラー刷りの旅行誌の横にいかにも有志が作った風の、サイズは小さいが趣味の良いフリーペーパーが置いてあるのを見つけた。
『日奈久の歩き方』だとか、確かそういうタイトルの冊子だったと記憶している。
古い温泉街を愛してやまない若者達が作ったと思しきその冊子には、マイナーながら土地に根ざした魅力に溢れる日奈久温泉のアピールポイントが、ゆるいイラストとともに記してあった。
その中に特に気になった記事を見つけた。
日奈久の街中にある、
しかしその千扇、バーと謳っておきながら作っているのは酒でも時間でもなくおはぎなのだという。訳が分からない。
千扇のママは、元々バーを営んでいた主人亡き後、屋号をそのままに、その地でおはぎを売って暮らしているという事である。
おはぎを小豆やもち米から作っていく過程が好きなのだそうで、ママは朝三時に起きて、釜一杯分の米を炊き、その米でもっておはぎを作る。七時には、バーの入り口のショーケースに、作りたての二個入り百円のおはぎが並ぶ。
そのおはぎ達は早くとも午前中に、日によっては開店間もなく売り切れてしまうという事である。
その中で特に面白いエピソードがあった。こんな話だ。
ある早朝、まだ日も昇らぬ頃合いに、千扇のママが所用で二、三件隣の家に出かけた。
おはぎの予約があったので、店の奥におはぎを一個、ショーケースには並べずに置いた。
出かけた時間は五分もなかったが、店に戻ったママの眼前にあったのは、店の奥に置いたはずの消えたおはぎと、置いていたはずの場所にある小銭だった。
予約客にはおはぎは渡らなかった、という話である。
千扇のおはぎに俄然興味が湧いた。
おはぎの味は、恐らく地元の叔母の作るものとそう変わるまいが、今はそんな事はどうでもよろしい。
なんとしても、そのおはぎを手に入れなければ。そういう気持ちになっていた。
俺は早速、夕食の膳を下げにきた仲居さんに断った。
「すみません、明日の朝六時頃、ちょっと宿を出ます」
「ああ、千扇に行かれるのですか?」
ばればれである。
仲居さんは尚も言葉を続ける。
「恐らく明日は六時に行っても間に合わないと思いますが」
愕然とした。
店は六時か七時に開くのではなかったか。その頃に既に売り切れるとはどういう了見か。
驚愕に顔を歪める俺を慮ってか、仲居さんが地元民ならではといった提案を持ちかけてきた。
「よろしければ、今から千扇さんに電話して、明日のおはぎを一つ取り置いて置きましょうか?」
なんと予約がきくという訳である。さすが地元民!
俺は自身の人生においておはぎを予約する日が来ようとは露ほども思わなんだが、一も二もなく仲居さんの提案に乗った。仲居さんは千扇に電話をかけるべく、一旦辞した。
数分後、部屋の襖を開けた仲居さんは、実に申し訳なさそうな顔で、俺にこう言った。
「すみません、明日の分のおはぎ、全部売り切れちゃってたみたいで……」
俺はついぞ
千扇のママは元気にしているだろうか。
出来れば彼女が釜戸から離れるその日までに、一度はそのおはぎを食いたい所存であるが、一方でそのおはぎの味を幻想のままに止めておくのも冴えたやりかたかも知れぬという考えもあり、この文章を書くにあたって久々に当時を思い返す自分としてはなんとも面映ゆい心持ちである。
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