第18話部員⑥
放課後とはいえ、まだ残っている教師が多い。眉を顰めてノートパソコンに向かっている人や、紙へペンを走らせる人。主の姿がないデスクの上にもファイルが積み重ねられており、蓋の空いた缶飲料が置かれている。
その室内の奥の方。後ろ側の扉に近いブロックの窓側の端で、柔らかな灰色のスーツを着た白髪混じりの男性がのほほんとマグを傾けている。見たところ年齢は古義の父よりずっと上だ。
「田渕先生」
明崎の発した名前に、その男性が二人を捉える。
にこり、と。目尻の皺を深くしながら優しく微笑んで、ゆっくりとマグを置く。
「おや、先程深間くんと日下部くんが来たので、終わりだと思ってたんですがねぇ」
「残念ですがもう一人お願いします」
「残念だなんてとんでもない。青天の霹靂ではありますがね」
渡された入部届を温かな笑顔のまま受け取って、決して上手くはないが大きく太く"古義和舞"と書かれた名へ目を通す。
「古義くん」
「っハイ!」
落ち着いた声色で紡がれた自身の名に、古義はピシリと背筋を伸ばす。
ゆっくりと、古義を捉えた田渕は孫を見るように柔らかく目元を緩めて。
「ソフトは、楽しいですか?」
「え?」
突然の問いに、思わず戸惑いの声が漏れる。今まで経験のない古義からしたら、ソフトボールに触れたのはあの日の一回こっきりだ。
楽しいか、どうか。判別するには、まだ日が浅すぎるのでは。
古義の困惑を察知したのか、明崎が「古義は経験者じゃないですよ」と横から助け船を出してくれるが、それにも田渕は「そうですが」と頷くのみで、先ほどの問いを撤回するつもりはないようだ。古義の答えを待つように、にこにこと笑顔のまま見上げている。
少なくとも。この場には古義にとって恩人でもある部長の明崎がおり、問ういているのは監督も担っているであろう顧問だ。
空気の読めない性格ではない。"楽しい"と答えたほうが今後の為にも最善だと察知出来ているのだが。
「……わかんない、です」
「ほう?」
「オレ、野球はやってましたけど、蒼海センパイの球見てソフトは全然違うんだって思い知りました。……なんで、まだ始めてもいないんで、楽しいかどうかはわかんないすけど」
しっかりと、感じたままに。
「ワクワクしてます。今は早く覚えて、上手くなって、試合に出たいって思ってます」
飾らない古義の本心。試合が全てではないと切り捨てられてしまえばそれまでだが、中学時代の苦悩が未だ根強く意識下に巣食っているせいか、どうしても試合へと固執してしまう。だからこれは、古義にとっての絶対事項なのだ。今度こそと、脳が叫んでいる。
田渕は笑みを携えたまま深く頷くと、引き出しから判を取り出し入部届へそっと押す。そして再び古義を捉え、染みこむような声色で。
「その感覚を、言葉を、忘れないでください」
「っ」
たった、一言。それだけを古義へ告げると横の引き出しから一枚の紙を取り出し「明崎くん、コレをお願いします」と明崎へと手渡す。
受け取った明崎には馴染みのある内容らしい。「ああ、そうか」と思い出したように小さく零して、「了解です」と田渕へ首肯する。
「じゃ、戻るか」
「っ、ハイ!」
「先生はまた後で」と踵を返した明崎を追い、古義も田渕へ軽く会釈して「失礼しました」と職員室を出る。
顧問といえば、練習時は常にグラウンドにいた記憶がある。高校では違うのだろうか。
「監督って常に練習を見ているモンじゃないんすか?」
「ああ、田渕先生は顧問だけど監督ってワケじゃないからな」
「え?」
「一応相談とかには乗ってもらうけど、オレが兼任してんだ。部の立ち上げには顧問が必須でさ。て言っても知らない先生には頼みに行きづらいし、ダメ元で仲良かった田渕先生にお願いしてみたら引き受けてくれてな。助かったよ、全教師に顔と名前覚えられるなんて事になんなくて……」
「ああ……それはイヤっすね」
学年中の教師に名前を知られるという事は、些細な事でも常に「ああ、アイツか」と意識下に残る事になる。
想像した窮屈な学生生活に寒気が背筋を駆け上がるのを感じながら、古義は少しだけ落胆する。
という事は、田渕は技術的な指導者ではない事になる。上手くなる為には、センパイ達の技術を見て盗むしかない。
「そんな不安がるなって!」
「イッ!?」
バシリと勢い良く背中を叩かれ、わけがわからないと見上げた明崎。
ニッと古義に笑みを向けると、「大丈夫だいじょーぶ」と繋げる。
「ウチのヤツら結構面倒見いいし、つきっきりは難しいだろうけどオレもちゃんと教えてやるから。だから安心して励めよ!」
ポンポンと今度は軽く背を叩かれ、古義は「あざす」と視線を落とす。
明崎の観察眼が鋭いのか、顔に出やすいのか。どうもこうしてフォローされることが多い。
(……こーゆーカタチも、あるんだな)
センパイは絶対な存在。そう叩きこまれた中学時代では、レギュラーではない古義が上級生と会話をする事自体少なかった。
ましてや部長なんて。一対一で話したのは片手で足りる程度だったと記憶している。
人数が少ない、という要因もあるのだろうが、こうして気にかけて尚且つ引っ張ってくれるような上下関係は、少なからずも古義にとっては衝撃である。
明崎には申し訳ないが、まるで。
(……兄ちゃんみてー)
「……明崎センパイ」
「ん?」
「オレ、頑張ります」
「声、かけてくれて……ありがとうございました」と。照れくさそうに視線を逸らしたまま小さく頭を下げた古義に、明崎は一瞬瞠目して。
こそばゆさを隠すように頭を掻いて、「期待してるぞ、新人」と肩下の柔らかな髪を潰した。
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